『今を生きる』と言う思想 〜不確実な未来からの解放のために
『今を生きる』と言う思想 〜不確実な未来からの解放のために
仏教(前後際断)・キリスト教(山上の垂訓)・実存主義(主体的生き方)における「不確実性からの自由」
人間には、まだ存在しない未来を想像する能力がある。明日の危険に備え、長期的な計画を立て、現在の欲望を抑えて行動できるのは、この能力のおかげである。しかし未来を思い描く力は、同時に不安を生み出す。
病気になるかもしれない。 努力が報われないかもしれない。 選択を誤るかもしれない。 大切なものを失うかもしれない。 しかも、どれほど情報を集め、慎重に考えても、未来を完全に確定することはできない。そこで人は、安心できる保証が得られるまで決断を延期したり、まだ起きていない出来事を頭の中で繰り返したりする。未来に備えているつもりが、未来によって現在を奪われてしまうのである。
仏教の「前後際断」、キリスト教の「山上の垂訓」、そして宗教的保証を前提としない実存主義が提唱する「主体的生き方」には、この状態から人間を解放しようとする共通の志向がある。
未来の不確実性そのものからの解放ではなく、未来を確実にできなければ現在を生きられない状態からの解放である。
三つの思想は、それぞれ異なる仕方で「未来が見えないまま、いまを生きる」可能性を探究してきた。
仏教 〜未来を所有しようとする執着から離れる
「前後際断」は、釈迦自身が用いた定型句というより、無常・無我・縁起という仏教の基本的な洞察を、後世の禅、とくに道元が時間論的に深めた表現である。
道元は『正法眼蔵』「現成公案」(著者注1)で、薪と灰を例に挙げる。通常、私たちは薪が燃えて灰になると考える。これは因果的には正しい。しかし、薪を「やがて灰になる途中のもの」、灰を「かつて薪だったもの」としてだけ見るなら、薪が薪として存在する時、灰が灰として存在する時を、それ自体として見ることができない。
薪には薪の「法位」があり、灰には灰の「法位」がある。前後の連続は存在するが、それぞれの時は他の時に従属する不完全な通過点ではない。このように、一つ一つの時がその時として十全に現れていることを、「前後際断」と表現する。
したがって、前後際断は過去を忘れ、未来を考えない刹那主義ではない。仏教には因果や業の観念があり、現在の行為が未来を形づくることは否定されていない。断たれるのは時間の連続そのものではなく、現在を過去の結果や未来の手段としてしか評価できない心の執着である。
私たちはしばしば、 「将来成功すれば、現在の努力には意味があったことになる」 「病気が治れば、いまの苦痛も報われる」 「いつか理想の自分になれば、現在の自分を肯定できる」 と考える。 しかし、そのように考えるかぎり、現在の価値はつねに未来へ先送りされる。未来が確定しないかぎり、現在を安心して生きることができない。
仏教によれば、すべてのものは条件によって生じ、絶えず変化している。変化するものを完全に支配し、永続的に所有することはできない。それにもかかわらず、「こうならなければならない」「この状態が続かなければならない」と握りしめるところに苦が生じる。
したがって、未来が不確実であることだけが苦の原因なのではない。不確実な未来を確実なものとして所有しようとする渇愛が、苦を増幅させるのである。
仏教的な解放とは、「未来はきっと安全だ」と信じることではない。無常である未来を無常なものとして受け入れながら、現在の行為を余すところなく生きることである。
キリスト教 〜未来を神に委ね、今日の責任を引き受ける
新約聖書の「山上の垂訓」には、「明日のことを思い悩むな」という教えがある。(著者注2:マタイによる福音書:第6章) 空の鳥や野の花は、自らの未来を完全に管理しなくても、神によって生かされている。人間もまた、明日を支配しようとして今日を失ってはならない、と説かれる。
これは、将来を計画せず、何が起きても放置すればよいという教えではない。その中心にあるのは、未来を自分の力だけで保証しようとする態度を手放し、究極的には神に委ねるという信頼である。
[詳しくは、コラム:次世代に伝えたい偉人伝⑥:『セーレン・キルケゴール』 〜「実存」という新しい視座の創造を、参照下さい。]
キリスト教において、人間は自分だけで完結した存在ではない。生命も能力も時間も、神から与えられたものと考えられる。人間に求められるのは、すべての結果を支配することではなく、与えられた今日という時間の中で、神と隣人に誠実に応答することである。
キリスト教の「現在」は、過去や未来から切り離された一瞬ではない。創造という始まりを背負い、神の国と救済という未来へ開かれた現在である。未来は予測によって所有されるものではなく、希望によって待ち望まれるものとなる。
ここでいう希望は、単純な楽観主義とは異なる。楽観主義は「おそらく物事は望んだとおりになる」と予測する。しかしキリスト教的希望は、自分の願った結果が得られると保証するものではない。病気が治らないことも、努力が報われないことも、祈りに期待した答えが与えられないこともあり得る。それでも、苦痛や失敗や死が存在の最終的な意味ではないと信頼する。
イエス自身も、苦難を前にして何の動揺も示さなかったわけではない。ゲツセマネでは恐れ、悲しみ、自らに迫る死を避けたいと祈った。そのうえで、自分の願いを述べながらも、最後には未来を神へ委ねた。したがってキリスト教的信頼とは、不安を感じないことではなく、不安の中でも自分を支えているものとの関係を失わないことである。 この信頼によって、人は未来の支配者になろうとする重荷から降りることができる。
ただし、それは責任を放棄することではない。未来を神に委ねるからこそ、今日出会う人を愛し、苦しむ人を助け、不正に抵抗し、自分に与えられた務めを果たす。
キリスト教における不確実性からの解放とは、「すべてが思いどおりになる」という保証ではない。 結果を知ることができなくても、自分は孤立しておらず、今日なすべき愛の実践があるという信頼である。
世俗的実存主義:『主体的生き方』 〜保証のない世界で、それでも選ぶ
実存主義のすべてが無宗教なのではない。キルケゴールのように、キリスト教信仰を中心に据えた実存思想家もいる。ここで扱うのは、主としてハイデガーやサルトル、カミュのように、神による意味の保証を前提としない立場である。
世俗的実存主義は、仏教の解脱やキリスト教の救済に相当する、超越的な保証を置かない。世界が人間のために作られ、人生にあらかじめ意味や目的が与えられているとは考えない。
サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉が示すように、人間には、どのように生きるべきかを決めた完成済みの本質がない。人はまず世界の中に存在し、その後の選択と行為を通して、自分が何者であるかを形成する。
しかし、選択の正しさを完全に証明してから選ぶことはできない。未来の結果も、他者の反応も、自分が後にどう変化するかも分からない。それでも、人は選ばなければならない。選ばないという態度もまた、一つの選択となる。
この不確実性から生じる不安は、単なる心の異常ではない。それは、自分には複数の可能性があり、自分の生き方を運命や社会へ全面的に委ねることができないという、自由の自覚でもある。未来が完全に決まっているなら、選択も責任も存在しない。未来が不確実だからこそ、人間は自由である。
ハイデガーが重視した本来的な「瞬間」も、現在の感覚だけに集中することではない。人間は、出生、時代、身体、過去の出来事など、自分では選べなかった条件の中に投げ込まれている。同時に、まだ実現していない未来の可能性へ向かって生きている。
本来的に生きるとは、過去を忘れ、未来を考えないことではない。自分の過去と有限性を引き受けながら、未来の可能性を現在において選び取ることである。ここで現在は、過去と未来を切断した点ではなく、過去を引き受け、未来を選択する決断の場となる。
カミュの不条理の思想も、最終的な意味の保証を待たずに生きる態度を示している。人間は世界に意味を求めるが、世界は明確な答えを返してくれない。しかし、意味が保証されないことは、ただちに虚無や諦めを意味しない。保証のない世界で、なお生き、他者と連帯し、不正に反抗することができる。
世俗的実存主義における解放とは、不確実性を消すことではない。不確実なまま自分で選び、その選択に責任を負う力を獲得することである。
三つの思想に共通する運動
仏教、キリスト教、世俗的実存主義は、同じ世界観へ至る三つの道ではない。
仏教は、無常と無我を洞察し、自己と未来への執着から離れる。キリスト教は、人格的な神への信頼と愛の中で、未来を委ねる。世俗的実存主義は、超越的な保証なしに、自由と責任を引き受ける。仏教では固定的な自己への執着が問題となり、キリスト教では神との関係が中心となり、実存主義では自ら選択する主体が前面に出る。
それでも、三つの思想には共通する運動がある。 第一に、人間の知識と支配には限界があると認めること。 第二に、未来の保証を得るまで現在の生を保留することをやめること。 第三に、自分に可能な注意、愛、選択、行為を現在へ取り戻すこと。 第四に、不確実性を抱えたまま、他者と世界に応答することである。
この共通性を、「現在に集中すれば不安がなくなる」という心理技法に還元してはならない。三つの思想とも、不安の完全な消去を約束しているわけではない。
仏教は不安への執着をほどき、 キリスト教は不安の中で神を信頼し、 実存主義は不安を自由の条件として引き受ける。 それぞれの仕方で、不安とともに行為できる人間を目指している。
不確実性は自由と希望の条件でもある
未来の不確実性は、苦悩の原因であると同時に、自由と希望の条件でもある。
もし未来が完全に決定されているなら、新しい可能性も本当の選択も存在しない。未来が開かれているからこそ、人は過去によって決定され尽くさず、これまでとは異なる行為を始めることができる。
不確実性を受け入れるとは、希望を捨てることではない。希望を「望んだ結果が保証されていること」から解放することである。
また、「今を生きる」ことは、社会的不正や病気に対する諦めを意味しない。仏教には慈悲の実践があり、キリスト教には隣人愛があり、実存主義には社会参加と責任がある。未来を完全には支配できないことと、未来に働きかけることは矛盾しない。むしろ、結果を保証できないからこそ、現在の行為が自由な選択として意味をもつ。
未来を確定せずに、現在を始める
「今を生きる」という言葉は、ともすれば刹那的な快楽や将来への無責任と誤解される。しかし成熟した現在志向は、過去を学び、未来を計画したうえで、それでも現在を単なる準備期間にしない。
未来に備えるが、未来を完全に支配できるとは考えない。 結果を願うが、結果が確定するまで行動を延期しない。 失敗の可能性を認めながら、いま行いうる最善を選ぶ。
仏教は「未来への執着を手放し、この時を生きよ」と語る。 キリスト教は「未来を神に委ね、今日の愛を実践せよ」と語る。 世俗的実存主義は「保証のない世界で、それでも自ら選べ」と語る。 根拠は異なっていても、そこには一つの共通した知恵がある。
私たちを解放するのは、未来について何も考えないことではない。また、未来はきっと安全だと思い込むことでもない。未来が見えないままでも、現在を生き始められることである。
「今を生きる」とは、未来の不確実性から逃れることではない。 不確実性を抱えながら、現在の生を未来の保証の人質にしないことなのである。
著者あとがき 〜「今を生きる」を実践するマインドフルネス
思想として「今を生きる」ことを理解するのと、それを日常生活の中で実践することとの間には、なお大きな隔たりがある。私たちの心は、気がつけば過去の後悔や未来の不安へ連れ去られている。この心の働きを力ずくで止めることは難しい。その隔たりを埋める一つの助けとなるのが、マインドフルネスである。
マインドフルネスとは、呼吸や身体感覚、感情、思考など、いま生じている経験に、評価を急がず注意を向ける実践である。
大切なのは、未来について考えないことではない。たとえば「きっと失敗する」と思ったとき、それを未来の事実として受け取るのではなく、「いま、失敗を予測する思考が生じている」と気づくことである。このわずかな言い換えによって、私たちは思考と現実の間に距離を取り戻すことができる。
そのうえで、「いま実行できる具体的な準備があるか」と問い直す。できることがあれば行い、現時点ではできることがなければ、呼吸や身体、目の前の仕事や対話へ注意を戻す。これは未来を無視する態度ではない。必要な備えと、答えの出ない心配とを見分ける練習である。
マインドフルネスは、それ自体が仏教、キリスト教、実存主義を一つにまとめる世界観なのではない。 しかし、仏教においては執着を手放すことを、キリスト教においては未来を委ねて今日の愛を実践することを、実存主義においては保証のないまま選択することを、日々の経験に結びつける助けとなり得る。
「今を生きる」とは、不安が消えた特別な心境に到達することではない。不安によって心が未来へ運び去られたとき、そのたびに現在へ戻り、ここで可能な行為を選び直すことである。マインドフルネスとは、その小さな帰還を繰り返す実践にほかならない。
未来が確実になるのを待ってから生き始めるのではなく、不確実な未来へ向かう一歩を、現在から踏み出す。そのための静かで具体的な方法として、マインドフルネスは「今を生きる」という思想を、日々の生き方へと変えてくれるのである。
(著者注1)道元『正法眼蔵』「現成公案」の思想
「現成公案」は、『正法眼蔵』を代表する巻の一つであり、道元の思想の核心が凝縮されている。 「現成」とは真理が具体的な事物や行為として現れること、「公案」とは誰にでも開かれた仏法の真実を意味する。ここで道元が問うのは、私たちが世界の外側から真理を眺めることではなく、日々の生そのものにおいて真理がどのように実現するかである。
道元は、「自己をはこんで万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」と述べる。 自分を中心に置き、世界を自分の目的や判断に従わせようとするのが迷いである。反対に、自己への固執を離れ、あらゆる事物との関係のなかで自己が照らし出されることが悟りである。
この考えは、「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」という有名な言葉へ続く。 自己を忘れるとは、自分を消滅させることではない。独立した固定的な自己という思い込みを手放し、身体、他者、自然、行為との関係のなかで自分が成立していることを体得することである。悟りは自己の内面に所有される特別な状態ではなく、「万法に証せらるる」、すなわち世界の側から自己が明らかにされる出来事なのである。 薪と灰の比喩では、薪が燃えて灰になるという時間的連続を認めながらも、薪は薪の時に、灰は灰の時に、それぞれの存在を完全に現していると説く。 “現在を過去の結果や未来への途中としてだけ捉えてはならない。前後はありながら、それぞれの時は他の時に従属しない。”これが「前後際断」である。生と死についても同様に、生は生として、死は死として、その時の全体を成している。
また、水中に月が映っても月は壊れず、水も乱されないという比喩は、普遍的な真理が一人ひとりの限られた生のなかに完全に現れ得ることを示す。魚は水を、鳥は空を尽くして活動するが、その全体を外側から知ることはない。人間もまた、世界を完全に把握してから生きるのではなく、置かれた場所で行為すること(今を生きること)によって世界と自己を知る。
したがって「現成公案」の中心は、悟りを日常生活の外にある完成状態と考えない点にある。仏法はどこにでも存在するから修行は不要なのではない。風が常に存在していても、扇ぐことによって初めて涼しさが現れるように、真理は坐禅や日々の行為を通して具体的に現成する。
修行と悟り、自己と世界、日常と真理を分離せず、“今ここでの行為を余すところなく生きること。”それが「現成公案」の根本思想である。
(著者注)マタイによる福音書第6章25〜34節
25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
