親の経験は「記憶」として子に伝わる?遺伝子の記憶「エピジェネティクス」の物語

親の経験は「記憶」として子に伝わる?――遺伝子の記憶「エピジェネティクス」の物語

親の経験は「記憶」として子に伝わる?
――遺伝子の記憶「エピジェネティクス」の物語

遺伝子のイメージ

「運命」は生まれた瞬間に決まっているのか?

「性格は親に似る」「体質は遺伝だから仕方ない」――。私たちはこれまで、人生の多くの部分が、親から受け継いだDNAという「設計図」によって支配されていると考えてきました。

しかし今、科学の世界ではその常識が根底から覆されようとしています。親が経験した強いストレス、食べたもの、さらには学んだことまでもが、DNAの配列そのものは変えずに「記憶」として書き込まれ、次の世代へと受け継がれる……。そんな、まるでSFのような現象が解明されつつあるのです。この鍵を握るのが、「エピジェネティクス」という最新の生命科学です。

DNAは「楽譜」、エピジェネティクスは「演奏」

まず、私たちの体を動かす仕組みを「ピアノ」に例えてみましょう。親から受け継いだDNAの塩基配列は、いわば「楽譜(ハードウェア)」です。楽譜そのものは一生変わりません。

しかし、同じ楽譜を見て演奏しても、激しく力強い曲になることもあれば、静かで悲しい曲になることもありますよね。この「どの音を、どんな強さで弾くか」を決めるスイッチの役割を果たすのがエピジェネティクスです。

環境や経験によって、DNAの特定の場所に「付箋(ふせん)」が貼られたり、逆に剥がされたりします。この付箋がつくと、その部分の遺伝子は働かなくなります。つまり、私たちの経験が、自分自身の遺伝子の「スイッチ」をパチパチと切り替えているのです。

科学が証明した「遺伝する記憶」

驚くべきは、この「スイッチの切り替わり(付箋の状態)」が、子供や孫の世代まで引き継がれる可能性があるという点です。

1. サクラの香りを恐れるネズミ
父マウスに「サクラの花の香り」を嗅がせると同時に足元に微弱な電流を流すと、父マウスは香りだけで恐怖を感じるようになります。驚いたことに、その子や孫たちは、一度も電流を経験していないにもかかわらず、サクラの香りを嗅ぐとおびえる動作を見せたのです。父の「記憶」が、精子の遺伝子スイッチを通じて子孫に書き込まれていたのです。

2. 歴史が証明する「飢餓の記憶」
第二次世界大戦末期のオランダでの飢餓。この時お腹にいた赤ちゃんたちは、大人になってから肥満や糖尿病、精神疾患を患う確率が非常に高いことがわかりました。母親の「栄養不足」という経験が、胎児の遺伝子に「エネルギーを溜め込みやすい体質になれ」という付箋を貼ってしまったと考えられています。

「心の病」と遺伝子の記憶

精神科の領域でも、この研究は重要視されています。例えば、幼少期に辛い虐待やネグレクトを経験すると、脳内の「ストレスを鎮めるブレーキ」の遺伝子に、強力な付箋が貼られてしまうことがあります。

すると、大人になってから少しのストレスでも過剰に反応してしまい、うつ病や不安障害になりやすくなることがわかっています。「なぜ自分はこれほどまでにストレスに弱いのか」と悩む方がいますが、それは本人の根性の問題ではなく、過去の経験や親の世代からの影響が、遺伝子のスイッチに刻まれているからかもしれません。

希望のメッセージ:付箋は「貼り替え」ができる

エピジェネティクスが私たちにくれる最大の希望は、「遺伝子のスイッチは、後からでも変えられる」という点にあります。DNAそのものは書き換えられませんが、その上の「付箋」は、その後の環境や行動で貼り替えることができるのです。

  • 安心できる人間関係
  • バランスの良い食事と適度な運動
  • カウンセリングや適切な治療

これらはすべて、私たちの遺伝子のスイッチを良い方向へ押し戻す力を持っています。動物実験でも、豊かな環境で育てることで、親から受け継いだ負の遺伝子スイッチがリセットされることが証明されています。

私たちは、親から受け取ったバトンをただ運ぶだけのランナーではありません。今日あなたが自分を労り、誰かと笑い合うポジティブな経験が、あなた自身、そして次世代の遺伝子に「世界は案外、温かい場所だよ」という新しい付箋を貼っているのかもしれません。