2026年ノーベル化学賞:硤合憲三名誉教授『非線形効果と不斉自己触媒反応』
㊗️2026年ノーベル化学賞:硤合憲三名誉教授『非線形効果と不斉自己触媒反応』
わずかな偏りが、生命の「向き」を生む
1.生命は、分子の「右と左」を選んでいる
私たちの右手と左手は、鏡に映した関係にあります。形はよく似ていますが、どのように回転させても、ぴったり重ねることはできません。分子にも、これと同じ関係があります。原子の種類や結合の順序は同じでも、立体的な配置が鏡像関係になっているのです。 この性質を「キラリティー」、鏡像関係にある一対の分子を「鏡像異性体」と呼びます。
生命は、この二つを区別して利用しています。 タンパク質を構成するアミノ酸は、左右の区別をもたないグリシンを除けば、基本的にL型です。一方、DNAやRNAを構成する糖はD型です。このように、生体の主要な分子で一方の型が選ばれていることを「ホモキラリティー」といいます。
では、生命が生まれる前の世界で、どのように分子の向きがそろっていったのでしょうか。 2026年のノーベル化学賞は、この謎につながる研究を行ったアンリ・カガン氏と硤合憲三氏に授与されることになりました。受賞理由は「不斉有機合成における非線形効果と自己触媒作用の発見」です。二人の研究は、ほとんど見分けられないほどの小さな偏りが、化学反応を通じて大きく育つことを示しました。
2.必要な側の分子を、選んでつくる
分子の右手型と左手型は、私たちの体の中で同じように働くとは限りません。 分子を受け止める酵素や受容体も、複雑な立体構造をもっているからです。右手用の手袋に左手がうまく入らないように、分子の向きが違えば、相手との結びつき方も変わります。
そのため、医薬品などを合成するときには、目的とする側の分子を選択的につくることが重要になります。これが「不斉合成」です。
そこで活躍するのが、左右の違いをもつ触媒です。 触媒は、反応の進みやすい経路を用意します。その立体構造によって、一方の鏡像異性体が生まれる経路を、もう一方より有利にできるのです。 ただし、触媒そのものも、右手型だけ、あるいは左手型だけとは限りません。両方が混ざっている場合、生成物の左右の比率はどうなるのでしょうか。
一見すると、触媒の偏りが小さければ、生成物の偏りもそれに応じて小さくなると考えられます。カガン氏は、この予想から外れる現象に注目しました。
3.カガン博士の発見 〜偏りは、比例するとは限らない
左右の偏りを表す指標に、「鏡像体過剰率」があります。 英語の頭文字から「ee」と呼ばれます。両者が50対50なら0%、60対40なら20%、90対10なら80%です。一方が他方をどれだけ上回っているかを示します。
触媒の二つの型が互いに影響せず、独立して働くなら、触媒のeeと生成物のeeには比例関係が期待されます。純粋な片側の触媒で得られる選択性を基準として、触媒の偏りが半分になれば、生成物の偏りも半分になるという関係です。
しかし、カガン氏らが1986年に報告した実験では、必ずしもそうなりませんでした。触媒の偏りから予想される以上に、生成物が一方へ偏る場合があったのです。 これが「正の非線形効果」です。入力となる偏りが小さくても、出力となる偏りは大きくなり得ます。反対に、比例関係から予想されるよりも偏りが小さくなる「負の非線形効果」もあります。
ここでいう非線形とは、単に反応が急に速くなることではありません。「触媒の偏り」と「生成物の偏り」の関係が、直線で表せないことを意味しています。
4.分子は、集まり方によって働きが変わる
この現象を理解する鍵は、触媒に関わる分子の「集まり方」にあります。分子は、溶液の中で一つずつ独立して働くとは限りません。複数が集まり、まとまりをつくることがあります。
右手型同士の集まり、左手型同士の集まり、右手型と左手型が混ざった集まり。これらは、安定性や反応を進める能力が異なり得ます。
説明のため、右手型が60個、左手型が40個あるとしましょう。異なる型同士が強く結びつき、その組合せが触媒として働きにくくなると仮定します。すると、右40個と左40個が組になり、残るのは右手型20個です。 全体では60対40にすぎなくても、反応に参加しやすい集団には、右手型が大きく偏って残ります。そのため、生成物も右手型に強く偏る可能性があります。
これは単純化したモデルですが、「混ぜた触媒全体の比率」と「実際に働いている触媒の比率」が異なり得ることを示しています。 カガン氏らの研究は、分子の会合を通じて不斉が増幅される仕組みを理解する道を開きました。
5.硤合反応の発見 〜できた分子が、自分をつくる
硤合氏の研究では、ここに「自己触媒作用」が加わります。 通常の触媒反応では、触媒が原料から生成物をつくるのを助けます。自己触媒反応では、その生成物自体が、自分と同じ物質をつくる反応を促進します。 生成物が増えるほど、反応を助ける存在も増えていくのです。
硤合氏は1990年に不斉自己触媒反応を報告し、1995年には、自己触媒作用と左右の偏りの増幅が同時に起こる反応を発見しました。これが、広く知られる「硤合反応」の中心です。 代表的な反応では、ピリミジン環をもつアルデヒドに、ジイソプロピル亜鉛という試薬を反応させ、左右の区別をもつアルコールをつくります。すると、その生成物が、反応液中で亜鉛と結びついた形などを通じて、同じアルコールの生成を促進します。
右手型を加えると右手型が、左手型を加えると左手型が優先的に生まれます。しかも、初めにわずかに多かった側が、反応を重ねることで、ますます優勢になるのです。
6.「増えること」と「偏りが育つこと」は違う
自己触媒作用があれば、必ず左右の偏りが大きくなるわけではありません。 例えば、右手型と左手型が51対49で存在し、どちらも同じ倍率で増えたとします。10倍になれば510対490ですが、割合は変わりません。分子の数は増えても、偏りは育たないのです。
硤合反応の特別な点は、自己触媒作用に、左右の比率を変える非線形な仕組みが組み合わさっていることです。多数派と少数派を含む分子集団の働きの違いなどによって、多数派が相対的に増えやすくなります。そして、増えた多数派が、さらに同じ側の分子をつくります。 「少し多い側が、次にはもっと有利になる」という正のフィードバックです。
分子レベルでは、生成物由来の亜鉛化合物が集まった構造や、一時的に生じる中間体が研究されています。 どの構造が、どの条件で触媒として働くかについては、現在も検討が続いています。しかし、小さな偏りが自己触媒反応によって大きく増幅される現象そのものは、実験で確立されています。
7.ほとんど半々から、ほとんど一方だけへ
増幅の大きさは、実際の数字を見るとよく分かります。 1995年の研究では、最初のeeが2%、すなわち51対49という小さな偏りから出発しました。生成物を次の反応の触媒として使う操作を繰り返すと、eeは88%に達しました。これは94対6に相当します。 さらに分子構造を改良した研究では、2003年、約0.00005% eeという極微小な偏りから、3回の連続した自己触媒反応によって、99.5% eeを超える状態に到達しました。
出発点の比率は、50.000025%対49.999975%です。200万個の分子で考えると、一方が100万1個、もう一方が99万9999個。その程度の差に相当します。 それが最終的には、99.75%超対0.25%未満という、ほぼ一方だけの状態になります。
ここでは、反対向きの分子をすべてひっくり返したわけではありません。原料から新しい分子が生まれるときに、多数派と同じ向きが選ばれ、その選択が繰り返し強まったのです。 わずかな偏りが、次の偏りを生む原因になります。
8.生命の起源に、実験で近づく
生命のホモキラリティーを考えるとき、二つの問題を分けると理解しやすくなります。 一つは「最初の偏りがどう生まれたか」、もう一つは「その偏りがどう大きくなったか」です。
仮に、光や鉱物の表面などの作用によって、一方の分子が少し多く生まれたとしても、それだけでは、生命にみられる圧倒的な偏りには届きません。小さな差を拡大する過程が必要です。
硤合氏らは、円偏光に由来する偏りや、石英などのキラルな結晶をきっかけとして、自己触媒反応の向きが誘導されることも調べました。こうした研究によって、「最初の小さな偏り」と「大きく増幅された偏り」を実験的につなげられるようになりました。(rs.kagu.tus.ac.jp)
もちろん、硤合反応がそのまま原始地球で起こったと確認されたわけではありません。 生命誕生の実際の反応経路は、なお未解明です。それでも、生物の酵素や遺伝情報がなくても、化学反応そのものが分子の向きを選び、その選択を強められると示した意義は大きいでしょう。
カガン氏は、分子の集まり方によって、小さな不斉が大きな不斉へ変わり得ることを示しました。硤合氏は、その増幅を、自分と同じ分子を増やす反応に結びつけました。
二人の研究によって、生命の特徴である「増えること」と「特定の型を選ぶこと」が、化学反応の段階ですでに結びつき得ると分かりました。生命が誕生する以前の物質の世界にも、微小な違いを積み重ね、明確な方向性へ育てていく仕組みが存在していたのです。
著者あとがき 〜サリドマイドが、私たちに教えてくれたこと、そして伝えて行くべきこと
『マスメディアなどで、誤解が生じるような報道がみられますので、サリドマイドについて、補足させていただきます。 R体だけを生成できても、サリドマイドの催奇形性は無くなりません。 サリドマイドは、人類に大きな傷跡を残しました。私たちはこの犠牲を、無駄にすることは絶対にすべきではありません。正確な事実を伝えてゆくことは、医療に携わるものの義務だと思っています。』
分子の「右手型・左手型」を選んでつくる研究は、私たちの健康と深く結びついています。その医学的な意味を考えるとき、忘れてはならないのがサリドマイドの歴史です。 サリドマイドは、かつて鎮静薬などとして使用され、妊娠中の服用によって、生まれてくる子どもに四肢の形成異常などの重大な被害をもたらしました。 この薬害は、薬の安全性をどこまで確かめる必要があるのかを、社会に厳しく問いかけました。
サリドマイドにも、鏡像関係にあるR体とS体という二つの型があります。 原子の種類や結合のつながりは同じでも、その空間的な配置が異なります。薬が結びつく体内のタンパク質も立体構造をもつため、この配置の違いによって、結合のしやすさや作用が変わります。 実際、サリドマイドの標的タンパク質であるセレブロンへの結合には、R体とS体で差があります。両者の相互変換を抑えるために重水素で置換した化合物を用いた実験では、S体はR体より約10倍強く結合しました。体の中のタンパク質は、分子の向きの違いを識別しているのです。これは非常に重要な知見です。
こうした事実は、望ましい鏡像異性体を選んでつくる不斉合成の重要性を示しています。 カガン氏の非線形効果の研究は、触媒の小さな偏りから、生成物の大きな偏りが生まれ得ることを明らかにしました。硤合氏の不斉自己触媒反応では、できた生成物が、さらに自分と同じ型の生成物をつくる働きを担い、その偏りを増幅します。分子の向きを制御するうえで、画期的な発見でした。
しかし、サリドマイドの問題には、もう一つ重要な側面があります。 製造するときに一方の型だけにそろえても、その状態が体内で保たれるとは限らないのです。 サリドマイドは、しばしば「R体には鎮静作用があり、S体には催奇形性がある」と説明されます。 この説明を聞けば、「それなら、R体だけをつくって投与すれば、薬害を防げたのではないか」と考えるのは自然でしょう。 ところが、サリドマイドのR体とS体は、体内で互いに変換されます。 健康な男性に、それぞれの異性体を単独で投与した研究でも、速やかな相互変換が確認されています。R体だけを投与しても、体内でS体が生じるのです。したがって、「R体だけなら安全だった」と結論づけることはできません。(onlinelibrary.wiley.com)
さらに、ウサギの実験でも、R体の投与によっても催奇形性が認められています。 こうした結果を理解する際にも、投与した型と、実際に体内で作用している分子の型を区別する必要があります。「R体は安全、S体は危険」という単純な二分法では、この薬の性質を十分に表せません。(nature.com)
ここに、サリドマイドが私たちに残した大切な教訓があります。 分子の立体配置を精密に制御することは重要です。そして、制御してつくった分子が、体内でどのように変化し、何に結びつき、どのような作用をもたらすのかまで確かめる必要があります。
非線形効果や不斉自己触媒反応の発見は、分子の向きを選び、その偏りを増幅する原理を示しました。 ただし、それによってサリドマイドの催奇形性が解決されたわけではありません。 硤合反応は特定の化学反応系で実証されたものであり、そのまま「サリドマイドの安全な型だけを大量につくる方法」とみなすことはできません。
薬をつくる研究と、薬を安全に使うための研究は、製造から投与後までをつなぐ必要があります。 試験管の中で望みどおりの分子ができたことは、大きな成果です。その分子が、生きた体の中でどのように振る舞うのかを見届けることも、同じように欠かせません。
分子のわずかな違いを見分け、制御する化学の精密さ。その違いが人の体と生活に何をもたらすのかを確かめる医学の慎重さ。 サリドマイドの歴史は、この二つを結びつける責任を、私たちに問い続けています。
