賢者の視座①:アリストテレス 〜観察と論理の基本座標創造
賢者の視座①:アリストテレス 〜観察と論理の基本座標創造
世界そのものの中に、理解可能な秩序を探す
紀元前四世紀のギリシアに生きたアリストテレスは、論理学、自然学、生物学、形而上学、心理学、倫理学、政治学、詩学など、驚くほど広い領域を研究した。そのため、彼の業績は「多くの学問の祖」として列挙されることが多い。しかし、アリストテレスの本当の革新は、個々の知識を大量に残したことだけではない。 より重要なのは、世界をどのように観察し、どのような問いを立て、何をもって理解したとみなすのかという、知の基本的な座標軸を作ったことである。
アリストテレスは、世界についての最終的な正解をすべて発見したのではない。 彼の自然学や生物学には、現代から見れば多くの誤りがある。それでもなお彼が西洋思想に大きな影響を与え続けてきたのは、世界を考えるための「答え」以上に、世界へ向ける「視座」を残したからである。
目の前の個物から出発する
アリストテレスの師プラトンは、感覚によって捉えられる世界は絶えず変化するため、確実な知識の対象にはなりにくいと考えた。美しいものは色あせ、正しい制度も崩れ、個々の人間は生まれて死んでいく。 そこでプラトンは、移ろう個物の背後に、永遠不変の「美そのもの」「正義そのもの」「人間そのもの」といったイデアを想定した。
アリストテレスも、知識が単なる個別的印象の集積ではなく、普遍的な構造を捉えるものであることには同意していた。しかし、その普遍的構造が、個物から切り離された別世界に存在するとは考えなかった。
私たち出会うのは、「人間一般」ではなくソクラテスであり、「馬そのもの」ではなく目の前の一頭の馬である。したがって、知識はまず、現実に存在する個物を観察するところから始まる。複数の個物を比較し、共通点と相違点を見分け、それぞれの事物を成り立たせている構造を見いだす。こうして人間の知性は、個別的経験から普遍的理解へと進んでいく。
これは、感覚に現れるものだけが真実だという単純な経験主義ではない。アリストテレスが目指したのは、観察された事実から、その背後に働く構造や原因へ進むことであった。 私たちにとって最初に知られるものは具体的な現象だが、学問が最終的に求めるのは、その現象がなぜ成り立つのかという理解なのである。
観察し、比較し、分類する
この姿勢が最もよく表れているのが、アリストテレスの生物学である。 彼は動物の身体構造、生殖、発生、行動、生息環境を調べ、多数の生物を比較した。自ら観察したものだけでなく、漁師や養蜂家などから得た情報も利用したと考えられている。
その記述には、正確な観察と伝聞による誤りが混在している。また、統制された実験や数量的検証を中心とする近代科学と、彼の方法を同一視することもできない。 それでも、生物を神話の象徴としてではなく、構造と機能をもった自然的存在として観察し、比較し、分類しようとした意義は大きい。
一頭の動物を孤立して眺めるだけでは、その特徴が何を意味するかは分からない。 魚、鳥、哺乳類を比較して初めて、えら、肺、翼、四肢などが、それぞれの生活様式とどのように関係しているかが見えてくる。アリストテレスは、個々の事実を集めるだけでなく、差異の中から秩序を見いだそうとした。
ここには、 観察する、比較する、分類する、共通構造を捉える、原因を説明する という、 後の学問にも受け継がれる基本的な運動がある。
事物を「質料」と「形相」から理解する
アリストテレスは、現実の事物を「質料」と「形相」の結合として捉えた。 質料とは、そのものを構成する材料である。 形相とは、単なる外見上の形ではなく、そのものをそのものとして成立させている構造、組織、働きである。
たとえば木製の椅子について考えてみる。木材は椅子の質料である。 しかし、木材が置かれているだけでは椅子ではない。脚、座面、背もたれが一定の関係に配置され、人が座れる構造をもって初めて椅子になる。この構造と働きが椅子の形相に当たる。
生物についても同じである。 心臓は、筋肉や血管などの物質だけを寄せ集めたものではない。それらが特定の仕方で組織され、血液を循環させる働きを担うことによって心臓となる。 生物は物質からできているが、その生命は物質の単純な総和では説明できない。 物質がどのように組織され、全体の中でどのような働きを果たしているかを見なければならない。
これは現代的に言えば、対象を材料だけでなく、構造・機能・システムの水準から理解する視座である。 アリストテレスは、事物を物質だけに還元する見方と、現実から切り離された理念だけで説明する見方の間に、第三の道を開こうとしたのである。
事物を考える上での、4つの視点
アリストテレスは、ある事物を本当に理解するには、その「原因」を知らなければならないと考えた。 ただし、彼のいう原因を、現代の「先行する出来事が後続する出来事を引き起こす」という意味だけに限定してはならない。ギリシア語のアイティアは、より広く「なぜそうなのかに対する説明」を意味する。
彼は、この説明を四つに分けた(四原因論)。 第一は「質料因」であり、何からできているかという問いである。木製の椅子であれば木材がこれに当たる。 第二は「形相因」であり、どのような構造をもち、何であるかという問いである。座面や脚が椅子として組織されていることが形相因となる。 第三は「作用因」であり、何によって生じたのかという問いである。椅子を作った職人や製作過程がこれに当たる。 第四は「目的因」であり、何のために存在するのか、あるいはどのような完成へ向かうのかという問いである。椅子であれば、人が座るためという目的がある。
近代科学は、とくに作用因を重視してきた。ある出来事の前に何が起こり、それがどのような機序で結果を引き起こしたのかを調べる。しかしアリストテレスは、それだけでは対象を十分に理解できないと考えた。
心臓を理解するには、何でできているか、どのような構造をもつか、どのように形成されたか、そして生体全体の中でどのような機能を果たしているかを、それぞれ区別して問う必要がある。一つの「なぜ」に単一の答えを与えるのではなく、異なる水準の説明を重ね合わせるところに、四原因論の重要性がある。
変化を「可能性の現実化」として捉える
古代ギリシア哲学にとって、変化は難問だった。 まったく存在しないものから存在するものが生じるなら、無から有が生まれることになる。一方、すべてが絶えず変化するだけなら、安定した知識は成立しない。 アリストテレスは、この問題を「可能態」と「現実態」という概念によって解こうとした。
ドングリは、現実にはまだ樫の木ではない。しかし、石とは異なり、樫の木になりうる可能性をもっている。適切な土壌、水、光などの条件が与えられると、その可能性が成長を通じて現実化する。したがって、樫の木は完全な無から出現するのではない。ドングリに備わっていた一定の可能性が、現実の形を取るのである。 この考えによって、変化は無秩序な出来事ではなく、あるものが、それになりうるものへ移行する過程として理解された。
もちろん、可能性は未来の結果を絶対に保証するものではない。ドングリがすべて樫の木になるわけではない。可能性が現実化するには、環境や条件、外部からの働きかけが必要である。ここには、内的な能力と外的条件を結びつけて発達を考える視点がある。
この枠組みは、人間の成長や教育にも適用された。人間は、生まれた時点ですでに完成した理性的存在なのではない。学習、訓練、習慣、他者との共同生活を通じて、備わっている能力を現実の活動へと変えていくのである。
心と身体を分離しすぎない
アリストテレスは『魂について』において、魂を「生命をもつ自然的身体の形相」と捉えた。ここでいう魂は、身体の内部に収納された幽霊のような別個の物体ではない。生きた身体が、栄養を取り、成長し、知覚し、運動し、思考することを可能にしている生命の組織原理である。
眼と視覚の関係を考えると分かりやすい。 眼球という物質が存在するだけでは、見ることは成立しない。眼が生きた器官として組織され、視覚という能力を働かせるとき、それは本来の意味で眼である。アリストテレスは、魂と身体を二つの完全に独立した実体として並べるのではなく、一つの生物を質料と形相という二つの側面から捉えた。
知性の一部が身体から分離可能かという問題について、彼の議論には解釈上の難しさが残る。それでも、知覚や感情、欲求、運動を、生きた身体の活動として理解した点は重要である。 心を物質だけへ還元せず、同時に身体から切り離されたものとも考えない。この視座は、現代の心身論や認知科学にも通じる問題を提起している。
正しい思考にも「形」がある
アリストテレスは、世界を観察するだけでなく、その観察から正しい結論を導く思考の方法を分析した。後世に『オルガノン』と総称された論理学的著作の中で、彼は言葉、命題、推論、論証の構造を研究した。
その中心にあるのが三段論法である。 すべての人間は死すべきものである。 ソクラテスは人間である。 ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。
ここで重要なのは、ソクラテスについての知識ではなく、前提から結論が導かれる構造です。 アリストテレスは、思考そのものを観察対象にし、正しい推論と誤った推論を形式によって区別する視座を確立しました。(著者あとがき参照)
もっとも、彼が人類で初めて論理的に考えたわけではありません。革新は、すでに行われていた推論を分類し、一般的な規則として明示したことにあります。
「存在は多くの意味で語られる」
アリストテレスは、世界全体を一つの原理だけに還元しようとはしなかった。彼は「存在は多くの意味で語られる」と考えた。
「人間が存在する」「その人は白い」「その人は座っている」「その人は昨日より大きい」という表現では、同じように「ある」と語られていても、その意味は異なる。そこでアリストテレスは、実体、量、性質、関係、場所、時間などのカテゴリーを区別した。
この発想には、異なる存在の仕方を同じ平面で扱ってはならないという洞察がある。 物体、性質、関係、行為を混同すれば、問いそのものが混乱する。何が存在するのかを問う前に、それがどのような意味で存在すると語られているのかを確かめなければならない。
同じ理由から、学問の方法も対象によって異なる。 数学、自然学、倫理学、政治学では、扱う対象が違うため、求められる厳密さも同じではない。変動する人間の行為について、幾何学と同じ確実性を要求することはできない。対象が許す以上の精密さを求めることも、対象が許す精密さを放棄することも、ともに適切ではないのである。
これは、学問には一つの万能な方法しかないと考えるのではなく、対象に即して問い方と証明の水準を選ぶという、方法論的多元性の視座であった。
人間を「実践によって形成される存在」と見る
アリストテレスの倫理学も、抽象的な善の定義だけを求めるものではない。倫理学の目的は、善を知ること以上に、実際によりよく生きることにある。
彼が人間の最高善とした『エウダイモニア』は、単に快い気分であることではない。それはしばしば「幸福」と訳されるが、より正確には、人間の能力をよく働かせながら、生涯全体を通じて充実して生きることを意味する。
そのために必要なのが徳である。 しかし徳は、生まれながらに完成した性格ではない。公正な行為を繰り返すことによって公正な人となり、勇気ある行為を重ねることによって勇気ある人となる。人格は、行為と習慣によって形成される。
有名な「中庸」も、単なる足して二で割る平均ではない。 恐怖を感じすぎることと、まったく恐れないことの機械的中間が勇気なのではない。誰が、何を、いつ、どのような理由で恐れるべきかを、その状況に即して判断することが求められる。 この具体的判断を担うのが、実践知、すなわち『フロネーシス』である。 ここでは、人間は普遍的な規則を自動的に適用する存在ではなく、変化する状況の中で、経験と理性を用いて適切な行為を選ぶ存在として捉えられている。
さらに、人間は孤立した個人ではない。アリストテレスは、人間を「ポリス的動物」と呼んだ。 人間は言葉を用いて、有益と有害、正義と不正義について語り合い、共同体を形成する。個人の幸福は、身体的条件、友人、教育、法律、政治制度などから完全に切り離すことができない。人間の生を理解するには、個人の内面だけでなく、その人が生きる関係と共同体を見なければならないのである。
誤りを含みながら、問いを残した思想
アリストテレスの体系を、そのまま現代へ移すことはできない。 彼の宇宙論や運動論は近代物理学によって覆され、生物学には観察上の誤りが含まれている。自然には固定された目的があるという考えも、進化論以後、大きく組み替えられた。また、奴隷制や女性の地位に関する彼の議論には、当時の社会的偏見が深く入り込んでいる。
それでも、彼の思想的価値は失われない。なぜなら、その遺産は個々の結論以上に、問いを分解し、異なる説明水準を区別し、現実の複雑さに即して考える方法にあるからである。
ある現象に出会ったとき、アリストテレス的な視座は問いかける。 それは何からできているのか。 どのような構造をもつのか。 何によって生じたのか。 全体の中でどのような働きを果たすのか。 どのような可能性が、どのような条件によって現実化したのか。 そこから導いた結論は、本当に前提から必然的に導かれているのか。
この問い方は、一つの原因ですべてを説明する還元主義にも、事実を集めるだけの素朴な経験主義にも陥らない。物質、構造、過程、機能、環境、目的を区別しながら、それらの関係として対象を理解しようとする。
アリストテレスが発見した最も重要な視座とは、世界の真理を現実から切り離された場所に求めるのではなく、現実の事物を丁寧に観察し、その内部にある秩序を、適切に分けられた問いと論理によって明らかにしようとする姿勢であった。
彼が人類に残したのは完成した世界像ではない。それは、世界を観察し、問いを立て、理由を区別し、思考を吟味するための座標軸だったのである。
著者あとがき 〜正しい推論と誤った推論の区別とは
アリストテレスが論理学にもたらした最大の革新は、推論の正しさを、語られている内容のもっともらしさではなく、その「形式」によって判定しようとしたことである。
彼は『分析論前書』において、一定の事柄が前提として置かれたとき、それらがそうであることによって、前提とは別の事柄が必然的に帰結する推論を三段論法として捉えた。重要なのは「結論が事実として正しいか」だけではなく、「その結論が、与えられた前提から必ず導かれるか」である。
たとえば、次の推論は妥当である。 すべての哺乳類は動物である。 すべてのクジラは哺乳類である。 ゆえに、すべてのクジラは動物である。
具体的な語を記号に置き換えると、 すべてのMはPである。 すべてのSはMである。 ゆえに、すべてのSはPである。 となる。
Sは結論の主語である小項、Pは結論の述語である大項、Mは二つの前提をつなぐ中項である。 集合として考えれば、SがMに含まれ、MがPに含まれる以上、Sは必ずPに含まれる。 この形式では、S・M・Pにどのような語を代入しても、前提が真で結論だけが偽になる場合を作れない。
これに対して、次の推論は妥当ではない。 すべての精神科医は医師である。 すべての外科医は医師である。 ゆえに、すべての外科医は精神科医である。
形式化すると、 すべてのPはMである。 すべてのSはMである。 ゆえに、すべてのSはPである。 となる。 精神科医と外科医が、ともに医師という大きな集合に属することは分かる。しかし、そのことから両者の包含関係は導けない。猫と犬がともに哺乳類であるからといって、犬が猫になるわけではないからである。
アリストテレスの三段論法では、命題を全称か特称か、肯定か否定かによって区別する。 A・E・I・Oという記号は後世の伝統論理学で定着した呼称である。
画像
具体的な推論を判定するときは、まず文章をこの標準形に整える。 次に結論の主語をS、述語をPとし、二つの前提に現れて結論には現れない語をMとする。 そして、A・E・I・Oのどの命題が、どの順序で並んでいるかを調べる。
さらに重要なのが「周延」である。 周延とは、ある名辞が、その集団全体を指して用いられていることをいう。「すべての猫は哺乳類である」は猫の全体について述べているが、哺乳類の全体について述べているわけではない。この場合、猫は周延しているが、哺乳類は周延していない。
伝統的な三段論法では、少なくとも次の点を調べれば、多くの誤りを発見できる。
- 中項Mが、少なくとも一方の前提で集団全体を指しているか。
- 結論で全体について述べる名辞が、前提でも全体について扱われているか。
- 二つの否定前提から結論を出していないか。
- 肯定前提だけから否定結論を出していないか。
- 特称的な前提から、根拠なく全称的結論へ飛躍していないか。
「精神科医も外科医も医師である」という推論では、中項の「医師」が、いずれの前提でも医師全体を指していない。したがって二つの集団を結びつけるには不十分である。この誤りは、後世に「媒概念不周延の誤謬」と呼ばれた。
形式が誤っていることを確認する最も簡明な方法は、前提をすべて真にしたまま、結論だけを偽にする反例を一つ作ることである。 すべての猫は哺乳類である。 (真) すべての犬は哺乳類である。 (真) ゆえに、すべての犬は猫である。 (偽)
この反例が成立する以上、「すべてのPはMであり、すべてのSはMであるなら、すべてのSはPである」という形式は妥当ではない。反対に、どのような語を代入しても、前提が真で結論が偽になる場合を作れないなら、その形式は妥当である。
アリストテレス自身は、中項の位置によって三段論法を三つの「格」に分類した。 そして、必然性が明瞭な第一格の推論を基本形とし、ほかの推論を命題の換位や背理法によって基本形へ還元した。 後世の論理学者は、妥当な形式にBarbara、Celarentなどの名称を与え、判定規則をさらに整理した。
ここで、「妥当であること」と「真実であること」を区別しなければならない。 すべての惑星はチーズである。 すべてのチーズは食べられる。 ゆえに、すべての惑星は食べられる。
この推論は、前提の内容は明らかに誤っているが、形式そのものは妥当である。反対に、結論が偶然正しくても、前提から導かれていなければ推論は妥当ではない。
したがって、信頼できる論証には二つの条件が必要になる。 第一に、推論形式が妥当であること。 第二に、出発点となる前提が事実として正しいこと。 この二つを満たす推論を、現代の論理学では「健全な推論」と呼ぶ。
もっとも、アリストテレスの論理学が主として扱うのは、「すべてのSはPである」という主語―述語型の命題である。「もしPならQである」という条件文や、「すべての人が誰かを愛している」のように複数の関係を含む命題を、十分に分析することはできない。これらはストア派の命題論理や、近代以降の述語論理によって拡張された。
それでも、具体的な内容をいったん外し、推論の骨格だけを取り出して、結論が本当に前提から導かれているかを吟味するという発想は、今日の科学的推論にも受け継がれている。 アリストテレスが見いだしたのは、正しい答えだけではない。私たち自身の思考を、もう一度思考の対象として点検する方法だったのである。
参考書籍
- 山口義久『アリストテレス入門』ちくま新書 最初の一冊として最も勧めやすい概説書です。論理学、自然と原因、実体と本質、生命、倫理を別々に紹介するのではなく、アリストテレスの「知の方法」として一続きに説明します。四原因論、可能態と現実態、形相と質料を整理し、原典へ進むための地図を得られます。筑摩書房
- アリストテレス『ニコマコス倫理学』上下 渡辺邦夫・立花幸司訳、光文社古典新訳文庫 幸福を快い気分ではなく「徳に即した魂の活動」と捉え、習慣による人格形成、中庸、選択、実践知、正義、友愛、観想を論じます。抽象的な善を定義するだけでなく、変化する状況の中で、いかに善く生きるかを考える書です。比較的読みやすい新訳で、原典への入口にも適しています。光文社古典新訳文庫
- アリストテレス『魂について』 中畑正志訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉 魂を身体の中に宿る別個の物体ではなく、生きた身体を生命あるものとして働かせる「形相」と捉えます。栄養、知覚、欲求、運動、思考を段階的に検討し、心身関係の基礎を築いた重要書です。精神医学、認知科学、心の哲学に関心がある読者には、とくに示唆の多い一冊です。京都大学学術出版会
- アリストテレス『形而上学』上下 出隆訳、岩波文庫 「存在するとは何か」を中心に、実体、本質、形相と質料、可能態と現実態、原因、第一の原理を探究した主著です。難解ですが、今回取り上げたアリストテレスの視座を根底から理解できます。最初から通読するより、第一巻、第四巻、第七巻、第九巻、第十二巻を軸に読むのが現実的です。出版書誌データベース
- アリストテレス『分析論前書・分析論後書』 今井知正・河谷淳・高橋久一郎訳、岩波書店〈新版アリストテレス全集2〉 『分析論前書』では三段論法の形式を分類し、どの前提から何が必然的に導かれるかを検討します。『分析論後書』では、単なる妥当な推論を超えて、科学的知識や論証が成立する条件を論じます。難度は高いものの、「正しい推論を形式で区別する」とは何かを原典で確かめられます。CiNii Books
著者雑感
三段論法を中心とした論理、世界を観察する基本的な方法、事物を思考する4つの視点、私たちが無意識に使っているこれらの視座が、2300年以上も前にアリストテレスによって体系化されていたという事実には、視座をテーマとしたコラムを企画する段階において、あらためて驚きを禁じ得ませんでした。 このため、視座をテーマとしたコラムシリーズは、当初予定していたデカルトからではなく、アリストテレスからはじめることとしました。
彼をはじめとする多くの賢人たちが見出した視座は、私たちの思考を深く豊かにしてくれる、かけがえのない道しるべです。 精神科臨床は、言語で語り得ない精神現象を扱う領域であり、一つの明確な答えに辿り着くことが極めて困難な運命にあります。しかし、可能な限り多様な視座をもつことは、そうした捉えどころのない精神現象により的確に迫るための、大きな一歩になると私は信じています。 本コラム集が、皆様にとって新たな視座を獲得する一助となれば幸いです。
