次世代に伝えたい偉人伝⑨:ルイ・アルチュセール 〜イデオロギーから社会構造、そして社会的主体へ
次世代に伝えたい偉人伝⑨:ルイ・アルチュセール 〜イデオロギーから社会構造、そして社会的主体へ
ルイ・アルチュセールの思想 〜構造主義的マルクス主義
「自分の人生は、自分の意志で選んでいる」 私たちは、ふつうそう考えています。どの学校へ進むのか、どの仕事に就くのか、誰と家庭を築くのか。もちろん、そこには本人の意思や努力があります。しかし、その選択肢そのものは、本当に自分だけで作り出したものなのでしょうか。 私たちは生まれたときから、家族の中で名前を与えられ、学校では「生徒」として扱われ、職場では「社員」「専門職」「管理職」といった役割を与えられます。そして、よい子、優秀な学生、責任ある社会人、立派な親とはどのような人間かを、いつの間にか学んでいきます。
フランスの哲学者ルイ・アルチュセール(1918~1990)は、こうした問いを徹底して考えた思想家です。 彼の思想を一言でいえば、自らの意識や意志だけを出発点とせず、自分を形作っている社会構造、制度、言語、習慣から、歴史を考えようという思想です。
アルチュセールは一般に「構造主義的マルクス主義」の思想家と呼ばれます。しかし、その思想は単なるマルクスの解説ではありません。 人間はどのように社会的な「主体」になるのか。 社会はなぜ同じ秩序を繰り返し再生産できるのか。 私たちが自分自身の考えだと思っているものは、どこまで本当に自分のものなのか。 アルチュセールは、現代にも通じる問題を投げかけています。
若いマルクスと成熟したマルクス
アルチュセールの出発点は、マルクスの読み直しでした。
マルクス思想は、しばしば次のように説明されます。 資本主義社会では、人間は自分の労働や生産物から切り離され、本来の自己を失っている。したがって社会を変革することによって、人間は疎外から解放され、本来の人間性を取り戻すことができる。 これは若きマルクスの『経済学・哲学草稿』に見られる、人間主義的な考え方です。そこでは「人間の本質」「疎外」「自己実現」が重要な言葉になっています。
ところがアルチュセールは、『資本論』を書いた成熟期のマルクスは、もはや同じ枠組みで考えていないと主張しました。 成熟したマルクスが分析したのは、抽象的な「人間」ではありません。資本、生産関係、労働力、階級、剰余価値、生産様式といった、社会を構成する関係でした。
マルクスは、「人間はなぜ疎外されるのか」という哲学的な問いから、「どのような社会関係が、人間を資本家や労働者という位置に置くのか」という構造的な問いへ移った。アルチュセールは、この転換を「認識論的切断」と呼びました。
これは、同じマルクスの中で単に関心が変わったという意味ではありません。問題の立て方そのものが変わったということです。 もっともアルチュセールは後年、この断絶をあまりに明確に描きすぎたとして、自らの議論を修正しています。それでも、思想家の言葉だけでなく、思想家がどのような「問題の枠組み」で考えているのかを読むという方法は、その後の思想研究に大きな影響を与えました。
「反人間主義」は人間を否定する思想ではない
アルチュセールの思想で、とりわけ誤解されやすいのが「理論的反人間主義」です。
字面だけを見ると、人間の尊厳や人権を否定する冷たい思想のように感じられます。しかし、ここで否定されているのは現実の人間ではありません。社会や歴史を説明するときに、「人間一般」や「人間の本性」を原因にする考え方です。 たとえば、資本主義社会について、「人間はもともと利己的だから競争社会になった」と説明したとします。しかし、この説明では、なぜ人々が競争し、利益を追求しなければならないのかが見えなくなります。
企業の経営者が利益を追求するのは、必ずしもその人が強欲だからではありません。利益を上げられなければ、企業が市場で存続できないからです。労働者が自分の労働力を売るのも、単に働くことが好きだからではありません。生活のためには賃金を得なければならないからです。 そこでは個人の性格よりも先に、資本家と労働者をそれぞれの位置に置く社会関係が存在しています。
アルチュセールは、人間を社会構造に操られる人形だと考えたのではありません。人間はたしかに考え、選択し、行動します。しかし、その行動は、すでに存在している言語、制度、階級関係、法律、慣習の中で行われます。 人間は歴史を作る。しかし、自分が自由に選んだ条件だけを使って歴史を作るのではない。この点に、アルチュセールの人間理解があります。
社会は経済だけでは動かない
マルクス主義には、「社会のすべては経済によって決まる」という単純な経済決定論のイメージがつきまとってきました。 しかし、アルチュセールが考えた社会は、それほど単純ではありません。
社会には、経済だけでなく、政治、法律、宗教、教育、家族、文化、メディアなど、さまざまな領域があります。これらは経済から完全に独立しているわけではありませんが、経済の影をそのまま映しているわけでもありません。 政治には政治の論理があり、宗教には宗教の歴史があり、家族には家族独自の関係があります。アルチュセールは、こうした各領域が一定の独自性をもって働くことを、「相対的自律性」と表現しました。
たとえば、経済格差が拡大したからといって、必ず社会運動や革命が起こるわけではありません。不満がどのような言葉で表現されるか、政党や労働組合が存在するか、国家がどのように対応するか、宗教や民族の対立があるかなどによって、結果は大きく変わります。
社会は、一つの原因から一つの結果が生じる機械ではありません。多数の力が重なり合う、複雑な関係の場なのです。
一つの事件には、いくつもの原因がある
この複雑さを説明するために、アルチュセールは精神分析から「重層的決定」という概念を導入しました。
フロイトによれば、夢の中に現れる一つのイメージは、一つの原因だけから生まれるのではありません。複数の記憶、欲望、不安、葛藤が重なり合い、一つの夢の場面を作ります。 歴史上の事件も、それと似ています。
革命は、経済的な矛盾だけでは起こりません。戦争、財政危機、政治権力の弱体化、支配階級内部の対立、農村の不満、都市労働者の組織化、新しい思想の普及など、複数の条件が一つの局面に集中したときに起こります。 つまり、社会にある基本的な矛盾は、いつも純粋な形で現れるわけではありません。その国の歴史、宗教、文化、国際情勢など、多数の条件を背負って現れます。
この考え方によって、アルチュセールは「資本主義が発展すれば、やがて自動的に革命が起こる」といった予定調和的な歴史観を退けました。歴史には構造があります。しかし、歴史の具体的な展開は最初から決められているわけではないのです。
私たちはイデオロギーの中で生きている
アルチュセールの名を最も広く知らしめたのが、イデオロギー論です。
イデオロギーという言葉からは、政治的な宣伝や虚偽の情報が連想されます。支配者が人々をだますために広めた、誤った考えという理解です。 しかしアルチュセールにとって、イデオロギーは単なる嘘ではありません。 彼はイデオロギーを、人間が自分の現実的な生活条件に対して結ぶ、想像的な関係として捉えました。
私たちは、社会構造の全体を直接見ているわけではありません。その代わり、「私は家族を守る責任ある父親だ」「私は患者を救う医師だ」「社会の規則を守る善良な市民だ」といった物語を通して、自分と社会との関係を理解しています。 これらは、すべてが嘘というわけではありません。しかし、社会的な役割や制度がどのように成立しているかを、完全に示しているわけでもありません。
私たちは、自分が置かれている客観的な社会関係そのものではなく、その関係についての意味づけを通して生きています。だからイデオロギーは、無知な人だけが陥る誤解ではありません。社会の中で生きるすべての人に関わるものなのです。
イデオロギーは「頭の中」だけにはない
アルチュセールの独創性は、イデオロギーを観念だけの問題にしなかったところにあります。
宗教を例に考えてみましょう。信仰は、心の中で神の存在を信じることだけではありません。教会や寺院へ行き、祈り、儀式に参加し、特定の日を祝い、決められた作法を実践します。
学校も同じです。 生徒は「規則を守りなさい」と言葉で教えられるだけではありません。決められた時間に登校し、指定された席に座り、教師の指示を聞き、課題を期限までに提出し、試験によって評価されます。 こうした反復的な実践を通して、時間を守ること、評価されること、競争すること、命令に従うこと、責任を果たすことを身体的に学んでいきます。
アルチュセールによれば、イデオロギーには物質的な存在があります。それは頭の中の考えにとどまらず、制度、儀式、習慣、言葉遣い、身体動作として存在しているのです。 私たちは、まず自由に思想を選び、その後で行動するとは限りません。ある行動を繰り返すことによって、その価値観を自然なものとして身につける場合もあります。
「呼びかけ」が人を主体にする
では、人間はどのようにして「社会の一員」になるのでしょうか。
アルチュセールは、イデオロギーが個人を主体として成立させる働きを、「呼びかけ」と呼びました。 有名なのが、警官が路上で「おい、そこの君」と声をかける例です。通行人が振り返った瞬間、その人は「呼ばれているのは自分だ」と認識します。そして、警官の権威に応答する一人の主体になります。
同じことは、日常生活でも起こっています。 「お兄ちゃんなのだから我慢しなさい」 「医師なのだから責任を果たしてください」 「母親なら子どもを第一に考えるべきです」 こうした言葉は、すでに完成している人間に役割を追加するだけではありません。その人に、自分自身を「兄」「医師」「母親」として理解させます。 私たちは呼びかけられ、その呼びかけに「はい、私のことです」と応じることによって、社会的な主体になります。
ここには重要な逆説があります。主体になるとは、自分で考え行動する存在になることです。しかし同時に、ある制度や規範に従属することでもあります。自由に行動する主体と、社会に従う主体は、別々の存在ではありません。私たちは社会的な規範を自分自身の価値観として引き受けることで、主体になるのです。
学校や家族は、社会を再生産する
社会秩序は、警察や軍隊の力だけでは維持できません。人々がその秩序を自然で正当なものとして受け入れ、日常的に実践する必要があります。
アルチュセールは、警察、軍隊、裁判所、刑務所などを、強制力を中心に働く「抑圧的国家装置」と呼びました。 それに対して、学校、家族、宗教、政党、メディア、文化などを、価値観や生活習慣を通して人々を社会に適応させる「イデオロギー的国家装置」と呼びました。
とりわけ近代社会では、学校が重要です。 学校は知識や技術を伝えるだけではありません。時間を守ること、指示に従うこと、他者と競争すること、評価を受け入れること、決められた役割を果たすことも教えます。その結果、社会で働くために必要な能力と態度を備えた人間が、世代を越えて作られていきます。
資本主義社会は、商品を生産するだけでは存続できません。次の世代の労働者、経営者、管理者、専門家と、それぞれの役割を当然のものとして受け入れる人々を作り続ける必要があります。 アルチュセールは、これを「生産関係の再生産」として捉えました。社会は建物や機械だけでなく、社会を存続させる人間と人間関係も再生産しているのです。
文章の「沈黙」を読む
アルチュセールは、思想を読む方法として「症候的読解」を提唱しました。
文章に書かれている主張をそのまま理解するだけでなく、その文章が何を語れずにいるのかを読む方法です。 ある理論が、どのような問題には答えられるのか。逆に、どのような問いを最初から排除しているのか。どこで議論が不自然になり、何が説明されないまま残っているのか。そうした欠落や矛盾を、その理論の限界を示す「症候」として読むのです。
これは精神分析にも似ています。精神分析では、語られた内容だけでなく、言い間違い、沈黙、反復、語ることのできない部分にも注目します。 思想においても、書かれていないものは単なる空白ではありません。何が語れないかを見ることによって、その思想を支えている“見えない前提”が明らかになることがあります。
後期アルチュセールと「偶然の唯物論」
初期のアルチュセールは、社会構造が個人を強く規定する思想家として読まれてきました。しかし後期になると、彼は偶然性や歴史的な「出会い」を重視するようになります。
この思想は、「偶然の唯物論」あるいは「遭遇の唯物論」と呼ばれています。 社会には、最初から完成した設計図があるのではありません。さまざまな要素が偶然に出会い、その結びつきが持続したとき、一つの構造が成立します。 資本主義も、歴史が必然的に目指していた最終地点ではありません。貨幣の蓄積、土地から切り離された労働者、市場、私有財産制度、国家権力など、別々の歴史をもつ要素が出会い、その関係が定着した結果として成立しました。
ここからは、構造についての新しい見方が生まれます。 構造は強力ですが、永遠ではありません。偶然的な出会いによって成立した以上、別の出会いや情勢の変化によって、変形したり解体したりする可能性があります。
後期アルチュセールは、歴史を必然的な進歩の物語としてではなく、何が結びつき、何が結びつかなかったのかという、開かれた過程として考えようとしたのです。
私たちがA I時代を迎える今、アルチュセールから学ぶこと
第一に、現在の制度を自然で不可避なものと思わないことである。 資本主義も国民国家も賃金労働も、永遠に存在してきたわけではない。偶然的な条件の出会いによって成立した以上、AIなど別の条件によって変化し得る。
第二に、技術の進歩を歴史の進歩と同一視しないことである。 AIが高度化しても、それだけで人間が自由になるわけではない。所有と分配の制度が変わらなければ、生産性の向上は富と権力の集中を強める可能性がある。
第三に、新しい社会を理念だけでなく、再生産の仕組みとして考えることである。 AIの利益を社会へ還元する制度、データとアルゴリズムの透明性、独占を防ぐ規制、公共的なAI基盤、労働時間の短縮、基本的サービスの保障、決定に対する異議申し立てと離脱の権利が必要になる。
第四に、まだ決まっていない時期に介入することである。 一度、AI、ロボット、データ、エネルギー、監視技術が少数者の所有として結合し、その構造が法律、教育、雇用制度によって再生産されるようになれば、それを変えることは難しくなる。
私たちの「自由」を問い直す思想
アルチュセールの問いは、現在も力を失っていません。
現代では、テレビや新聞だけでなく、SNS、検索エンジン、動画配信サービスの推薦機能が、私たちの見る情報を選別しています。私たちは自由に情報を選んでいるつもりでも、その選択肢はすでに何らかの仕組みによって並べられています。 「自分らしく生きよう」という言葉さえ、消費や自己演出を促す新しい規範になることがあります。自由を命じられ、個性的であることを求められ、その結果を自己責任として引き受ける。そこにも、現代的な呼びかけが働いています。
アルチュセールは、私たちが自由だと思っているとき、その自由がどのような制度、言語、習慣によって形作られているのかを問い直しました。 自分の声だと思っているものの中に、家族、学校、職場、国家、メディアの声が混じっていないか。自分で選んだ役割だと思っているものが、実は「あなたはこういう人間だ」という呼びかけへの応答ではないか。
社会によって作られていることを知るのは、自由を諦めることではありません。自分を作っている条件を見つめ、その条件との関係を組み替えるための第一歩です。 アルチュセールの思想が私たちに教えているのは、自由とは社会の外に立つことではなく、自分を形作っている構造を知り、その中で別の生き方の可能性を探すことなのです。
著者あとがき
ルイ・アルチュセールは、20世紀前半のヨーロッパを席巻したマルクス主義を、内部から体験し批判を展開した中心的人物だと思われます。 これに対して、レイモン・アロンは、マルクス主義を外から観察し検証してきた思想家ではないでしょうか。
両者の違いは、マルクス主義との「距離」によく表れています。 フランス共産党員であったアルチュセールは、マルクス主義そのものを否定したのではなく、人間中心主義や歴史の単純な必然論からマルクスを救い出し、より科学的な理論として再構成しようとしました。そのために「認識論的切断」「重層的決定」「イデオロギー的国家装置」といった新しい概念を提示します。
一方、自由主義者アロンは、マルクス主義を一歩離れた場所から眺め、その理論が現実の歴史や社会に本当に適合しているのかを問い続けました。特に彼が警戒したのは、理論から歴史の必然を導き、それによって現実の矛盾まで正当化してしまう態度です。
アルチュセールが「マルクス主義を、内側から作り直そうとした思想家」だとすれば、アロンは「マルクス主義を、現実に照らして外側から検証し続けた思想家」と表現できるでしょう。 この二人を並べて読むことで、20世紀思想におけるマルクス主義の可能性と限界が、より立体的に見えてきます。
下記コラムも、是非一読下さい。 次世代に伝えたい偉人伝⑧:レイモン・アロン 『知識人のアヘン』『ヴェーバーへの道』 〜“実学としての社会学”創設
参考書籍
1.市田良彦『ルイ・アルチュセール 〜行方不明者の哲学』 岩波新書、2018年。 単純な概説書ではなく、市田良彦による明確な解釈をもつ本ですが、初期から後期までを一つの思想的運動として把握するのに優れています。今回議論してきた「偶然的な出会いが必然性を帯びる」という問題を理解するうえでも最適です。
2.ルイ・アルチュセール『マルクスのために』 河野健二・田村俶・西川長夫訳、平凡社ライブラリー、1994年。 アルチュセールの出発点となる主著です。 「経済が歴史のすべてを直接決める」という単純なマルクス主義ではなく、経済・政治・宗教・文化・国際情勢など、複数の条件が重なって歴史的事件を生み出すという考えを学べます。
3.ルイ・アルチュセール『再生産について 〜イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』上下 西川長夫ほか訳、平凡社ライブラリー、2010年。 アルチュセールの社会思想を、現代社会へ応用するうえで最も重要な本です。 AIやSNSのアルゴリズムが、「あなたへのおすすめ」「あなたに向いている仕事」と人間を分類し、一定の主体へ作り変えていく現代を考えるうえでも有効です。
4.ルイ・アルチュセール『哲学・政治著作集Ⅰ』 市田良彦・福井和美訳、藤原書店、1999年。 初期の青年期論文から、思想的危機を経た後期までをたどる著作集です。
