遺伝子研究から考える、双極症の発病メカニズム
2025年、精神疾患ゲノミクス・コンソーシアム(PGC)を中心とした国際研究チームが、約290万人(双極症患者約15万人を含む)を対象とした過去最大規模のゲノムワイド関連解析(GWAS)の結果をNature誌に発表しました。この結果をもとに、双極症の発病メカニズムを考えてゆきます。
遺伝子研究から考える、双極症の発病メカニズム
これまで「心の病」と呼ばれてきたものの多くは、脳内の神経伝達物質(セロトニンやドパミンなど)の過不足で説明されてきました。しかし、最新の科学はそのさらに奥、私たちの体の設計図である「ゲノム(遺伝情報)」にまで踏み込んでいます。
2025年、世界中の研究者が協力し、約290万人分という途方もない規模のデータを解析しました。その結果、双極症の発症に関わる「ゲノム上の目印」が、これまでの予想をはるかに上回る298箇所も見つかったのです。
これは、双極症が「たった一つの悪い遺伝子」で決まるような単純なものではなく、数多くの小さな遺伝的特徴が組み合わさって起きる、きわめて複雑で多様な個性の一つであることを物語っています。
脳というコンピュータの「配線」と「ブレーキ」
最新の研究で特定された重要な遺伝子(特に注目される36個の鍵となる遺伝子)の正体を調べると、そこには共通した役割が見えてきました。
1. 配線の微調整(イオンチャネル)
私たちの脳は、電気信号で情報をやり取りする巨大な精密機器です。見つかった遺伝子の多くは、この「電気信号の強さ」を調節するスイッチのような役割を担っていました。双極症の場合、このスイッチが少しだけ敏感であったり、あるいは反応が極端になりやすかったりする傾向があることがわかりました。
2. ブレーキ役の不在
特に注目されているのが、脳内の「ブレーキ役」を果たす神経(GABA作動性介在ニューロン)への影響です。感情の高ぶりを抑えるブレーキ側の設計図にわずかな特徴があるため、一度アクセルが踏まれると、自分の意志とは無関係にスピードが出すぎてしまう(躁状態)というメカニズムが、細胞レベルで裏付けられつつあります。
「エネルギー不足」が招く気分の波
2026年、さらに新しい視点が加わりました。それは脳の「発電所(ミトコンドリア)」の問題です。
双極症の方の脳内では、細胞がエネルギーを作り出す効率に特徴があることがわかってきました。特に、論理的な思考や感情のコントロールを司る「前頭前皮質」という場所で、エネルギー供給が不安定になりやすいサインが見つかっています。
これは、気分の落ち込みを単なる「やる気の欠如」ではなく、「脳が深刻なエネルギー不足に陥り、省エネモードに入っている状態」として捉え直すきっかけになります。そう考えると、「休養」がどれほど重要か、科学的にも納得できるはずです。
リチウムという薬の「鍵」が見つかった
長年、双極症の治療で最も信頼されてきた「リチウム」というお薬があります。なぜこのシンプルな薬が効くのかは、実は100年近く謎のままでした。
ところが最新の研究で、AKAP11という特定の遺伝子が、リチウムの効果と深く関わっていることが判明しました。この遺伝子が作るタンパク質が、リチウムと協力して脳内の信号伝達を安定させていたのです。この発見により、将来は「誰にどの薬が最も効果的か」を、治療を始める前に予測できるようになるかもしれません。
科学が「責める心」を解放する
こうした最新の遺伝子研究が私たちに教えてくれる最も大切なことは、「双極症は、あなたの意志の強さや性格の問題ではない」という揺るぎない事実です。
私たちは、生まれ持った設計図を自分で選ぶことはできません。たまたま脳の「スイッチ」が敏感で、「ブレーキ」が少し効きにくく、「発電所」が不安定になりやすい設計図を持って生まれた――。それは、高血圧になりやすい体質や、視力が弱い体質と同じ、生物学的な特徴に過ぎません。
最新の科学は、診断を確定させるためだけにあるのではありません。自分を責め、苦しんでいる方々に、「原因はあなたの心ではなく、細胞の仕組みにあるんですよ」と伝え、適切なサポートと理解を得るための強力な根拠(エビデンス)となるためにあるのです。
共に歩む未来へ
現在、この遺伝子の発見を応用した新しいお薬の開発や、一人ひとりの体質に合わせた「オーダーメイド治療」の研究が猛スピードで進んでいます。
双極症と共に生きることは、時に激しい嵐の中を航海するような困難を伴います。しかし、科学という灯台が照らし出す航路は、年々明るく、正確になっています。最新の知識を味方につけ、自分を責めるのをやめ、専門家と共に「自分の脳の特性」に合わせた過ごし方を見つけていくこと。それが、この新しい科学の時代における、最も賢明な向き合い方と言えるでしょう。
[補足:最新のキーワード]
GWAS(ゲノムワイド関連解析):数百万人のデータを比較し、病気に関わる遺伝的特徴を網羅的に調べる手法。
ミトコンドリアの不全:脳のエネルギー代謝の偏り。最新研究で双極症との深い関わりが示唆されています。
個別化医療:遺伝子情報から、その人に最適な治療法を導き出す未来の医療。
