HPA軸
(視床下部-下垂体-副腎系)とうつ病の知られざる関係
- 「脳の火事」が心を枯らす:HPA軸とうつ病の知られざる関係
1. 私たちの体を守る司令塔「HPA軸」とは?
私たちの体には、ストレスに即座に対応するための精巧なシステムが備わっています。それがHPA軸(視床下部-下垂体-副腎系)です。これは、脳と内臓をつなぐ「ストレス応答の三段リレー」のようなものです。- ● 第一走者:視床下部 (Hypothalamus) 脳がストレスを感知すると、司令塔である視床下部から「CRH(放出ホルモン)」という合図が出されます。
- ● 第二走者:下垂体 (Pituitary) その合図を受け取った下垂体は、中継役として「ACTH(刺激ホルモン)」を血中に放出します。
- ● アンカー:副腎 (Adrenal) 最終的に、副腎が「コルチゾール(ストレスホルモン)」を分泌します。
2. うつ病の始まりは「ブレーキの故障」
ところが、長期間のストレスが続くと、このブレーキが壊れてしまいます。脳のセンサーの感度が鈍くなり、脳は「まだピンチだ!」と勘違いしてアクセルを踏み続けてしまうのです。その結果、血中のコルチゾール濃度が高いまま下がらない「高コルチゾール血症」に陥ります。 この状態が続くと、脳の特定の部位が物理的なダメージを受け始めます。- 海馬(かいば)の萎縮:記憶を司る海馬は過剰なコルチゾールに弱く、細胞がダメージを受けて縮んでしまいます。これが「物忘れ」や「思考力の低下」の正体です。
- 扁桃体(へんとうたい)の過活動:不安を司る扁桃体が過敏になり、些細なことでも強い不安や恐怖を感じやすくなります。
3. 「脳の火事」:慢性炎症とうつ病の新たな接点
近年、うつ病研究で最も注目されているのが「慢性的な微細炎症」です。本来、コルチゾールは炎症を抑える働きがありますが、うつ病の慢性期には免疫細胞が命令を聞かなくなる「グルココルチコイド抵抗性」が生じます。 抑えの効かなくなった免疫細胞から「サイトカイン」という炎症物質が放出され、脳へと流れ込みます。これが脳内で持続的な「ボヤ」のような炎症を引き起こし、神経細胞をジワジワと傷つけていくのです。4. 幸せホルモンが「毒」に変わる?キヌレニン経路の罠
炎症が脳に及ぼす影響の中でも、特に深刻なのが「セロトニン強奪事件」です。 私たちが穏やかでいるために必要なセロトニンは、原料となる「トリプトファン」から作られます。しかし、脳内で炎症が起きると、この原料が別のルートに奪われてしまいます。【キヌレニン経路の悲劇】 炎症によって活性化した酵素が、トリプトファンをセロトニンにさせず、「キヌレニン経路」へと流し込みます。その結果、セロトニンが枯渇するだけでなく、脳を攻撃する「キノリン酸(神経毒)」が生成されてしまうのです。つまり、炎症が起きている脳内では、幸せの材料がわざわざ「脳を傷つけるための材料」に作り替えられてしまうという、悲劇的なすり替えが起きているのです。
5. 暴走する掃除屋:マイクログリアの反乱
脳内には免疫を司る「マイクログリア」という細胞がいます。通常は脳内の掃除屋として働きますが、炎症信号を受け取ると「暴走モード」に突入します。 彼らは守るべき神経細胞の接合部(シナプス)を敵と見なし、過剰に削り取ってしまいます。これにより、脳のネットワークが寸断され、感情のコントロールや情報の処理がさらに困難になります。これがうつ病の回復を妨げる大きな要因となります。結び:あなたは悪くない、システムが疲れているだけ
うつ病による気力の減退や不安、思考停止。これらは決して性格の問題ではなく、HPA軸という精密機械がオーバーヒートし、脳内で小さな火事が起きている状態の現れです。 「頑張れない」のは、脳が自分を守るために強制的にシャットダウンしている証拠です。回復には、以下の「システムのリセット」が必要です。- 物理的な休養:HPA軸の修理時間を確保する。
- 適切な治療:抗うつ薬などで脳の炎症を鎮め、神経の再生(BDNF)を促す。
- 抗炎症な生活:質の良い睡眠、オメガ3脂肪酸などの食事、適度な運動。
脳には「可塑性(かそせい)」という、傷ついても修復し、変化していく力が備わっています。正しいケアと時間があれば、システムは必ず再起動できるのです。
