精神医学研究の新しい標的⑤:睡眠恒常性(Sleep Homeostasis)の分子的実体(医療関係者向けコラム)
「眠気」は脳のどこに、どのような形で蓄積するのか
人は、長く起きていればいるほど眠くなる。そして睡眠不足の後には、いつもより早く眠りに落ち、深く、長く眠る。この当たり前に見える現象は、「睡眠恒常性(Sleep Homeostasis)」と呼ばれている。
体温や血糖値が一定の範囲に保たれるのと同じように、睡眠と覚醒にも生体が目標とする均衡がある。睡眠が不足すれば、その不足を埋め合わせる方向に脳が働くのである。では、この「睡眠不足」は脳の中にどのような形で記録されているのだろうか。眠気を生み出す物質が少しずつ蓄積するのか。それとも神経回路そのものが疲労を記憶するのか。 この問題は、概日時計の分子機構に比べて長らく謎に包まれてきた。しかし近年、遺伝学、リン酸化プロテオーム解析、蛍光分子センサー、回路操作技術などの進歩によって、その実体が少しずつ見え始めている。
現在の結論を先に述べれば、睡眠圧を担う単一の「睡眠物質」が見つかったわけではない。むしろ睡眠圧とは、覚醒中のタンパク質リン酸化、シナプス増強、エネルギー代謝、酸化還元状態の変化が、脳内の多数の細胞に分散して記録された状態だと考えられている。
Process Sという「見えない変数」
睡眠恒常性研究の出発点となったのが、Alexander Borbélyが提認した「睡眠の二過程モデル」①である。このモデルでは、睡眠と覚醒は二つの過程の相互作用によって決まる。
一つは、約24時間周期で変動する概日過程「Process C」である。 これは視交叉上核を中心とする体内時計によって形成され、昼間には覚醒を支え、夜間には睡眠を促す。
もう一つが、覚醒しているあいだ上昇し、睡眠中に低下する恒常性過程「Process S」である。 Process Sは、いわば睡眠圧、あるいは睡眠負債を表す仮想的な変数である。朝の覚醒直後には低いが、活動を続けるにつれて上昇し、一定の水準に達すると眠りやすくなる。睡眠に入ると徐々に低下し、十分に下がったところで覚醒する。
Process Sの代表的な生理指標が、ノンレム睡眠中の徐波活動である。 徐波活動とは、脳波上の概ね0.5~4Hzの低周波活動を指す。長時間の断眠後には徐波活動が強くなり、その後、睡眠が進むにつれて徐々に減少する。 ただし、徐波活動は睡眠圧そのものではない。あくまで睡眠圧が大脳皮質に表現されたときの「読み出し値」である。また、睡眠時間と睡眠の深さは完全には一致しない。睡眠時間が長くても徐波活動が弱い場合があり、反対に短い睡眠でも非常に深い場合がある。したがってProcess Sの分子的実体を考える際には、睡眠量と睡眠強度を区別する必要がある。
アデノシンは睡眠圧そのものなのか
最も古くから有力視されてきた睡眠関連物質が、アデノシンである。
アデノシンは、細胞のエネルギー通貨であるATPと密接に関係する。覚醒中には神経細胞が盛んに活動し、ATPが消費される。それに伴って細胞外アデノシン濃度が上昇する。アデノシンはA₁受容体を介して覚醒系ニューロンや興奮性神経伝達を抑え、A₂A受容体を介して側坐核などの睡眠促進回路を作動させる。
1990年代の研究②では、前脳基底部における細胞外アデノシン濃度が、覚醒の持続とともに上昇し、回復睡眠中に低下することが示された。さらに、前脳基底部のアデノシン濃度を人工的に高めると、断眠後に似た深い睡眠が生じた。 近年ではGRAB-Adoという蛍光センサーによって、生きたマウスの細胞外アデノシンをリアルタイムで測定できるようになった。その結果、前脳基底部では、主としてグルタミン酸作動性ニューロンの活動によってアデノシンが増加することが明らかになった。これらのニューロンを除去すると、アデノシンの上昇と睡眠恒常性反応が弱くなる。 カフェインが眠気を弱めるのも、アデノシン受容体を遮断するためである。しかし、カフェインは睡眠負債を解消するわけではない。アデノシンによる眠気の表出を一時的に抑えているにすぎず、その背後にあるシナプス、リン酸化、代謝、酸化ストレスの変化まで元に戻すわけではない。
アデノシンは重要な睡眠圧メディエーターだが、Process Sのすべてではない。変動には数秒から数分の速い成分があり、脳部位による違いも大きい。また、アデノシン系を操作しても恒常性反応が完全には消失しない。したがって現在では、覚醒中の神経活動とエネルギー消費を睡眠回路へ伝える信号と位置づけられている。
SIK3の発見と「リン酸化仮説」
睡眠恒常性研究の大きな転機となったのが、2016年のSleepyマウスの発見③である。
研究者たちはランダムに遺伝子変異を導入したマウスを調べ、通常よりも長く眠り、ノンレム睡眠中の徐波活動が強い系統を発見した。このマウスでは、SIK3というタンパク質キナーゼに変異が生じていた。 キナーゼとは、タンパク質にリン酸基を付加する酵素である。リン酸化によってタンパク質の活性、細胞内局在、結合相手などが変化する。Sleepy変異では、SIK3を抑制するために必要な領域が失われ、SIK3シグナルが持続的に高まっていた。その結果、マウスが「常に睡眠圧の高い状態」になったと考えられる。
SIK3には複数の重要なリン酸化部位がある。なかでもT221のリン酸化は、SIK3のキナーゼ活性に必要である。2023年の研究④では、SIK3-T221リン酸化が覚醒とともに増え、睡眠中に減少し、断眠によってさらに増加することが報告された。一方、T221リン酸化できないようにしたマウスでは、徐波活動と断眠後の回復睡眠が低下した。 この結果から、SIK3-T221リン酸化は、睡眠圧を反映する指標であると同時に、睡眠圧そのものを制御する化学修飾だと提案されている。単一の分子変化としては、Process Sの実体に最も近い候補の一つである。
もっとも、T221リン酸化だけで睡眠恒常性のすべてを説明できるわけではない。それが必要であることを示す証拠は強いが、T221リン酸化だけを増加させれば十分な睡眠圧が形成されるかは、まだ確定していない。
SNIPPs 〜眠気はリン酸化パターンとして記録される
2018年には、睡眠圧の高い脳でどのタンパク質がリン酸化されているかを網羅的に調べる研究⑤が行われた。
断眠させた正常マウスと、遺伝的に睡眠圧の高いSleepyマウスを比較したところ、両者に共通して過剰リン酸化される80種類のタンパク質が同定された。これらは「Sleep-Need-Index PhosphoProteins」、略してSNIPPsと名づけられた。 SNIPPsの多くは、シナプス足場タンパク質、神経伝達物質受容体、シナプス小胞関連分子、イオンチャネル、シナプス可塑性関連分子だった。重要なのは、これらのリン酸化が覚醒や断眠によって増加し、回復睡眠によって減少したことである。
この結果から、睡眠圧は一種類の物質の濃度ではなく、多数のシナプスタンパク質に付加されたリン酸基の組み合わせとして保存されるという「睡眠のリン酸化仮説」が提唱された。 概日時計の情報が時計遺伝子の転写・翻訳周期として記録されるのに対し、睡眠圧はより速く、局所的に変化しなければならない。リン酸化は数秒から数時間の範囲で可逆的に変化できるため、覚醒履歴を記録する仕組みとして適している。
CaMKIIという分子的な時間積分器
リン酸化仮説のもう一つの中心が、CaMKIIである。
CaMKIIは、神経活動によって細胞内Ca²⁺濃度が上昇すると活性化される。しかも自己リン酸化によって、Ca²⁺濃度が低下した後も一定時間、活性化状態を維持できる。この性質は、覚醒中の神経活動を積み重ねて記録する「分子的時間積分器」に適している。 マウスでCaMKIIβを活性化すると睡眠時間が増加し、抑制すると減少する。また、異なる自己リン酸化状態が、睡眠を開始する機能と、睡眠を維持する機能を分担していることも示された。
さらに2024年には、長時間覚醒によって、大脳皮質のパルブアルブミン陽性ニューロン内でCaMKIIが活性化することが報告された。この細胞群を抑制すると、断眠後の回復睡眠が減少する。つまり、覚醒中のCa²⁺上昇がCaMKIIの自己リン酸化として記録され、それが皮質の抑制性ニューロンを介して深い回復睡眠を生み出す可能性がある。
なぜ脱リン酸化酵素も睡眠を促すのか
ここで一つの疑問が生じる。覚醒中にリン酸化が蓄積するのであれば、リン酸基を外すホスファターゼは覚醒を促すはずではないか。 実際には、PKAは覚醒を促進する一方、カルシニューリン、PP1、PP2Aなどのホスファターゼは睡眠を促進する。これは、睡眠圧が単純な「総リン酸化量」では決まらないことを意味する。重要なのは、どのタンパク質の、どの部位が、どの細胞内区画でリン酸化されるかである。
たとえばカルシニューリンは、SIK3に存在する抑制性リン酸化を外し、結果として睡眠促進性のSIK3を活性化する。カルシニューリンを欠損させたマウスでは、自然な覚醒中にも断眠中にもProcess Sが十分に蓄積せず、回復睡眠が著しく低下する。 したがって睡眠圧の分子的中核は、単純なリン酸化の増加ではなく、キナーゼとホスファターゼが作る部位特異的な制御ネットワークなのである。
睡眠中にシナプスを再調整するHomer1a
覚醒中には、学習や感覚入力によって多くの興奮性シナプスが増強される。しかし、シナプスが無制限に強くなれば、エネルギー消費が増え、神経回路の信号対雑音比が悪化し、さらに学習する余地が失われる。 これを睡眠中に調整する分子の一つがHomer1aである。
Homer1aは覚醒中の神経活動によって産生されるが、覚醒時の高いノルアドレナリン濃度によってシナプスへの移動を抑えられている。睡眠に入ってノルアドレナリンが低下し、アデノシンが作用すると、Homer1aがシナプスへ移動する。そしてmGluR1/5を中心とする足場構造を組み替え、AMPA受容体の除去や脱リン酸化を促進する。 電子顕微鏡研究でも、睡眠後には軸索と樹状突起スパインの接触面積が平均約18%小さくなることが示されている。⑥すべてのシナプスが一様に弱くなるのではなく、小~中規模のシナプスが主に弱化し、重要な強いシナプスは比較的保存される。
さらに2026年のヒトPET研究⑦では、約28時間の断眠後に、シナプス密度の代理指標であるSV2A結合が視床、海馬、頭頂皮質で増加した。その増加量は、回復睡眠中の徐波活動と相関していた。これは、覚醒によるシナプス負荷の蓄積が深い睡眠の必要性につながることを、ヒトで支持する知見である。
酸化ストレスは「眠るべき時」を知らせる
もう一つの新しい候補が、ミトコンドリアと酸化還元状態である。
神経細胞が覚醒中に活動し続けると、ミトコンドリアの電子伝達系から電子が漏れ、活性酸素種が生じる。2025年のマウス研究⑧では、断眠によって睡眠促進ニューロン内の過酸化水素H₂O₂が増加し、その量が直前の覚醒時間と相関することが示された。H₂O₂を減少させると回復睡眠が減り、増加させると睡眠が誘発された。この作用の一部には、酸化感受性Ca²⁺チャネルTRPM2が関与していた。
ショウジョウバエでは、さらに具体的な「酸化還元メモリー」が発見されている。⑨睡眠促進ニューロンに存在するK⁺チャネルβサブユニットHyperkineticが、NADPHとNADP⁺の酸化状態を利用して、覚醒中に生じた脂質過酸化の履歴を記録するのである。この記録がK⁺電流を変化させ、睡眠促進ニューロンを発火させる。睡眠中の発火によって記録は消去される。
これは、睡眠が単に情報処理を休ませるだけでなく、覚醒によって生じた酸化・代謝負荷から神経細胞を守る仕組みである可能性を示している。ただし、この詳細な分子機構は主にショウジョウバエで示されたものであり、哺乳類にそのまま適用できるかは今後の課題である。
睡眠圧とは「分散した分子状態」である
以上の知見を統合すると、覚醒中の脳では次の変化が並行して進むと考えられる。
・神経活動とATP代謝によってアデノシンが増加し、Ca²⁺流入によってCaMKII、カルシニューリン、SIK3系が動く。
・シナプスタンパク質のリン酸化と興奮性シナプス負荷が増大し、同時にミトコンドリア電子漏出、H₂O₂、脂質過酸化も増える。
・こうした分子変化が、皮質、視床、視床下部などの睡眠促進回路を変化させる。
・概日時計が睡眠を許す時間帯になると、これらの状態が閾値を超え、深いノンレム睡眠が生じる。
・睡眠中にはHomer1aによるシナプス再調整、リン酸化プロテオームの再編、代謝・酸化還元状態の回復が進み、Process Sが低下していく。
したがって、睡眠恒常性の分子的実体を一言で表現するなら、 『睡眠圧とは、覚醒によって神経細胞、シナプス、グリアに形成され、睡眠によって再調整される、分散型のリン酸化・代謝・酸化還元状態である』 と。
かつて睡眠圧は、脳内に一つの「睡眠物質」が蓄積することで生じると考えられていた。 現在の研究はそこから一歩進み、脳が自らの活動履歴を多数の分子状態として記録し、その総体を「眠気」として読み出していることを示しつつある。睡眠とは、単なる活動停止ではない。覚醒によって変化した脳を、再び学習し、活動できる状態へ戻す、能動的な恒常性維持過程なのである。
参考文献
- ①. Borbély AA. A two process model of sleep regulation. Human Neurobiology. 1982;1(3):195–204.
- 睡眠恒常性をProcess S、概日性調節をProcess Cとして定式化した基本文献。PubMed
- ②. Porkka-Heiskanen T, Strecker RE, Thakkar M, et al. Adenosine: a mediator of the sleep-inducing effects of prolonged wakefulness. Science. 1997;276:1265–1268.
- 覚醒の持続に伴う前脳基底部アデノシン増加を示した古典的研究。DOI: 10.1126/science.276.5316.1265
- ③. Funato H, Miyoshi C, Fujiyama T, et al. Forward-genetics analysis of sleep in randomly mutagenized mice. Nature. 2016;539:378–383.
- Sleepy変異マウスからSIK3を同定した出発点となる研究。DOI: 10.1038/nature20142
- ④. Li Y, et al. Sleep need, the key regulator of sleep homeostasis, is indicated and controlled by phosphorylation of threonine 221 in salt-inducible kinase 3. Genetics. 2023;225:iyad136.
- SIK3のT221リン酸化を睡眠要求の指標かつ制御因子として提案した研究。DOI: 10.1093/genetics/iyad136
- ⑤. Wang Z, Ma J, Miyoshi C, et al. Quantitative phosphoproteomic analysis of the molecular substrates of sleep need. Nature. 2018;558:435–439.
- 睡眠不足とSleepyマウスに共通してリン酸化されるSNIPPsを同定した中心的研究。DOI: 10.1038/s41586-018-0218-8
- ⑥. de Vivo L, Bellesi M, Marshall W, et al. Ultrastructural evidence for synaptic scaling across the wake/sleep cycle. Science. 2017;355:507–510.
- 電子顕微鏡により、睡眠後に軸索―棘接触面積が平均約18%縮小することを示した研究。DOI: 10.1126/science.aah5982
- ⑦. Elmenhorst D, Foerges AL, Gordji-Nejad A, et al. Sleep deprivation increases levels of the synaptic density marker SV2A in the human brain. PLoS Biology. 2026;24:e3003816.
- ヒトのSV2A-PETによって、長時間覚醒後のシナプス関連指標増加を示した研究。DOI: 10.1371/journal.pbio.3003816
- ⑧. Tian Y, Kang L, Ha NT, et al. Hydrogen peroxide in midbrain sleep neurons regulates sleep homeostasis. Cell Metabolism. 2025;37:1442–1452.
- 中脳・黒質網様部の睡眠促進ニューロンにおける細胞質H₂O₂が睡眠負債を追跡し、代償性睡眠を促すことを示した研究。DOI: 10.1016/j.cmet.2025.04.016
- ⑨. Rorsman HO, Müller MA, Liu PZ, et al. Sleep pressure accumulates in a voltage-gated lipid peroxidation memory. Nature. 2025;641:232–239.
- ショウジョウバエのKvβサブユニットHyperkineticが、脂質過酸化履歴を酸化還元状態として記憶することを示した研究。DOI: 10.1038/s41586-025-08734-4
