賢者の視座④:バールーフ・デ・スピノザ 〜神は自然、精神身体表裏一体、一元論提唱
賢者の視座④:バールーフ・デ・スピノザ 〜神は自然、精神身体表裏一体、一元論提唱
人間を世界の中心から降ろす
哲学者が新しい思想を提示するとは、それまで誰も知らなかった事実を発見することだけではない。それまでと同じ世界を、まったく異なる角度から見るための視座を切り開くことでもある。十七世紀の哲学者バールーフ・デ・スピノザが成し遂げたのは、まさにそのような転換であった。
スピノザ以前にも、人間が自然の一部であることを説いた思想家はいた。しかしスピノザほど徹底して、神、自然、人間、精神、身体、感情、自由を、一つの連続した秩序の中で考え抜いた哲学者は少ない。彼の哲学の核心は、人間を世界の中心から降ろし、自然法則の例外ではなく、自然そのものの一つの現れとして捉え直すことにある。
私たちは普段、世界を人間の立場から見ている。 自分に利益をもたらすものを善と呼び、損害を与えるものを悪と呼ぶ。願いがかなえば世界は自分に好意的であり、不幸が起これば世界は不公平であると感じる。さらに、自然界の出来事にも何らかの目的があり、すべては人間にとって意味のある仕方で配置されていると考えやすい。
スピノザは、この人間中心的な世界像を根底から問い直した。 自然は、人間の願望を実現するために存在しているのではない。世界は私たちを賞賛するためにも、罰するためにも動いていない。人間もまた、自然の中に突然出現した特別な例外ではなく、無数の原因と条件によって成立している有限な存在である。
世界を人間の尺度で裁くのではなく、人間自身をも含む自然の秩序として理解する。この視座こそ、スピノザが哲学史に導入した最も重要な転換であった。
神は世界の外にいない
スピノザ哲学を象徴する言葉が、「神すなわち自然」、ラテン語でいう「デウス・シヴェ・ナトゥーラ」である。
伝統的なキリスト教思想では、神は世界を創造し、その外側から世界を支配する超越的な存在と考えられてきた。神は意志と目的をもち、善を命じ、人間を裁き、ときには自然の秩序に介入すると理解された。 これに対してスピノザは、神と自然を二つの別の存在として考えなかった。 神がまず存在し、その後に世界を創造したのではない。存在するものの総体と、それを成り立たせている無限の生成力こそが、神であり自然なのである。
スピノザは、それ自身によって存在し、それ自身によって理解される根本的な実在を「実体」と呼んだ。そして真の実体はただ一つであり、それが神あるいは自然であると考えた。 人間、動物、植物、岩石、星、身体、精神は、それぞれが独立した実体なのではない。唯一の実体である神=自然が、一定の有限な仕方で現れた「様態」である。 したがって、自然の外側には何もない。自然を設計した外部の意思も、自然法則を停止させる超越的な力も想定されない。あらゆるものは神=自然の内部にあり、その本性から必然的に生じている。
この思想は、しばしば汎神論と呼ばれる。 しかし、自然界の一つ一つの事物を神として礼拝する素朴な自然崇拝とは異なる。スピノザが神と呼んだのは、人格をもち、人間のように怒ったり喜んだりする存在ではなく、あらゆる存在を成立させる無限の実在そのものであった。
ここで重要なのは、神を失ったことよりも、世界の見方が変わったことである。 神が世界の外にいないなら、人間も神の意図を推測しながら世界を解釈する必要はない。問うべきなのは、「これは何のために起きたのか」ではなく、「これはどのような原因によって生じたのか」である。
目的を求める心から、原因を理解する知性へ
私たちは、自分が目的をもって行動するため、自然もまた目的に従って動いていると考えやすい。目は見るためにあり、雨は作物を育てるために降り、病気や災害には何らかの意味があると思いたくなる。
しかしスピノザによれば、これは人間が自らの行動様式を自然へ投影した結果である。 自然そのものが、人間的な意味での目的をもっているわけではない。雨が降るのは大地を潤すためではなく、一定の自然的条件が成立したからである。雨によって作物が育つこともあれば、洪水が起こることもある。自然は一方を望み、他方を避けているのではない。
人間が目的論に傾く理由について、スピノザは鋭い指摘をしている。 私たちは、自分が何を欲しているかについては意識しているが、なぜそれを欲するようになったのかを十分には知らない。そのため、自分は何の原因にも規定されず、自由に目的を選んだと思い込むのである。
たとえば、ある人が社会的地位を強く求めているとする。本人は、それを自分の自由な意思による選択だと感じるだろう。しかし、その欲望には、幼少期の経験、周囲からの評価、社会的価値観、劣等感、身体的な反応、過去の成功体験など、多くの原因が関係しているかもしれない。本人がそれらを知らないからといって、原因が存在しないことにはならない。
スピノザが示したのは、意識されている理由と、その人を実際に動かしている原因とは同じではない、ということである。 これは後世の心理学や精神病理学を思わせる洞察であるが、スピノザ自身の課題は、心の奥に特別な無意識領域を想定することではなかった。意識も欲望も自然の因果の一部として理解できることを示すことにあった。
精神と身体は、一つの出来事の二つの表現である
スピノザの視座は、精神と身体の関係にも大きな転換をもたらした。
デカルトは、精神を「思考する実体」、身体を空間的な広がりをもつ「延長する実体」として区別した。 この区別は、近代科学が身体を物理的対象として研究するうえで大きな力をもった一方、異質な精神と身体がどのように相互作用するのかという難問を残した。
スピノザは、精神と身体を二つの独立した実体とは考えなかった。 唯一の実体である神=自然には無限の属性があり、人間はそのうち「思考」と「延長」を知ることができる。ある一つの出来事を思考の属性のもとで捉えたものが精神的出来事であり、延長の属性のもとで捉えたものが身体的出来事なのである。 したがって、精神が身体という機械を外から操縦しているのでも、身体が物理的作用によって精神という別の実体を動かしているのでもない。精神と身体は、同じ人間的現実を異なる側面から表現したものだということになる。
悲しみを例に取れば、それを脳や身体の変化だけに還元する必要はなく、反対に身体と無関係な純粋な精神現象と考える必要もない。身体の力が低下していく過程と、悲しみとして経験される過程とは、一つの出来事の異なる表現である。 この考えは現代の神経科学とそのまま一致するわけではない。しかし、精神と身体のどちらか一方を真の原因とし、他方をその付随物とする単純な還元論を避ける視座として、今日でも示唆に富んでいる。人間は精神と身体を別々に所有しているのではなく、最初から心身一体の存在として自然の中にあるのである。
人間は「自然の中の王国」ではない
スピノザは、人間を「自然の中の王国」のように扱う思想を批判した。 この表現が意味するのは、人間だけが自然法則から独立し、自由意志によって自分自身を完全に支配していると考えることである。
私たちは怒り、嫉妬、恐怖、執着などを、本人の意志の弱さや性格の欠陥として非難しがちである。しかし、感情もまた一定の原因によって生じる自然現象である。スピノザは、人間の感情を嘲笑せず、嘆かず、憎まず、理解しようとした。 ある人が激しく怒ったとしよう。道徳的評価を先行させれば、「短気な人だ」「未熟だ」と結論づけて終わる。 しかしスピノザの視座からは、その怒りがどのように形成されたかを考える。何を奪われたと感じたのか。どのような期待を裏切られたのか。相手の行為をどのように解釈したのか。過去の記憶や現在の身体状態がどう影響したのか。自分の価値を傷つけられたという感覚が、どのように敵意へ変化したのか。 原因を理解することは、暴力や加害を容認することではない。行為に必要な制限を加えながらも、その人を理解不能な悪として排除しないことである。非難だけでは感情の生成過程は変わらない。原因を知ることによって初めて、感情に働きかける可能性が生まれる。
この点でスピノザの哲学は、道徳的断罪から因果的理解へと視線を移す。 人間を裁く前に、その人を動かしている力の配置を見る。この姿勢は、現代の精神医学や心理療法にも通じるところがある。
コナトゥス 〜存在し続けようとする力
スピノザによれば、すべてのものは、それ自身の存在を維持しようと努める。この自己保存への根源的な力を、スピノザは「コナトゥス」と呼んだ。
コナトゥスは、意識的な生存願望だけを意味しない。 石、植物、動物、人間を含むあらゆる個体が、その構造と働きを保ち、存在を持続させようとする傾向である。人間において、この力が精神と身体の両面に現れ、さらに意識されるとき、それは欲望と呼ばれる。
ここで欲望は、理性によって抑圧されるべき低級な衝動ではない。 欲望は人間の本質そのものであり、人間が生き、行為し、他者と関係しようとする根本的な力である。問題は欲望をなくすことではなく、欲望がどのような原因によって方向づけられ、自分の活動能力を高めたり低下させたりしているかを理解することである。
スピノザは、感情をコナトゥスの増減として説明した。 喜びとは、より大きな活動能力へ移行することであり、 悲しみとは、活動能力が低下することである。 愛は、喜びをその外的原因の観念とともに経験することであり、 憎しみは、悲しみをその外的原因の観念とともに経験することである。
私たちは、喜びをもたらしたと考える対象を保持し、悲しみをもたらしたと考える対象を遠ざけようとする。だが、その原因についての理解が不十分であれば、誤った対象へ愛着や憎悪を向けることがある。自分の苦痛の原因を特定の人物だけに求め、憎しみを募らせる場合がその一例である。
このようにスピノザは、感情を善悪の分類によってではなく、存在する力の変化として捉えた。感情は、理性に対立する不可解な混乱ではなく、身体、観念、記憶、他者との関係の中で生じる変化なのである。
善悪は、関係の中で生まれる
スピノザにとって、善と悪は、物そのものに備わった絶対的性質ではない。 あるものが私たちの本性に適合し、理解と活動の力を高めるなら、それを善と呼ぶ。反対に、私たちの力を妨げ、存在の維持を困難にするなら、それを悪と呼ぶ。
雨は、干ばつに苦しむ農民には善であり、洪水に襲われた住民には悪である。雨そのものが善であったり悪であったりするのではない。雨と個々の存在との関係によって、善悪の評価が生じる。 ただし、これは、すべての価値判断が恣意的であり、何をしてもよいという相対主義ではない。 人間には共通する身体的・精神的条件があり、互いに協力し、安全を確保し、知識を共有することは、多くの場合、それぞれの活動能力を高める。反対に、恐怖、暴力、支配、欺瞞が広がれば、人々は互いを警戒し、自らの力を十分に発揮できなくなる。
したがって倫理とは、超越的な命令への服従ではなく、人間がより能動的に存在できる条件を探究する営みとなる。何が罪であるかを宣告するよりも、何が人間の力を高め、何が人間を隷属させるのかを明らかにするのである。
また、個人の力は、その人だけで完結しているわけではない。 人間は食物、空気、言語、知識、制度、家族、友人、社会的協力に支えられて存在している。個人とは、外界から切り離された孤立した実体ではなく、多数の関係を一定の仕方で保っている動的な構成体である。 この意味で、他者は必ずしも自分の自由を奪う存在ではない。互いの本性が適合し、協力関係が成立するなら、他者は自分の力を増大させる存在となる。 理性的な人間にとって、人間ほど有用なものはないとスピノザが考えたのは、そのためである。
自由とは、原因から逃れることではない
スピノザの自由論は、私たちの常識に最も強く反する部分である。
私たちは通常、自由とは、何ものにも決定されず、複数の選択肢から自分の意志だけで選ぶことだと考える。しかしスピノザは、その意味での自由意志を認めない。人間の意志、判断、欲望、決断も自然の一部であり、必ず何らかの原因によって生じるからである。
それでは、人間は完全に運命に支配された無力な存在なのだろうか。スピノザの答えは否である。彼は自由を否定したのではなく、自由の意味を変更した。 自由とは、原因をもたないことではない。自分を動かしている原因を理解し、外部の力に受動的に振り回される状態から、自分自身の本性に基づいて能動的に行為する状態へ移ることである。
怒りに駆られ、衝動的に相手を攻撃するとき、本人は「自分の意志で行動している」と感じるかもしれない。しかしスピノザから見れば、その人は外部の刺激と不十分な観念に支配されている。この状態は自由というより、情念への隷属である。 一方、自分の怒りが、どのような期待、恐怖、記憶、身体反応から生じたかを理解できれば、怒りとの関係は変化する。感情が直ちに消えるとは限らないが、それに全面的に占領されず、別の行為を選ぶ力が増していく。
理性は、感情に命令する絶対的な主人ではない。 スピノザは、感情は単なる知識や命令だけでは抑えられず、それより強い反対の感情によって初めて変化すると考えた。危険だと分かっていても欲望を止められないことがあるのは、そのためである。必要なのは、感情を否定することではなく、理解によって新しい喜びや関係を形成し、より能動的な欲望を育てることである。
自由は必然性の反対ではない。必然性を理解することによって、受動性を減らしていくことである。ここに、スピノザ独自の自由の概念がある。
「永遠の相のもとに」見る
スピノザは、物事を「永遠の相のもとに」見るという視座を示した。
日常生活では、私たちは自分の現在の立場から出来事を経験する。 成功すれば自分の力を確信し、 失敗すれば世界から否定されたように感じる。 愛する人を失えば、世界全体が意味を失ったように思えることもある。 こうした経験は、人間にとって切実であり、単なる錯覚として退けることはできない。しかし、自分の視点だけを絶対化すると、一つの出来事が世界全体の意味を決定するかのように感じられてしまう。
永遠の相のもとに見るとは、時間を超えた別世界へ逃げることではない。自分の成功や失敗、愛や憎しみ、出会いや喪失を、自然全体の無限の因果関係の中へ置き直して理解することである。
「なぜ私だけがこのような目に遭うのか」と考えるとき、私たちは世界が自分を選び、罰したかのように感じている。しかし、出来事をより広い因果の連鎖の中で見れば、それが自分を罰する目的で起きたのではないことが分かる。無数の人間、身体、制度、偶然に見える条件が交差した結果として、その出来事は生じたのである。 この理解によって苦痛そのものが消えるわけではない。悲しむべきときには、なお悲しむだろう。しかし、苦痛に「世界全体から拒絶された」という意味を重ねずに済む可能性が生まれる。出来事を理解することは、出来事への隷属を少しずつ減らすのである。
さらに、自然全体の秩序を理解するとき、人間は自分が世界から切り離された孤独な存在ではないことを知る。有限な自己は無限の自然の一部であり、その理解自体が深い喜びをもたらす。 スピノザが「神への知的愛」と呼んだものは、人格神への服従というより、自分を含む自然の必然的秩序を理解することから生まれる肯定の感情であった。
スピノザの視座がもたらしたもの
スピノザが開いた視座を一言で表すなら、それは「世界を裁くことから、理解することへの転換」である。
神と自然を分離せず、自然の外部を想定しない。 人間を自然法則の例外とせず、精神と身体を一つの現実の異なる表現として捉える。 感情や欲望を罪として非難する前に、その原因と構造を理解する。 善悪を物に備わった絶対的属性ではなく、人間の活動能力との関係から考える。 自由を、原因から独立した意志ではなく、原因を理解することで受動性を減らす営みとして捉える。
この視座には、現代にも通じる厳しさがある。 世界は人間のために作られていない。不幸に必ず意味があるとは限らず、正しい人が必ず報われる保証もない。人間の意志も、自然の因果から独立してはいない。
しかし同時に、それは人間を無力にする思想ではない。 自分を動かしている原因を知れば、自分と感情との関係を変えることができる。 他者と協力すれば、互いの活動能力を高めることができる。 不完全な理解を、より適切な理解へ近づけることもできる。
スピノザにとって、救いとは自然の外へ脱出することではなかった。自然の内部にとどまりながら、自分がどのような関係の中で形成され、何によって動かされているのかを理解することであった。
デカルトが「考える私」を確実な出発点とし、主体と世界の関係を問い直した哲学者であるなら、スピノザは、その「私」を再び自然の中へ戻した哲学者である。人間は世界を外から眺める観客ではない。自然が自らを有限な仕方で表現している、一つの場所なのである。
だからこそ、世界を理解することと、自分自身を理解することは切り離せない。 自然を知ることは、その自然の一部である自分を知ることであり、自分を知ることは、自分を成り立たせている世界との関係を知ることである。
『世界を非難することから、世界を理解することへ。』 『人間を例外と考えることから、人間を自然の一部として見ることへ。』 『自由を気ままな選択と考えることから、自分を動かす必然性を理解することへ。』 この三つの転換の中に、スピノザが発見した、世界を観察し思索するための新しい視座がある。
参考書籍
- 國分功一郎『はじめてのスピノザ 〜自由へのエチカ』 講談社現代新書 「自由意志がないなら、人生は宿命に支配されるのか」という疑問から出発し、コナトゥス、感情、能動と受動、自由を平明に解説します。スピノザの自由が「何でも選べること」ではなく、自分を動かす原因を理解して能動性を高めることだと分かる、最良の入門書です。講談社
- 吉田量彦『スピノザ 〜人間の自由の哲学』講談社現代新書 神即自然、精神と身体、感情、善悪、必然性、自由、政治までを、歴史的背景と原典に即して体系的に説明した本です。新書ながら内容は厚く、入門書と専門書をつなぐ位置にあります。『エチカ』の個々の命題が、なぜ倫理や自由へ結びつくのかを理解するのに適しています。書誌情報
- 國分功一郎『スピノザ 〜読む人の肖像』岩波新書 完成された体系だけでなく、スピノザが何を読み、誰と交流し、どのように思索を形成したかをたどる思想的評伝です。破門された孤独な哲学者という固定像を越え、書簡や時代状況から「読む人」としてのスピノザを描きます。入門後に読むと思想の生成過程が立体的に見えてきます。岩波書店・著者メッセージ
- スピノザ『エチカ 〜倫理学』畠中尚志訳、岩波文庫(上下) 神、精神、感情、人間の隷属、知性の力を、定義・公理・定理・証明によって論じた主著です。最初から全証明を追うより、各部の序文・備考・付録を先に読み、第三部の感情論、第四部の隷属論へ進むと理解しやすくなります。訳語は古風ですが、長く読み継がれてきた基本文献です。岩波文庫版の概要
- スピノザ『神学・政治論』吉田量彦訳、光文社古典新訳文庫(上下) 聖書を歴史的文書として読み、宗教的権威が恐怖や服従と結びつく仕組みを分析した著作です。思想・言論の自由が、国家を弱めるのではなく、むしろ平和と安定を支えると論じます。『エチカ』の必然性と自由の思想が、宗教批判や政治哲学へ展開する過程を理解できます。
