抑圧された記憶の神話① 抄訳

脳のイメージ認知心理学の権威、エリザベス・ロフタス(とキャサリン・ケッチャム)による衝撃的な名著『抑圧された記憶の神話(原題: The Myth of Repressed Memory)』について、そのエッセンスを分かりやすく抄訳・要約します。 この本は、1990年代にアメリカで社会問題となった「回復された記憶(長年抑圧されていたはずの性的虐待の記憶が、セラピーを通じて突然蘇る現象)」に対し、科学的なメスを入れた一冊です。

『抑圧された記憶の神話』:抄訳

1. 記憶は「ビデオレコーダー」ではない

多くの人は「記憶は脳内のハードディスクに保存されており、何かの拍子にそのまま再生されるもの」だと信じています。しかし、ロフタスはこれを真っ向から否定します。
  • 記憶は再構成されるもの: 記憶は過去の出来事をそのまま記録したものではなく、新しい情報や暗示、期待によって常に書き換えられ、作り直されるプロセスです。
  • 「真実味」と「真実」は別: どんなに鮮明で、本人が確信を持って語る記憶であっても、それが客観的事実である保証はありません。

2. セラピーが「偽りの記憶」を生むプロセス

本書で最も鋭く批判されているのは、当時のカウンセリング手法です。
  • 誘導尋問と暗示: セラピストが「あなたの今の悩み(うつや摂食障害など)の原因は、幼少期の性的虐待にあるはずだ」という前提で接することで、患者は無意識にその期待に応えようとします。
  • 想像の膨張: ヒプノシス(催眠)やイメージ療法によって「あったかもしれない光景」を繰り返し想像させることで、脳はやがて「想像したもの」と「実際に体験したもの」の区別がつかなくなります

3. 「ショッピングモールでの迷子」実験

ロフタスが自身の主張を裏付けるために行った有名な実験です。
  • 方法: 被験者の家族と協力し、被験者が幼少期に「ショッピングモールで迷子になり、親切な老人に助けられた」という実際には起こっていない偽のエピソードを、他の本当の思い出の中に混ぜて提示しました。
  • 結果: 被験者の約4分の1が、最終的にその「偽の記憶」を自分のものとして受け入れ、さらには「老人の服の色」など、聞かれてもいない細部まで詳しく語り始めました。
ポイント: 人間は、全く存在しない出来事であっても, 暗示によって「自分の記憶」として植え付けることが可能であると証明されたのです。

4. 社会的・法的な悲劇

ロフタスは、この「偽記憶」がもたらす悲惨な現実を報告しています。
  • 家族の崩壊: 根拠のない記憶に基づき、子供が親を虐待で訴え、幸福だった家庭がバラバラになるケースが続出しました。
  • 冤罪: 確実な物的証拠がなく、セラピーで「回復した」とされる証言のみで有罪判決が下される危うさを警告しました。

結論:私たちが学ぶべきこと

ロフタスは、虐待の被害者たちを否定したわけではありません。彼女が警鐘を鳴らしたのは、「記憶は壊れやすく、操作されやすい」という科学的事実を無視した過激なセラピーの危険性です。 私たちは自分の記憶を絶対視せず、それが主観的な物語(ナラティブ)になり得ることを自覚すべきだ、というのが本書のメッセージです。

事後談

エリザベス・ロフタスの主張は、素晴らしい内容でした。しかし『抑圧された記憶の神話(原題: The Myth of Repressed Memory)』の出版当初は、「記憶戦争」とまで揶揄されるほどの、批判の嵐に巻き込まれてしまいます。(この点は、コラム:ロフスタ:記憶論争に、詳しく記載しております。) しかし、エリック・カンデルを中心とした脳科学者の業績により、ロフスタの主張は証明されることとなります。(この点は、コラム:曖昧な記憶とその証明に、詳しく記載しております。) そして、司法面接を産み出し、アメリカ司法論すら変えるに至ったのです。(この点は、コラム:ロフスタが変えた司法~司法面接創設~、に詳しく記載しました。)