賢者の視座②:トマス・アクィナス 〜論理と類比を駆使して、理性の限界への挑戦

理性と信仰を結び直した思想家 〜トマス・アクィナスの視座

中世ヨーロッパというと、信仰がすべてを支配し、理性による自由な探究が抑えられていた時代を思い浮かべるかもしれない。しかし実際の中世は、古代哲学、キリスト教神学、イスラーム思想、自然研究が出会い、新しい大学制度の中で激しく議論された知的変動の時代だった。その中心に立ち、信仰と理性、神と世界、魂と身体、個人と共同体を一つの体系の中で考えようとしたのが、トマス・アクィナスである。

アクィナスの最大の業績は、アリストテレス哲学をキリスト教神学に取り入れたことだといわれる。しかし、それは古代哲学にキリスト教的な言葉を付け加えただけではない。彼は両者の違いを明確にし、それぞれの真理と限界を見定めながら、新しい哲学・神学体系を構築した。 そこには、異なる立場を一方的に排除せず、概念を区別することによって、より包括的な理解へ進もうとする姿勢があった。

13世紀の知的革命

人は、1225年頃、南イタリアの貴族の家に生まれた。幼少期をモンテ・カッシーノ修道院で過ごした後、ナポリ大学で学び、家族の反対を押し切ってドミニコ会に入った。 その後、パリやケルンで、アリストテレス研究の第一人者だったアルベルトゥス・マグヌスに師事し、パリ大学などで神学を教えた。 代表作には、『神学大全』『異教徒大全』『存在者と本質について』、そしてアリストテレスの諸著作に対する注解がある。

当時の西欧社会では、アリストテレスの著作がイスラーム圏を経由して本格的に紹介され始めていた。それまでのキリスト教思想は、アウグスティヌスや新プラトン主義の影響を強く受けていた。そこへ、自然界の運動、原因、生命、魂、倫理、政治を、観察と理性によって体系的に説明するアリストテレス哲学が流入したのである。 これはキリスト教世界に大きな問題を投げかけた。 自然界が固有の原因と法則を持つなら、すべての現象を聖書から直接説明する必要はないのではないか。哲学が信仰とは異なる方法によって真理へ近づけるなら、哲学と神学が対立する可能性もあるのではないか。

アクィナスは、アリストテレス哲学を危険な思想として排除しなかった。 しかし、無条件に受け入れたわけでもない。アリストテレスの概念を用いながら、世界の創造、魂の不滅、神と世界の関係などについては、その思想を批判的に修正した。アクィナスの仕事は、アリストテレスの「キリスト教化」というより、異なる二つの思想体系を対話させ、双方を組み替える試みだった。

信仰と理性はどのような関係にあるのか

アクィナスの基本的立場は、「真理は真理に矛盾しない」という原則に表れている。人間の理性も神の啓示も、究極的には同じ神に由来する。したがって、正しく用いられた理性と、正しく理解された信仰とが、本当の意味で矛盾することはない。

ただし、理性と信仰が同じものだというわけではない。人間の自然的理性によって知ることのできる真理もあれば、神の啓示がなければ知り得ない真理もある。 自然界の秩序や因果関係を考えることによって、世界の究極的根拠として神が存在することは、ある程度まで理性的に論証できるとアクィナスは考えた。

しかし、神が三位一体であること、神が人間として受肉したこと、人間が恩寵によって救済されることなどは、理性だけからは導けない。これらは理性に反するのではなく、理性を超える真理である。

したがって、哲学と神学は、それぞれ異なる出発点を持つ。 哲学は感覚経験と自然的理性から出発し、神学は啓示された真理から出発する。哲学は神学の単なる召使いではなく、自然、人間、社会について、それ自体の方法で探究できる。一方、神学は、人間の理性だけでは到達できない領域を扱う。 両者の自律性と関係性を同時に認めたことが、アクィナスの重要な功績である。

反対意見から始める思考法

アクィナスの価値は、その結論だけでなく、議論の方法にもある。現代的意味では、こちらがより重要である。 代表作『神学大全』では、まず「神は存在するか」「人間に自由意志はあるか」といった問いが立てられる。 次に、自説に反対する有力な異論が列挙される。 その後、反対方向の根拠が示され、「私はこう答える」として自説が論証され、最後に最初の異論へ一つずつ回答が与えられる。 これは、反対説をできる限り強い形で提示し、その説が何を正しく捉えているかを認めたうえで、概念の混同や推論の限界を明らかにする方法である。

その際、アクィナスが重視したのが「区別」である。信仰と理性、魂と身体、自然と恩寵、自由と神の意志など、一見すると両立しないものでも、それぞれが成り立つ意味と水準を区別すれば、必ずしも矛盾するとは限らない。二者択一を急がず、問いそのものを組み替える方法が、スコラ哲学におけるアクィナスの特徴だった。

本質と存在

アクィナス哲学の中心には、「存在するとはどういうことか」という問いがある。彼は、事物の「本質」と「存在」を区別した。

本質とは、そのものが何であるかを示す。 たとえば一角獣がどのような動物であるかを定義することはできる。しかし、その定義を理解しただけでは、一角獣が現実に存在することにはならない。「何であるか」と「実際に存在すること」は別の問題だからである。

私たちを含む被造物では、本質と存在が区別される。人間の本質を理解しても、ある特定の人間が必ず存在するとは限らない。被造物は、自分自身の本質によって存在しているのではなく、存在を与えられて初めて現実のものとなる。

これに対して、神においては本質と存在が一致するとアクィナスは考えた。 神は存在を受け取った一つの存在者ではなく、「存在することそのもの」である。したがって神は、宇宙のどこかにいる非常に強力な存在者ではない。世界のほかのものと同じように存在しながら、ただ能力だけが無限に大きい存在でもない。 神は、あらゆるものが存在することを可能にする根源なのである。

可能態と現実態

アクィナスは、変化を説明するために、アリストテレスの「可能態」と「現実態」という概念を用いた。種子はまだ樹木ではないが、樹木になる可能性を持っている。この「なりうる状態」が可能態であり、実際に樹木となった状態が現実態である。

変化とは、可能態が現実態へ移ることである。しかし、可能性はそれだけでは自らを現実化できない。水が温かくなるには、火や加熱装置など、すでに一定の現実性を持つものから働きかけられる必要がある。 世界の事物には、まだ実現されていない可能性がある。それに対して神は、他の何かによって現実化される必要がなく、未実現の可能性や欠如を持たない「純粋現実態」である。神は何か別のものへ変化する存在ではなく、完全な現実性を持つ存在だとされた。

神の存在を示す「五つの道」

『神学大全』で最もよく知られているのが、神の存在を論証する「五つの道」である。

第一の道は、運動や変化から出発する。変化するものは、何らかの現実的なものによって変化させられる。そこで、他から動かされることなく、変化の系列を成立させる「第一の動者」が求められる。

第二の道は、作用因から出発する。何ものも自分自身を存在させる原因にはなれないため、原因の系列を根拠づける「第一原因」が必要になる。

第三の道は、存在することも存在しないこともありうる偶有的存在から、他によって存在を与えられない「必然的存在」へと進む。

第四の道は、真、善、完全性などに程度の違いがあることから、それらの究極的な根拠を考える。

第五の道は、知性を持たない自然物にも、一定の秩序と方向性が認められることから、その秩序を根拠づける知性的原理を導く。

ただし、五つの道は、宇宙の過去を時間的に遡り、「最初に神が世界を動かした」と主張するだけの議論ではない。アクィナスが問うているのは、今この瞬間にも世界が存在し、変化し、因果的秩序を保っているのはなぜかという問題である。 また、五つの道だけで、三位一体や人格神など、キリスト教の神のすべてが証明されるわけでもない。示されるのは、世界の存在と秩序を究極的に支える根拠である。

神を「類比」によって語る

アクィナスのいう「類比」とは、同じ言葉を、完全に同じ意味でも、まったく無関係な意味でもなく、一定の対応関係に基づいて用いることである。これを理解するには、「一義」と「多義」との違いを確認すると分かりやすい。

「人間は動物である」「犬は動物である」という場合、「動物」はほぼ同じ意味で使われている。これが一義的な用法である。 一方、「川のはし」と「食事に使う箸」のように、音は同じでも意味が無関係な場合は多義的な用法である。 類比は、その中間に位置する。たとえば「この人は健康である」「この食品は健康によい」「顔色が健康的である」という場合、「健康」の意味は完全には同じではない。しかし無関係でもなく、いずれも人間の健康を中心として結びついている。

神について語る場合にも、これと似た問題が生じる。 「人間は善い」と「神は善い」という二つの文で、「善い」が完全に同じ意味なら、神を人間と同じ種類の存在として扱うことになる。神は人間より非常に善いだけの存在になってしまう。しかし、「善い」の意味が両者でまったく異なるなら、「神は善い」と言っても、その内容を何も理解できない。 そこでアクィナスは、神と被造物について用いる言葉は、類比的に理解されると考えた。 人間は善を部分的に持ち、善くも悪くもなりうる。これに対して神は、善という性質を一部分として持つのではなく、善そのものの根源である。被造物の善は、神の善と同一ではないが、その原因である神の善を、有限で不完全な仕方で反映している。人間が善いのは「善に参与している」からであり、神が善いのは「神自身が善そのもの」だからである。

同じことは、「存在する」「知る」「愛する」といった言葉にも当てはまる。 人間は存在を与えられ、限られた仕方で知り、愛する。神は存在を与えられたものではなく、存在そのものであり、知と愛の根源である。したがって、神についての言葉は意味を持つが、神のあり方を完全に捉えることはできない。

類比は単なる比喩ではない。被造物が神を原因として存在し、その完全性を不完全に受け取っているという、存在論的な関係に基づいている。 類比によってアクィナスは、神を人間のように考える擬人化と、神については何も語れないとする不可知論の双方を避けようとした。私たちは神について真実を語ることはできる。しかし、その言葉は常に有限であり、語られた以上のものが神には残されている。 この「語りうるが、言い尽くせない」という立場が、アクィナスの類比論の核心である。

魂と身体から成る人間

アクィナスは、人間を身体という牢獄に閉じ込められた魂とは考えなかった。 彼は魂を身体の「形相」と捉えた。ここで形相とは外見ではなく、物質を一つの生きた存在として組織し、その働きを統一する原理である。

人間の魂は、身体を人間の身体として成立させ、感覚、運動、欲求、感情、思考を一つの生命としてまとめる。 したがって、人間は魂と身体を別々に寄せ集めたものではなく、心身から成る一つの存在である。アクィナスは知性的魂が死後も存続すると考えたが、身体から離れた魂だけを完全な人間とは見なさなかった。キリスト教における身体の復活が重要になるのも、このためである。

また、人間の認識は感覚経験から始まる。私たちは個々の人や物を見たり触れたりし、知性によって、そこから普遍的な性質を抽象する。一人ひとりの人間は異なっているが、知性はその経験から「人間とは何か」を理解できる。感覚を重視しながら、知性が普遍的な本質を把握できると考えた点に、アクィナスの認識論の特徴がある。

幸福と徳

アクィナスの倫理学では、人間の行為は何らかの善を目指すと考えられる。 食事をするのは生命を保つためであり、学ぶのは真理を知るためである。個々の目的の先には、人間が最終的に求める幸福がある。 しかし、富、名誉、快楽、権力などの有限な善だけでは、人間の欲求は完全には満たされない。人間の究極的幸福は、最高善である神を知り、神と結びつくことにあるとアクィナスは考えた。(著者あとがき参照)

幸福へ向かうために必要なのがである。 彼は、賢慮、正義、節制、勇気という古代以来の四つの枢要徳を受け入れ、信仰、希望、愛という三つの対神徳を加えた。

徳とは、規則に従うだけではなく、適切に感じ、考え、選択できる人格を形成することである。 勇気は恐怖をまったく感じないことではなく、何を恐れるべきかを判断し、正しい目的のために行動できる性向である。 節制も欲望の否定ではなく、欲望を人間全体の善と調和させることである。

特に重要なのが「賢慮」である。 一般的な規則を知っていても、それだけでは現実の問題を解決できない。具体的状況において何が善であるかを判断する実践的知恵が必要になる。この考え方は、個別性の高い判断を求められる医療、教育、司法などにも通じる。

自然法と共同善

アクィナスの倫理・政治思想で重要なのが自然法である。自然法とは、自然界のどこかに書かれた法律ではなく、神の永遠の秩序に人間の理性が参与することを意味する。

その第一原理は、「善を行い、追求し、悪を避けよ」と表現される。 そこから、生命を守ること、次世代を育てること、真理を求めること、他者と共同社会を形成することなどの基本的な善が導かれる。ただし、一般原理を具体的状況へ機械的に当てはめることはできない。複数の善が衝突する場面では、賢慮による判断が必要になる。

アクィナスは、法律を単なる権力者の命令とも考えなかった。法とは、「共同善のために、共同体を担う者が定め、公示した理性の秩序」である。したがって、正しい法には合理性、共同善、正当な制定者、公示が求められる。共同善に反し、人間の基本的な善を著しく損なう法律は、形式的には法律であっても、道徳的正当性を失いうる。

共同善とは、社会の成員が、それぞれ人間として善く生きられる条件全体を意味する。平和、教育、公正な制度、社会的信頼などは、誰か一人が独占することのできない、共同体全体で共有される善である。

アクィナスの遺産

アクィナスの思想は、死後すぐに広く受け入れられたわけではない。アリストテレス哲学を大胆に導入したことは、伝統的神学者から警戒された。しかし、1323年に聖人に列せられ、1567年には教会博士とされ、次第にカトリック神学を代表する思想家としての地位を確立した。 もっとも、中世後期の哲学がアクィナス一色になったわけではない。ドゥンス・スコトゥスやオッカムは、存在、意志、個体性、普遍概念などをめぐって、アクィナスとは異なる立場を示した。アクィナスの思想は、こうした批判との対立を通して「トマス主義」として形成されたのである。

近代になると、デカルト以降の主体哲学や近代科学の発展によって、スコラ哲学は時代遅れと見なされるようになった。 しかし19世紀末、教皇レオ13世がアクィナス哲学の復興を促し、「新トマス主義」が発展した。20世紀には、エティエンヌ・ジルソンがその存在論を再評価し、ジャック・マリタンが人格、民主主義、自然法、人権の問題へ展開した。

現代哲学においても、アクィナスの遺産はいくつかの領域に残っている。 第一に、神を自然科学で説明できない部分へ置くのではなく、「なぜそもそも何かが存在するのか」という問いから考える存在論である。 第二に、行為の規則だけでなく、どのような人格を形成するかを問う徳倫理学である。 第三に、制定法の上位に正義の基準を認め、法を共同善と結びつける自然法思想である。 第四に、心を身体から独立した実体とも、脳活動だけに還元される現象とも考えず、心身を一つの人間の働きとして理解する人間観である。

アクィナスの最大の遺産は、個々の結論以上に、対立する領域を関係づける思考方法にある。 現代社会でも、科学か宗教か、脳か心か、個人の自由か社会秩序かといった二者択一がしばしば提示される。しかし、これらは必ずしも同じ水準で競合する説明ではない。 たとえば、精神現象の神経基盤を解明することと、その人が経験している苦悩の意味を理解することは、互いを排除するものではない。一方は生物学的機序を説明し、他方は主観的経験や人生の文脈を了解しようとする。両者を混同せず、同時に切り離さない姿勢は、アクィナスの方法と通じている。彼は、一方を他方へ還元するのでもなく、それぞれがどの意味と水準で成り立つのかを区別し、より包括的な関係を構築しようとした。

アクィナスの遺産とは、完成した答えを受け取ることではない。自分の立場を絶対化せず、それでも真理の探究を断念しないという、思考の姿勢を受け継ぐことなのである。

アクィナスは人間の理性を深く信頼した。しかし、理性によって存在のすべてを把握できるとは考えなかった。人間の理性は真理へ向かう能力を持つが、有限であり、自らの限界を自覚しなければならない。 理性を最後まで用いることと、その限界に対して謙虚であること。異論を排除せず、最も強い形で受け止めること。対立するものを安易な二者択一へ追い込まず、必要な区別を通して関係づけ直すこと。この知的態度こそ、トマス・アクィナスが現代に残した最も重要な遺産なのである。

参考書籍

1.山本芳久『トマス・アクィナス 〜理性と神秘』 岩波新書、2017年。 アクィナス思想の魅力を伝える入門書となっています。 2.稲垣良典『トマス・アクィナス』 講談社学術文庫 アクィナスの生涯、時代背景、アリストテレス哲学との出会い、『神学大全』の構想をバランスよく学べる本です。思想形成の経緯をたどる、より本格的な概説書です。 3.山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の哲学』 慶應義塾大学出版会 アクィナスの人間論、とりわけ感情論を学ぶための優れた研究書です。 愛、憎しみ、喜び、悲しみ、希望、絶望、恐れ、怒りなどを、理性に対立する非合理的現象ではなく、人間が善へ向かって動くための力として読み解きます。 4.トマス・アクィナス『神学大全1――第I部 第1問題~第13問題』 高田三郎訳 全45巻を最初から通読する必要はありません。まず第1巻の重要箇所を選んで読むのが現実的です。 この巻には、 ・第1問題――神学とはどのような学問か ・第2問題――神は存在するか ・第3問題――神の単純性 ・第4問題――神の完全性 ・第5・6問題――善一般と神の善性 ・第12問題――人間は神をどのように認識するか ・第13問題――神をどのような言葉で語れるか が収録されています。「五つの道」は第2問題第3項にあります。 5.稲垣良典『トマス・アクィナス「存在(エッセ)」の形而上学』 春秋社 今回問題となった、 ・本質と存在の区別 ・存在への参与 ・存在と善の交換可能性 ・神を「自存する存在そのもの」と捉える理由 を深く理解するための専門的研究書です。

著者あとがき 〜キリスト教者の幸福とは

『人間の究極的幸福は、最高善である神を知り、神と結びつくことにある』とアクィナスは考ました。 ここでは、その思想の源流と、アクィナス以後を見ていくことで、キリスト教者の幸福論を考察します。

・キリスト教以前の源流 まずアリストテレスは、『ニコマコス倫理学』で、人間の行為は何らかの善を目指し、その最終目的が幸福であると考えました。富は別のものを得るための手段であり、名誉は他人の評価に依存するため、それ自体では完全な幸福になりません。最高の幸福は、知性による真理の観照にあるとされます。 ただし、アリストテレスの「神的なものの観照」は、キリスト教的な人格神との愛の交わりと同じではありません。『ニコマコス倫理学』第1巻

・アクィナス以前のキリスト教思想 アクィナスより約850年前にアウグスティヌスが、『告白』冒頭で「あなたは私たちを御自身へ向けて造られたので、私たちの心はあなたのうちに安らうまで安らぎを得ない」と述べています。有限な被造物では人間の心は最終的に満たされず、神に帰ることで初めて安らぐという思想は、すでにここに明確に示されています。アウグスティヌス『告白』 さらにアクィナスの議論に最も近い先例は、6世紀のボエティウスです。 『哲学の慰め』第3巻では、富、名誉、権力、名声、快楽が幸福の候補として順番に検討され、いずれも幸福の一部分しか与えず、完全な幸福は最高善である神にあると論じられています。アクィナスの列挙と非常によく似ています。ボエティウス『哲学の慰め』第3巻

・アクィナスの独自性 アクィナスの独自性は、結論よりも、その体系的な論証にあります。 『神学大全』では、富、名誉、名声、権力、身体的善、快楽、魂の善、あらゆる被造的善を一つずつ幸福の候補として検討しています。『神学大全』Ⅰ–Ⅱ部第2問 その論理は、単に「人間は欲深いので、いくら富があっても満足しない」という心理的観察ではありません。 人間の理性的意志は、特定の善だけでなく、「善そのもの」を普遍的に求めるように開かれている。ところが、富や名誉などの被造的善は、どれも限定された善にすぎない。したがって、ある有限な善を得ても、「それとは別の善」「それ以上の善」がなお残り、意志は完全には静まらない。 すべての善の根源である神だけが、この「普遍的な善」への志向に対応できる、という議論です。

そしてアクィナスは、完全な幸福の本質を、漠然とした「神との一体感」ではなく、「神の本質を直観すること」、すなわち至福直観に置きました。知性が神を直接知り、意志がその善を愛して安らうことが究極的幸福です。『神学大全』Ⅰ–Ⅱ部第3問第8項 したがって、「神と結びつく」という表現には少し注意が必要です。アクィナスが考えたのは、人間が神へ溶け込み、個体性を失うことではありません。人間と神の区別を保ったまま、神を知性によって直観し、愛によって享受することです。

また、富や快楽などを悪とみなしたわけでもありません。それらは真正な「部分的善」であり、現世の不完全な幸福には必要な場合もあります。問題は、有限な善を究極目的にしてしまうことです。アクィナスの倫理は、有限な善の否定ではなく、その正しい序列化を目指しています。

・アクィナス後の思想 〜キルケゴールや内村鑑三との対比 キルケゴール 〜神の前で真の自己となること キルケゴールの出発点は、人間本性の目的論よりも、一人の人間がどのように存在しているかという実存の問題です。 人間は、有限と無限、時間と永遠、必然性と可能性から成る緊張した存在です。 社会的地位、財産、快楽などだけに自己を閉じ込めれば、自己の永遠的側面を失います。しかし、有限な現実から逃れて、無限の空想や可能性だけに生きても真の自己にはなれません。 この両者の関係が崩れた状態が「絶望」です。 外見上は成功し、幸福そうに見える人も、自分を神から独立した存在として成り立たせようとするなら、深い意味では絶望していることになります。

キルケゴールによれば、絶望の反対は、幸福ではなく信仰です。ただ、信仰とは、神を客観的に理解し尽くすことではありません。『死に至る病』で示される信仰とは、自己であろうとしながら、自己を成立させた神のうちに安らうことです。 つまり、幸福の中心は「神を見る」という知的完成よりも、「神の前で、与えられた自己を引き受ける」という関係の真正化にあります。

またキルケゴールにとって、信仰は一度獲得すれば永久に安定する心理状態ではありません。 人間は時間の中で生きる以上、信仰を繰り返し選び直さなければならない。そこには不安、苦悩、逆説、決断が残ります。 したがってキルケゴールの立場は、「神を知ることによる完成」よりも、「神との関係の中で、絶えず真の自己になっていくこと」と表現できます。

内村鑑三 〜罪の赦しから生まれる平安と使命 内村が切実に問うのは、「罪の自覚に苦しむ人間は、どうすれば平安を得られるか」という問題です。

『求安録』では、内村は学問、自然研究、慈善事業、神学研究、家庭、快楽、楽天主義などによって、罪の苦しみから逃れようとします。しかし、いずれも根本的な救いを与えません。善行さえ、それによって自分を正当化しようとする限り、「自力による救済」の試みとなります。

転換点となるのは、キリストの十字架です。 人間が自分を完全にして神へ到達するのではなく、自分には自分を救う力がないと認め、キリストによる赦しを受け入れる。内村にとって平安とは、最高善を知性によって直観することではなく、「自分は赦され、神に受け入れられている」と信じるところから生じます。

しかも『求安録』の最後で、内村は、平安への道を知ることと、実際にその道を歩むことは同じではないと述べます。信仰そのものも神から与えられる賜物であり、人間はなお不完全だから祈り続けなければならない。したがって内村の平安は、完成された自己充足ではなく、神に依存して生きる平安です。内村鑑三『求安録』

また内村は、富や事業を単純に否定しません。 『後世への最大遺物』では、富も神、国家、社会のために用いられるなら価値ある遺物となると述べています。しかし、誰にでも遺せる最大のものは、困難の中でも正義を実行した「勇ましい高尚なる生涯」です。 信仰は内面的平安にとどまらず、他者に仕え、世界を少しでも良くする使命へ向かわなければなりません。内村鑑三『後世への最大遺物』

三者の類似と違い 三者にとって神は、有限な幸福を補う「もう一つの善」ではなく、人生全体の意味を変える究極的な根拠です。 しかし、その完成の捉え方が異なります。 ・アクィナス:神を直接見ることによる、人間本性の客観的完成 ・キルケゴール:神の前で自己を引き受ける、実存的関係の真正化 ・内村鑑三:キリストによって赦され、神に委ねて使命を生きる平安

比喩的にいえば、 ・アクィナスの完全幸福は「到達すべき完成」、 ・キルケゴールの信仰は「生涯にわたって歩み続ける関係」、 ・内村の平安は「自力を手放して与えられる救いと、そこから始まる実践」 です。 三者は同じ神を究極的根拠としながら、アクィナスは主に「完成」、キルケゴールは「自己」、内村は「赦しと使命」を中心に考えたのです。