細胞分化を探る地図:『エピジェネティック・ランドスケープ』の現在、 〜2026年10月9日のQuanta Magazine記事より
細胞分化を探る地図:『エピジェネティック・ランドスケープ』の現在、 〜2026年10月9日のQuanta Magazine記事より
私たちの身体には、神経細胞、筋肉細胞、肝細胞など、形も働きも異なる細胞があります。これらの細胞は、もともと一つの受精卵から生まれました。
基本的に同じDNAを受け継いでいるのに、どうしてこれほど違う細胞になるのでしょうか。 そして、いったん肝細胞になった細胞は、なぜ肝細胞として働き続けられるのでしょうか。 この二つの疑問を理解する手掛かりが、「エピジェネティック・ランドスケープ」です。 英国の生物学者ワディントンが示した、細胞分化を地形にたとえる考え方です。丘の上にある球が斜面を下り、枝分かれする谷のどれかへ進んでいく。この絵は、細胞が特定の役割を獲得する過程と、その役割を保つ仕組みを一緒に表しています。
まず、細胞の違いを生む基本的な仕組みを確認しましょう。 DNAには、多くのタンパク質を作るための情報が書かれています。しかし、一つの細胞がすべての情報を同じように使っているわけではありません。どの遺伝子から、どの程度RNAを作り、それをもとにどのタンパク質を作るかが、細胞ごとに異なります。 このように遺伝子の情報が利用されることを「遺伝子発現」といいます。
例えば、肝細胞ではアルブミンの産生などに必要な遺伝子が働き、筋肉細胞では収縮に必要なタンパク質を作る遺伝子が働きます。同じ料理本から違うレシピを選ぶように、細胞ごとに使う遺伝子が異なるのです。
この違いを地形に置き換えると、球の位置は「細胞が現在どのような状態にあるか」を表します。丘の上の球は、まだ進路が十分に限定されていない細胞です。谷を下るにつれて進める道が絞られ、特定の性質を持つ細胞へ分化します。 この図で球が動くことは、体内で細胞が移動することではありません。変わるのは、遺伝子発現やタンパク質の働きなど、細胞の内側の状態です。 また、図の高さは実際のエネルギー量を測ったものではありません。「どの状態になりやすく、どの状態から変わりにくいか」を、見える形にした概念図です。
谷の中の球を少し横へ押しても、手を離すと谷底へ戻ります。細胞にも、これに似た性質があります。肝細胞が細胞内の分子の少しの変動で筋肉細胞にならないのは、現在の性質を保つ仕組みがあるためです。
周囲の状態から近づいていき、少し乱されても戻ってくるような状態を、数学では「アトラクター」と呼びます。このコラムでは、まず「細胞が落ち着きやすい谷底」と理解するとよいでしょう。 ただし、その安定性は分子の活動が止まることで生まれるわけではありません。細胞内では、RNAもタンパク質も絶えず作られ、分解されています。
その中で細胞の性質を保つのが、遺伝子の働きを調節する仕組みです。 特に重要なのは「転写因子」と呼ばれるタンパク質です。転写因子は、特定の遺伝子からRNAが作られるのを促したり、抑えたりします。転写因子同士も互いの量を調節します。こうしたつながりを「遺伝子制御ネットワーク」と呼びます。
造血を例に考えてみましょう。GATA1という転写因子は赤血球系などへの分化に、PU.1という転写因子は骨髄球・単球系などへの分化に関わります。 両者の働きを単純化したモデルでは、それぞれが自分の側の働きを強め、相手の側を抑えます。一方が優勢になると、その状態が維持されやすくなるのです。実際の造血には多数の因子が関わりますが、分化の分かれ道を理解するよい例です。 例えば、赤血球系へ進む仕組みが働き始めると、その性質を支える遺伝子群が働き、別の系統へ進む仕組みは抑えられます。ランドスケープの「谷」は、このような分子同士の関係をまとめて表したものです。
ここで、周囲から強い分化シグナルが届いたらどうなるでしょうか。 シグナルによって転写因子の量や働きが変われば、それまで保たれていた状態が維持しにくくなることがあります。図の言葉でいえば、球が落ち着いていた谷が浅くなり、別の谷へ進みやすくなるのです。条件によっては、元の谷そのものがなくなることもあります。
外部シグナルによって状態Aの谷が浅くなり、さらに条件が変わって谷が消えると、状態Bへ移る様子を示しています。
最初は状態Aが保たれていますが、刺激によってAの谷が浅くなり、さらに谷が消えると状態Bへ移ります。特定の細胞の測定結果ではなく、状態の変化を理解するための模式図です。
この地形を、実際の細胞から調べるために役立つのが「単一細胞RNAシーケンシング」です。 一つひとつの細胞について、どの遺伝子に由来するRNAが、どの程度あるかを調べます。まとめて測れば平均に埋もれる違いも、細胞ごとに測れば見えてきます。 例えば、分化途中の細胞を集めると、未分化な特徴が強い細胞、赤血球系の特徴が強い細胞、骨髄球系の特徴が強い細胞、その中間に位置する細胞などが見つかります。発現パターンの似た細胞を近くに並べることで、細胞状態の地図を作れます。
ただし、この地図を見ただけで分化の道筋がすべて分かるわけではありません。 通常の測定では細胞を壊してRNAを取り出すため、同じ細胞の変化を最初から最後まで撮影しているわけではないからです。採取時点の情報や別の実験結果を組み合わせ、変化を推定します。 例えば、発生の早い時期と遅い時期の細胞を比べ、遺伝子発現が少しずつ変わる順番を推定します。この順番を「擬似時間」と呼びます。卒業アルバムの写真を、成長の特徴から幼い順に並べる作業に似ています。順序の手掛かりになりますが、細胞間に何時間の差があるかまでは分かりません。
さらに「RNA velocity」という方法では、加工前と加工後のRNAの量を手掛かりに、遺伝子発現が増える方向か、減る方向かを推定します。これにより、細胞状態の地図に「次に進みそうな向き」を加えられます。
その推定を、細胞内の仕組みと結びつけるのが「力学系モデル」です。 難しく聞こえますが、基本は「今の状態と、分子同士の関係から、次にどう変わるかを計算する方法」です。転写因子Aが増えるとBが減る、外からの刺激が強まるとAが増える、といった関係を数式で表し、時間とともに細胞状態がどう変わるかを調べます。
その具体例として、2026年に発表された神経系の分化研究があります。 研究チームは、マウスの胚性幹細胞から神経系の前駆細胞を作る過程を調べ、単一細胞RNA解析と数理モデルを組み合わせました。前駆細胞とは、ある系統の細胞へ分化する途中にある細胞です。 この研究で重要なのが、Sonic Hedgehog、略してShhというシグナルです。 Shhは発生中の神経管で、細胞がどの種類へ進むかに影響します。研究チームはShhの経路を刺激する薬剤を使い、刺激の強さと、刺激を始めるタイミングを変えました。 すると、刺激の開始を24時間遅らせた条件では、運動ニューロンを生み出す前駆細胞の割合が高くなりました。この結果はモデルの予測と一致しました。重要なのは、同じ種類の刺激であっても、与える時点によって結果が変わることです。
また、この研究では、異なる経路を通った細胞が同じ種類の前駆細胞へ到達することも示されました。古典的な絵では道が枝分かれし続けますが、実際の分化には合流する道もあります。
ここで押さえたいのは「刺激の種類・強さ・タイミング」と「刺激を受ける時点の細胞状態」の組み合わせです。その時点で働いている遺伝子や、すでに作られているタンパク質との関係で、効果が決まります。
こうした理解では、細胞は最初から固定された道を進むだけではありません。外部からの刺激と内部の変化によって、進みやすい道や落ち着きやすい状態そのものが変わります。これが「地形自体が変化する」という言葉の意味です。
「エピジェネティック」という用語も、この視点から捉えると分かりやすくなります。 現在よく学ぶDNAメチル化やヒストン修飾は、DNAの配列を変えずに遺伝子の使われ方を調節する仕組みです。これらは細胞の性質を保つことに関わります。一方、ワディントンの用語は、遺伝子の働きから細胞や身体の性質が生まれる過程を、より広く指していました。 したがって、このランドスケープで扱う「地形」には、DNAメチル化などに加えて、転写因子同士の関係や細胞外からのシグナルも含まれます。
細胞に届く刺激は、化学物質だけではありません。細胞が接する足場の硬さ、細胞の広がり方、引っ張られる力も、遺伝子発現に影響します。 この仕組みに関わる代表的な分子がYAPとTAZです。これらは他の因子と協力して遺伝子の転写を調節し、細胞外基質の硬さや細胞の形に応じて働きが変わります。 2011年の研究では、この仕組みが間葉系幹細胞の分化にも関わることが示されました。周囲の「硬さ」が、細胞内の遺伝子の働きにつながるのです。
さらに、細胞が形を変えたり増殖したりすると、今度は周囲の組織の張力や細胞同士の接触が変わります。その変化が、再び細胞に伝わります。細胞の状態と組織の状態は、このように互いへ働きかけています。
図3 細胞と組織の間をめぐるフィードバック
画像 化学シグナルと力学的な作用が、細胞状態に働き返す関係を示す概念図です。 化学シグナルや物理的な力が遺伝子発現を変え、細胞の形や働きが変わる。その変化が周囲の環境に影響し、再び細胞へ伝わります。分化した細胞の状態を変えられることを明確に示したのが、iPS細胞です。 2006年、高橋和利・山中伸弥らは、マウスの線維芽細胞にOct3/4、Sox2、Klf4、c-Mycの4因子を導入し、多くの種類の細胞へ分化できる性質を持つ細胞を作りました。 地形にたとえるなら、線維芽細胞の谷底にいた細胞が、転写因子への介入によって、多能性を持つ状態へ移ったと考えられます。一つの谷へ入った後も、遺伝子の使われ方を大きく変えることで、細胞の可能性を広げられるのです。
ただし、丘の上に描かれる幹細胞が、必ず不安定というわけではありません。幹細胞も適切な環境では、その性質を維持できます。「どの状態が安定か」は、細胞の種類と周囲の条件によって変わります。
この発想は、癌にも応用されています。 癌細胞では、増殖し続ける、分化しにくい、細胞死を避けるといった性質が組み合わさっています。それらの性質を支える遺伝子の働きが互いを強め合えば、異常な状態が維持されやすくなります。その状態を一種の谷底として考えるのが「癌アトラクター仮説」です。 ここでいう「安定」は、健康であるという意味ではありません。身体には有害でも、細胞の内部では維持されやすい状態があり得るという意味です。
この見方でも、遺伝子変異は重要です。 変異によって増殖シグナルが入り続けたり、分化を促す仕組みが働きにくくなったりすれば、悪性状態へ進みやすくなります。さらに、周囲の細胞からの刺激や遺伝子発現の調節も関わります。癌を一つの深い谷で表す図は有用ですが、一つの腫瘍の中に異なる状態の細胞が共存することも考慮しなければなりません。
この仮説から生まれる治療の発想は、悪性状態を支えている遺伝子制御を変え、細胞を悪性度の低い状態へ移せないか、というものです。 2025年に公表された大腸癌の研究では、単一細胞のデータから遺伝子制御のつながりを推定し、MYB、HDAC2、FOXA2という三つの因子を介入候補に選びました。これらを同時に抑制すると、大腸癌細胞が正常な腸上皮細胞に似た分化の特徴を示し、培養細胞とマウス移植モデルで悪性の性質が抑えられました。
これは、細胞の状態を変える標的を計算で探し、実験で確かめた研究です。 患者での治療効果を示したものではなく、正常に似た性質になっても、癌の遺伝子変異がすべて消えたことにはなりません。それでも、悪性状態の維持を支える仕組みを調べることが、新しい介入方法につながる可能性を示しています。
一方、細胞の地図を作ることと、谷の深さを確かめることは別の課題です。 地図上に細胞が多く集まっていても、単にその細胞が盛んに増殖しているのかもしれません。本当に状態が維持されやすいかを知るには、刺激を与えた後に元へ戻るか、別の状態へ移るかを実験で確かめる必要があります。
再生医療でも、目的の細胞を作れればそれで十分とはいえません。その性質が維持され、望ましくない細胞が混ざりにくいことが重要です。 刺激の量とタイミングを調節し、細胞を目的の状態へ導き、そこで安定させる。ランドスケープの研究は、こうした課題を考える手掛かりになります。
ワディントンの地形を眺めるときには、球だけでなく、球を支える谷にも注目してみてください。 細胞の性質は、遺伝子、遺伝子の使われ方、周囲の環境の関係によって保たれています。その関係が変われば、細胞が進む道も変わります。 細胞が何であるかと、何になり得るかを結びつけて考えることが、この地形の見方を医学に生かす第一歩です。
参考文献
1. Ball P. How Does Life Unfold? A Landscape Metaphor Comes Into Its Own. Quanta Magazine. 2026年10月9日。 ワディントンの地形の比喩が、単一細胞解析と数理モデルによって検証可能な枠組みへ発展した経緯を紹介。細胞間シグナルや組織の力が分化の経路を変えること、再生医療や癌研究への応用を解説する記事です。
2. Wang J, Zhang K, Xu L, Wang E. Quantifying the Waddington landscape and biological paths for development and differentiation. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America. 2011;108(20):8257–8262。 細胞状態の出現確率からワディントンの地形を定量化した理論研究。谷を隔てる障壁と状態の安定性を結びつけ、分化と初期化の経路が単純な逆向きにはならないことを示しました。比喩を数理的に扱う基礎となる論文です。
3. Huang S, Guo YP, May G, Enver T. Bifurcation dynamics in lineage-commitment in bipotent progenitor cells. Developmental Biology. 2007;305(2):695–713. 二つの系統へ分化できる造血前駆細胞を対象に、GATA1とPU.1の制御モデルと発現データを検討。前駆細胞の状態が不安定になり、異なる系統の安定状態へ進む過程を、数学的な分岐として説明しました。
4. La Manno G, et al. RNA velocity of single cells. Nature. 2018;560:494–498. スプライシング前後のRNA量から、細胞の遺伝子発現が次に変化する方向を推定する「RNA velocity」を提案。一時点の単一細胞データに時間的な向きを加え、分化経路の解析を可能にした方法論の論文です。
5. Mittnenzweig M, et al. A single-embryo, single-cell time-resolved model for mouse gastrulation. Cell. 2021;184(11):2825–2842.e22. 153個のマウス胚を個別に解析し、約36時間にわたる原腸形成期の細胞状態の変化を再構成。単一細胞の遺伝子発現と胚ごとの発生段階を結びつけ、各系統への分化の流れを時間軸に沿って捉えた研究です。
6. Fontaine M, et al. Dynamic Landscape Analysis of cell fate decisions provides predictive models of neural development from single-cell data. PLOS Biology. 2026;24(8):e3003953. 単一細胞データと力学系理論を組み合わせ、神経前駆細胞の分化を予測する動的ランドスケープ解析を開発。Shhシグナルの強さやタイミングによる運命の変化と、異なる経路が同じ細胞状態へ合流することを示しました。
7. Sáez M, Briscoe J, Rand DA. Dynamical landscapes of cell fate decisions. Interface Focus. 2022;12(4):20220002. ワディントンの地形を、細胞状態が時間とともに変化する力学系として整理した総説。安定状態や分岐の考え方を用い、外部シグナルによる地形の変化が細胞の運命決定を生む仕組みを、数理的に解説しています。
8. Dupont S, et al. Role of YAP/TAZ in mechanotransduction. Nature. 2011;474(7350):179–183. 細胞外基質の硬さや細胞の形による力学的刺激を、YAP/TAZが核内の遺伝子制御へ伝えることを示した研究。周囲の物理的環境が、間葉系幹細胞の分化や細胞の生存を調節する分子機構を明らかにしました。
9. Takahashi K, Yamanaka S. Induction of pluripotent stem cells from mouse embryonic and adult fibroblast cultures by defined factors. Cell. 2006;126(4):663–676. マウス線維芽細胞にOct3/4、Sox2、Klf4、c-Mycの4因子を導入し、多能性を持つiPS細胞を誘導した研究。分化した細胞の状態を初期化できることを示し、細胞運命の理解と再生医療を大きく進めました。
10. Huang S, Ernberg I, Kauffman S. Cancer attractors: A systems view of tumors from a gene network dynamics and developmental perspective. Seminars in Cell & Developmental Biology. 2009;20(7):869–876. 癌を、遺伝子制御ネットワークが維持する異常な安定状態として捉える総説。遺伝子変異と発生・分化の仕組みを結びつけ、悪性状態を支える制御を変えることで、細胞の性質を変えられる可能性を論じています。
11. Gong JR, et al. Control of Cellular Differentiation Trajectories for Cancer Reversion. Advanced Science. 2025;12(3):2402132. 単一細胞データから分化を制御する因子を推定するBENEINを開発。MYB、HDAC2、FOXA2の同時抑制で、大腸癌細胞を正常腸上皮に似た状態へ導き、悪性形質を抑えた前臨床研究です。臨床効果は未検証です。
