精神医学研究の新しい標的⑩ 〜脳の生体エネルギー学
(バイオエナジェティクス)最前線

精神医学研究の新しい標的⑩ 〜脳の生体エネルギー学(バイオエナジェティクス)最前線

近年、脳科学と精神医学において「脳の生体エネルギー学(brain bioenergetics)」への関心が急速に高まっている。 従来、精神疾患の病態はモノアミン、グルタミン酸、神経回路、炎症などを中心に説明されてきた。しかし、神経伝達物質の合成・放出・再取り込みも、活動電位も、シナプス可塑性も、最終的にはエネルギーを必要とする。そこで現在は、これらの現象を作動可能にする基盤として、ミトコンドリアを中心としたエネルギー代謝が再評価されている。

ただし、これは「精神疾患の真の原因はミトコンドリアだった」という単純な置き換えではない。今日の生体エネルギー学が扱うのはATPの総量だけではなく、必要な細胞の必要な場所へ、必要な瞬間にエネルギーを供給できるか、負荷に応じて燃料と代謝経路を切り替えられるか、損傷したミトコンドリアを更新できるかという、動的な制御システムである。

生体エネルギー学の基礎

生体はエネルギーを新たに作り出すのではなく、栄養素に蓄えられた化学エネルギーを、細胞が利用できる形へ変換している。その中心となるのがATP(アデノシン三リン酸)である。ATPの加水分解を、イオン輸送、分子運動、合成反応などエネルギーを要する反応と結びつけることを「エネルギー共役」という。ATPは長期保存用の燃料ではなく、絶えず産生・消費される「エネルギー通貨」である。

グルコースは血液脳関門の内皮細胞やアストロサイトに発現するGLUT1、ニューロンに多いGLUT3などを介して脳内へ取り込まれる。細胞質の解糖系では、1分子のグルコースから2分子のピルビン酸と、正味2分子のATP、NADHが生じる。解糖系は速いが、エネルギー効率は高くない。酸素が利用できる場合、ピルビン酸はミトコンドリアへ運ばれ、アセチルCoAを経てTCA回路に入る。そこで生じたNADHとFADH₂が電子伝達系へ電子を渡し、ミトコンドリア内膜を隔てたプロトン勾配が形成される。ATP合成酵素はこの勾配を利用してATPを産生する。酸素は最終電子受容体であり、解糖系と酸化的リン酸化を合わせれば、グルコース1分子当たりおおむね30分子前後のATPが得られる。

酸素供給やミトコンドリア酸化が追いつかない場合、ピルビン酸は乳酸へ変換され、解糖を継続するためのNAD⁺が再生される。しかし乳酸は単なる老廃物ではない。他の細胞へ運ばれて再びピルビン酸となり、ミトコンドリアの燃料として利用されるほか、酸化還元状態や遺伝子発現を調節するシグナル分子としても働く。

脳は体重の約2%にすぎないが、安静時の全身酸素・グルコース消費の約20%を占める。 ATPの大部分は、Na⁺/K⁺勾配の回復、活動電位、シナプス後電流、シナプス小胞の再利用、グルタミン酸の回収、軸索輸送などに使われる。一方、脳内のエネルギー備蓄は限られている。このため血流、代謝、神経活動を結ぶ神経血管連関と、短時間の需要変動を吸収するクレアチン・ホスホクレアチン系が重要になる。クレアチンキナーゼは、需要の少ない時にATPの高エネルギーリン酸をクレアチンへ移してホスホクレアチンとして保持し、需要が増すと逆反応でATPを速やかに再生する。

重要なのは、ATP濃度が保たれていてもエネルギー代謝が正常とは限らないことである。 産生速度、ホスホクレアチン予備能、クレアチンキナーゼ反応速度、負荷時の増産能力が低下していても、安静時ATPは一見正常に維持され得る。脳の生体エネルギーを理解するには、燃料の「量」だけでなく、その流れ、すなわち代謝フラックスを見る必要がある。

ニューロンとグリアが作る分散型エネルギー網

脳のエネルギー代謝はニューロンだけで完結しない。血管内皮細胞、周皮細胞、アストロサイト、オリゴデンドロサイト、ミクログリアを含む神経血管単位全体が一つの代謝システムを形成する。 平均的には、ニューロンは酸化的リン酸化への依存が強く、アストロサイトは解糖系、乳酸産生、グリコーゲン貯蔵を担いやすい。成人ヒトの皮質・海馬では、アストロサイトの主要な酸化的リン酸化酵素がニューロンより少ないことも確認され、この分業を支持している。

神経活動が高まると、アストロサイトはシナプス間隙のグルタミン酸を取り込み、それに伴って解糖を亢進させ、乳酸を放出する。乳酸をニューロンが取り込み、酸化的燃料として使うという「アストロサイト・ニューロン乳酸シャトル」は有力なモデルである。 ただし現在では、常にアストロサイトからニューロンへ一方向に乳酸が流れる固定的な配管とは考えられていない。脳領域、活動強度、発達段階、栄養状態によって、ニューロン自身の解糖や乳酸放出も変化する。したがって、両者の関係は条件依存的な代謝協調と表現する方が正確である。

ニューロンが平常時の解糖を比較的低く抑えることにも意味がある。2024年のマウス研究では、ニューロンで解糖系を人為的に亢進させると、NAD⁺依存性のサーチュインやオートファジーが障害され、呼吸鎖複合体Ⅰの不安定化、酸化還元ストレス、認知機能低下が起きた。 すなわち、解糖を最大化することが必ずしもニューロンに有利ではなく、ペントースリン酸経路による抗酸化能とミトコンドリア品質を維持するため、解糖を適度に制限している可能性がある。

最新研究が変えた五つの見方

第一は、脳内ミトコンドリアの著しい不均一性である。 2025年に報告されたヒト脳の「MitoBrainMap」では、脳半球を703区画に分け、呼吸鎖酵素活性、ミトコンドリアDNA、容積密度などが測定された。灰白質は白質よりミトコンドリアが50%以上多く、皮質領域ごとに呼吸能力と生化学的特性が異なっていた。特に進化的に新しい高次皮質では、エネルギー変換に適した特徴が認められた。 ただし詳細解析が主として一人の脳に基づくため、今後の再現が必要である。それでも「脳全体のミトコンドリア機能」を一つの数値で語ることの限界を明確にした研究といえる。

第二は、ニューロンの代謝柔軟性である。 グルコースが主要燃料であることは変わらないが、ニューロンは乳酸、ピルビン酸、ケトン体も利用できる。2025年には、線虫のニューロンが低酸素やミトコンドリア障害時に細胞内グリコーゲンを直接利用し、シナプス小胞の再利用を維持することが示された。さらにマウスでは、シナプス終末の脂肪滴に蓄えられた中性脂肪が、活動依存的に脂肪酸へ分解され、局所的なATP産生を支える可能性が示された。これは脂肪酸が成人脳の主要燃料だという意味ではないが、ニューロンが従来考えられていた以上に多様な非常用燃料を持つことを示唆する。

第三は、ミトコンドリアが「移動する回路素子」として捉えられるようになったことである。 軸索や樹状突起ではATPを遠距離から拡散させるだけでは間に合わない。ミトコンドリア自体が微小管上を移動し、活動性の高いシナプス、分枝点、Ca²⁺負荷の大きな部位へ係留される。 2025~2026年のショウジョウバエを中心とするコネクトーム研究では、ミトコンドリアの形態と位置が神経細胞型、伝達物質、シナプス構造に対応し、数µm単位で配置されていた。ミトコンドリアは単なる発電所ではなく、局所的ATP産生、Ca²⁺緩衝、酸化還元シグナル、シナプス可塑性を統合する装置なのである。

第四は、ミトコンドリア代謝が認知機能を因果的に制約し得るという知見である。 2026年には、ミトコンドリアからのCa²⁺排出を調節して内部のCa²⁺保持を高めると、ハエとマウスでミトコンドリア代謝と長期記憶形成が増強されることが報告された。エネルギー状態が神経活動の単なる結果ではなく、記憶形成の律速因子になり得ることを示す。ただし、Ca²⁺を過剰に蓄積すれば細胞障害を招くため、単純に代謝を高めればよいわけではない。

第五は、睡眠がミトコンドリアと脂質代謝の回復過程でもあるという理解である。 動物研究では、覚醒中の神経活動に伴って生じた酸化脂質がグリアへ移され、睡眠中に処理されること、睡眠によってニューロンのミトファジーとグリアのミトコンドリア機能が回復することが示されている。 睡眠不足による認知・情動障害には、眠気だけでなく、酸化還元恒常性、脂質処理、ホスホクレアチン予備能、ミトコンドリア品質管理の低下が関与すると考えられる。

神経・精神疾患をどう捉え直すか

脳梗塞や重度低血糖では、ATPの絶対的枯渇が細胞死を引き起こす。一方、慢性の神経・精神疾患では、全脳的なATP欠乏というより、活動時に産生を増やせない、乳酸やピルビン酸を適切に受け渡せない、NAD⁺/NADHや活性酸素の均衡が崩れる、ミトコンドリアを必要なシナプスへ運べない、損傷ミトコンドリアを除去できない、といった「代謝柔軟性の低下」が問題になる可能性が高い。

アルツハイマー病モデルでは、アミロイドとタウがアストロサイトのIDO1―キヌレニン経路を活性化し、解糖とニューロンへの乳酸供給を抑制すること、IDO1を阻害すると解糖、長期増強、空間記憶が改善することが報告された。これは病理蛋白質と認知障害の間を、グリアの代謝障害が媒介し得ることを示す強力な前臨床知見である。ただし、ヒトにおける治療効果はまだ証明されていない。

精神疾患でも、うつ病、双極症、統合失調症において、ミトコンドリア呼吸、乳酸代謝、脂質滴、酸化還元状態の異常が報告されている。近年の³¹P-MRS研究では、精神病性障害のうち認知機能が低い群で、前頭部のNAD⁺/NADH比とクレアチンキナーゼ反応速度が低かった。興味深いことに、この差は陽性症状の強さより認知機能と関連していた。しかし、横断研究であり、疾患原因や診断マーカーと結論することはできない。末梢血細胞のミトコンドリア所見も、脳内代謝を直接示すものではない。

精神医学的には、生体エネルギー系を神経伝達や神経回路を作動可能にする「深部の基盤層」とみなすことができる。ただし、ミトコンドリアから症状へ一方向に進む階層ではない。炎症、ストレスホルモン、睡眠・概日リズム、神経活動、薬物、身体代謝がミトコンドリアを変化させ、変化した代謝状態が再び神経伝達と可塑性を制約する。相互作用する循環系として理解すべきである。

治療標的としての現在地

治療候補には、クレアチンによるホスホクレアチン緩衝の増強、ケトン体による代替燃料供給、NAD⁺代謝、ミトファジー、ミトコンドリア融合・分裂、Ca²⁺輸送、IDO1などへの介入がある。

クレアチンについては、睡眠剥奪中に0.35g/kgの単回高用量を投与した二重盲検クロスオーバー試験で、脳内ホスホクレアチン、ATP関連指標、pHが変化し、認知成績が改善した。これは脳のエネルギー緩衝を薬理学的に変え得ることの証明ではあるが、日常的な投与量や長期的な抗うつ効果を直接証明するものではない。

ケトジェニック食は難治性てんかんでは確立した治療である。2026年の治療抵抗性うつ病を対象とした無作為化試験では、6週間後のPHQ-9で対照食を約2.2点上回る改善がみられたが、副次評価項目や12週時点では明確な差がなく、臨床的意義はなお不確実であった。食事療法の負担、脂質・腎機能、併存疾患も考慮する必要がある。

現時点で最も確実なのは、睡眠、運動、血管危険因子、糖代謝、栄養状態を整えることが、神経血管連関とミトコンドリア恒常性の双方に寄与するという点である。ただし、これらを「ミトコンドリア治療」と称して過度に単純化すべきではない。病態によっては解糖や酸化的リン酸化の無差別な亢進が、活性酸素や興奮毒性を増やす可能性もある。

おわりに

脳の生体エネルギー学が明らかにしつつあるのは、脳機能を決めるのがATPの絶対量だけではないということである。 重要なのは、どの細胞が、どの燃料を使い、どの場所へ、どの時間尺度でエネルギーを届け、負荷が去った後にどのように回復するかである。今後は「ミトコンドリア機能低下」という大まかな表現から、細胞種・脳領域・回路・病期ごとの代謝フラックスと予備能を測定する研究へ進むだろう。

生体エネルギー学は、モノアミン仮説や神経回路論に取って代わる新しい万能仮説ではない。それらを下支えし、同時にそれらから調節される基盤である。脳を物質、情報、エネルギーが循環する動的システムとして捉えることこそ、この研究領域が精神医学にもたらす最も重要な視点である。

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