精神医学研究の新しい標的④:『手綱核』
(医療関係者向けコラム)

精神医学研究の新しい標的④:『手綱核』(医療関係者向けコラム)

[この論説文は、コラム「うつ病研究の新しいターゲット:手綱核の正体」の内容を、医療関係者向けにA Iを利用して加筆修正したものです。]

「以前は楽しめたことに、何も感じない」「何かを始めようとしても、身体が動かない」「どうせうまくいかないという感覚から抜け出せない」。うつ病でみられる快感消失、意欲低下、悲観的思考は、単なる気分の問題ではない。現在の神経科学では、報酬を予測し、結果を評価し、次の行動を選択する脳内回路の変調として理解されつつある。

その中で注目されているのが、間脳の背側、松果体に近い位置にある「手綱核」である。とりわけ外側手綱核は、期待した報酬が得られなかったときや、不利益が予測されるときに活動し、行動の方向転換を促す。いわば、脳が「この努力は報われない」と判断するための装置である。現在手綱核研究は、快感消失や絶望感を、心理的な比喩ではなく、細胞・回路・計算過程の水準から説明しようとする重要な試みとなっている。

1.手綱核は何をしているのか

手綱核は左右一対の小さな神経核で、内側手綱核と外側手綱核に分かれる。内側手綱核は、脚間核へ投射し、ニコチン依存、離脱、不安、嫌悪などに関与する。これに対し、うつ病研究で特に重視されてきたのが外側手綱核である。

外側手綱核には、前頭前野や視床下部、淡蒼球、腹側淡蒼球など、情動、ストレス、動機づけに関わる領域から情報が集まる。そして、その出力は中脳の吻側内側被蓋核などを介して、腹側被蓋野や黒質のドパミン神経活動を調節する。また、縫線核を含むセロトニン系とも、直接または間接的に結びついている。重要なのは、外側手綱核がドパミンやセロトニンを単純に「止めるスイッチ」ではないという点である。多数の神経核を経由しながら、報酬学習、回避行動、努力配分、ストレス反応を調節する中継点と考える方が正確である。

2007年、松本正幸と彦坂興秀は、サルの外側手綱核ニューロンが、報酬を予告する刺激によって抑制され、期待した報酬が得られないことを予告する刺激によって活性化することを報告した。これに対し、ドパミン神経はおおむね反対方向の反応を示した。この結果から、外側手綱核は「負の報酬予測誤差」を伝える主要な回路の一つと考えられるようになった。[Matsumoto & Hikosaka, Nature, 2007①]

報酬予測誤差とは、「予想していた結果」と「実際の結果」の差である。期待以上の報酬が得られれば、その行動は強化される。反対に、報酬が得られなかったり、予想外の罰が加わったりすると、行動を修正する必要がある。外側手綱核は、この「期待外れ」を学習させる仕組みの一部なのである。したがって、外側手綱核は本来、敵ではない。見返りのない行動を中止し、危険を回避し、より適切な選択肢へ移るために不可欠である。「アンチ報酬中枢」という名称は分かりやすい反面、この部位が担う柔軟な意思決定機能を単純化しすぎる危険もある。

2.適応的な「失望」が病的になるとき

問題は、否定的な結果を検出する仕組みが、慢性的に過敏になった場合である。わずかな失敗に対しても強い負の信号が発生し、将来の報酬が過小評価されると、行動を開始する価値そのものが感じられなくなる可能性がある。

動物研究では、学習性無力、慢性ストレス、社会的敗北などのモデルにおいて、外側手綱核の活動亢進が繰り返し報告されてきた。2011年の研究では、学習性無力を示すラットで外側手綱核への興奮性シナプス入力が増強しており、この入力を弱める操作によって無力行動が改善した。[Li et al., Nature, 2011②]慢性ストレスによって外側手綱核の活動、シナプス、遺伝子発現が広範に再編され、報酬を求める行動が低下することも示されている。[Cerniauskas et al., Neuron, 2019③]

この状態を人間の症状に置き換えるなら、成功の可能性より失敗の可能性が強く計算され、努力に必要なコストが過大に感じられる状態と表現できる。うつ病における「何をしても無駄だ」「良いことが起こるとは思えない」という感覚は、外側手綱核だけで説明できるものではないが、負の予測が行動を抑制する仕組みとしては整合的である。

ここでいうドパミンも、単純な「快楽物質」ではない。ドパミンは、報酬を得るために行動する意欲、努力を投入するかどうかの判断、結果からの学習に深く関与する。したがって外側手綱核からドパミン系への抑制が過剰になれば、「楽しくない」だけでなく、「行動を始める意味が感じられない」という症状につながり得る。

3.バースト発火 〜信号の量ではなく送り方の異常

外側手綱核研究を大きく進めたのが、2018年に『Nature』に発表された二つの研究である。

神経細胞は通常、一定の間隔で単発の活動電位を発生させる。しかし、ある条件では短時間に複数の活動電位を集中的に発生させる。これを「バースト発火」という。バースト発火は、単に発火回数が増えるだけでなく、下流の神経回路に強く確実な信号を伝える性質をもつ。

Yangらは、うつ病様行動を示すラットやマウスで、外側手綱核ニューロンのバースト発火とシータ帯域の同期活動が増加していることを示した。さらに、光遺伝学的に同様のバーストを誘導すると、ショ糖嗜好性の低下や強制水泳試験での不動時間増加などが生じた。逆にバースト発火を抑えると、これらの行動は速やかに改善した。[Yang et al., Nature, 2018④]

ここから重要な視点が得られる。うつ病に関係するのは、神経活動の「強さ」だけではなく、その時間的パターンかもしれないということである。同じ回数の信号でも、散発的に送る場合と、一斉射撃のようにまとめて送る場合とでは、下流回路への影響が異なる。外側手綱核が過剰なバーストを繰り返せば、「報酬は得られない」「行動を中止せよ」という信号が、必要以上に強調される可能性がある。

4.アストロサイトとKir4.1が発火様式を変える

もう一つの2018年の研究は、外側手綱核ニューロンのバースト発火を、神経細胞だけの異常ではなく、アストロサイトとの相互作用から説明した。

アストロサイトは、神経細胞を受動的に支えるだけの細胞ではない。細胞外のカリウム濃度を調節し、神経伝達物質を回収し、シナプス周辺の環境を維持している。Cuiらは、うつ病様ラットの外側手綱核で、アストロサイトに発現するカリウムチャネルKir4.1が増加していることを発見した。[Cui et al., Nature, 2018⑤]

Kir4.1が増えると、細胞外のカリウムがアストロサイトへ取り込まれやすくなり、周囲のニューロンの膜電位が過分極方向へ移動する。一見すると、過分極は神経細胞を静かにするように思える。しかし、外側手綱核では、この状態が低電位活性化型のT型カルシウムチャネルを発火可能な状態へ戻し、その後に入力が加わると強い反跳性バーストを生みやすくする。

つまり、「神経細胞が常に興奮しているからバーストが起きる」という単純な話ではない。アストロサイトによるカリウム調節が神経細胞をいったん深く過分極させ、それが逆説的にバースト発火の準備状態を作るのである。実際、外側手綱核のアストロサイトでKir4.1を増やすとバーストと抑うつ様行動が増え、Kir4.1を減らすと両者が改善した。

2024年には、Kir4.1を阻害する低分子化合物Lys05が、複数のげっ歯類モデルで投与後早期から抗うつ様作用を示すことも報告された。これはKir4.1が創薬標的になり得ることを示す概念実証だが、現時点では動物研究であり、ヒトでの有効性と安全性は確立していない。[Zhou et al., Nature Chemical Biology, 2024⑥]

5.ケタミンは手綱核のバーストを止めるのか

ケタミンNMDA受容体拮抗薬であり、治療抵抗性うつ病などに対して、従来の抗うつ薬より速く効果を示すことがある。2018年の研究では、外側手綱核内にケタミンを投与すると、NMDA受容体に依存するバースト発火が直ちに抑制され、動物の抑うつ様行動が改善した。また、NMDA受容体またはT型カルシウムチャネルを外側手綱核内で阻害するだけでも、速やかな抗うつ様作用が認められた。

2023年の研究では、ケタミンが開いた状態のNMDA受容体チャネル内に捕捉され、血中濃度が低下した後も、外側手綱核で受容体とバースト発火を比較的長く抑制する機序が報告された。[Ma et al., Nature, 2023⑦]

さらに2024年のマウス研究では、抑うつ様状態で活動の高い外側手綱核のNMDA受容体が、海馬のNMDA受容体よりも選択的にケタミンの遮断を受けることが示された。外側手綱核のNMDA受容体を遺伝学的に欠失させると、全身投与したケタミンの抗うつ様作用や、その後に起こる海馬セロトニン・BDNFの増加も認められにくくなった。[Chen et al., Science, 2024⑧]

ただし、これを「ケタミンは手綱核だけに作用する」と解釈すべきではない。ケタミンの作用には、前頭前野、海馬、扁桃体、報酬系、AMPA受容体、BDNF–TrkB系、mTOR系、シナプス可塑性など複数の機序が関与する。外側手綱核は、急速な変化を開始する上流の候補ではあるが、臨床効果全体を単独で説明するものではない。

さらに2026年6月には、正常マウスの外側手綱核ではNMDA受容体を遮断しても自発性・反跳性バーストが残り、NMDA受容体はバースト生成に必須ではないとする報告も現れた。病的状態、動物モデル、記録条件によって機序が異なる可能性があり、「NMDA受容体依存性バースト」というモデルも今後の再検証が必要である。[Zhou et al., Frontiers in Psychiatry, 2026⑨]

6.ヒトのうつ病でも手綱核は過活動なのか

ここが、手綱核研究を評価するうえで最も重要な点である。2025年に発表されたヒト研究50報の系統的レビューでは、うつ病患者の手綱核が安静時に過活動しているという結果は一貫していなかった。

機能的結合についても研究間のばらつきが大きく、手綱核の体積がうつ病で一貫して変化するという証拠も得られなかった。一方、内側前頭前野や楔前部など、デフォルト・モード・ネットワークに属する領域との結合異常は比較的多く報告されている。[Fortin et al., Molecular Psychiatry, 2025⑩]

結果が一定しない理由の一つは、手綱核が非常に小さいことである。通常のfMRIでは、内側手綱核と外側手綱核、あるいは外側手綱核内部の小領域を十分に分離できない場合がある。さらに、うつ病自体が生物学的に不均一であり、快感消失、不安、焦燥、過眠、精神運動制止など、症状の組み合わせによって関連回路が異なる可能性もある。

したがって、「うつ病患者では手綱核が一律に過活動になる」とは、まだ結論できない。今後は高磁場MRI、精密な領域分割、計算論的課題、症状別解析を組み合わせ、どの患者群で、どの局面に手綱核の異常が生じるかを明らかにする必要がある。

7.脳深部刺激療法は治療になるのか

治療抵抗性うつ病に対する外側手綱核の脳深部刺激療法(DBS)も研究されている。2010年には、重症の治療抵抗性うつ病患者が外側手綱核付近の刺激によって寛解した症例が報告され、その後も少数例で改善が示されている。[Sartorius et al., Biological Psychiatry, 2010 ⑪]

しかし、これらは症例報告や小規模研究が中心である。電極留置には出血や感染などの手術リスクがあり、刺激位置や周波数、長期安全性、適切な患者選択も確立していない。外側手綱核DBSは、現時点では標準治療ではなく、厳密な研究環境で検討される実験的治療である。

8.手綱核研究が変える、うつ病の見方

手綱核研究の意義は、「うつ病は手綱核の故障である」と断定することではない。うつ病は、前頭前野、海馬、扁桃体、線条体、視床下部、モノアミン系、免疫系、内分泌系などが関与する多面的な疾患である。心理社会的要因も、脳とは独立したものではなく、学習と可塑性を通じてこれらの回路に作用する。

手綱核が示しているのは、「失望」や「無力感」が、単なる抽象的感情ではなく、予測、学習、回避、努力配分を担う神経回路の変化として研究できるということである。

外側手綱核の過剰な負の信号によって、成功の可能性が過小評価され、失敗の影響が過大評価されるなら、患者が「努力すればよい」と考えても行動できないのは不思議ではない。必要なのは意志の強化だけではなく、休息、環境調整、薬物療法、精神療法などを通じて、負の予測が固定化した回路を少しずつ変化させることである。

手綱核は、うつ病のすべてを説明する「心のブレーキ」ではない。しかし、報われなかった経験が、いかにして次の行動を抑え、世界の見え方を変えていくのかを理解するための重要な窓である。小さな手綱核の研究は、うつ病を心の弱さとしてではなく、経験、回路、細胞、分子が相互作用する病態として捉え直す道を開いている。

参考文献

① Matsumoto M, Hikosaka O. “Lateral habenula as a source of negative reward signals in dopamine neurons.” Nature. 2007;447(7148):1111–1115. https://doi.org/10.1038/nature05860 サルの外側手綱核が、報酬の欠如や負の報酬予測誤差を伝えることを示した代表的研究です。

② Li B, Piriz J, Mirrione M, et al. “Synaptic potentiation onto habenula neurons in the learned helplessness model of depression.” Nature. 2011;470(7335):535–539. https://doi.org/10.1038/nature09742 学習性無力モデルにおいて、外側手綱核への興奮性シナプス入力が増強していることを示した研究です。

③ Cerniauskas I, Winterer J, de Jong JW, et al. “Chronic stress induces activity, synaptic, and transcriptional remodeling of the lateral habenula associated with deficits in motivated behaviors.” Neuron. 2019;104(5):899–915.e8. https://doi.org/10.1016/j.neuron.2019.09.005 慢性ストレスによる外側手綱核の神経活動、シナプス、遺伝子発現の再編と、動機づけ行動の低下を報告しています。

④ Yang Y, Cui Y, Sang K, et al. “Ketamine blocks bursting in the lateral habenula to rapidly relieve depression.” Nature. 2018;554(7692):317–322. https://doi.org/10.1038/nature25509 外側手綱核のバースト発火と抑うつ様行動の関係、およびケタミンによる急速なバースト抑制を示した中心的研究です。

⑤ Cui Y, Yang Y, Ni Z, et al. “Astroglial Kir4.1 in the lateral habenula drives neuronal bursts in depression.” Nature. 2018;554(7692):323–327. https://doi.org/10.1038/nature25752 アストロサイトのKir4.1増加が、神経細胞の過分極とバースト発火を引き起こす機序を示しています。

⑥ Zhou X, Zhao C, Xu H, et al. “Pharmacological inhibition of Kir4.1 evokes rapid-onset antidepressant responses.” Nature Chemical Biology. 2024;20(7):857–866. https://doi.org/10.1038/s41589-024-01555-y Kir4.1阻害薬Lys05が、複数のげっ歯類モデルで急速な抗うつ様作用を示すことを報告した研究です。

⑦ Ma S, Chen M, Jiang Y, et al. “Sustained antidepressant effect of ketamine through NMDAR trapping in the LHb.” Nature. 2023;622(7984):802–809. https://doi.org/10.1038/s41586-023-06624-1 ケタミンが外側手綱核のNMDA受容体チャネル内に捕捉され、薬物濃度低下後も受容体遮断が持続する機序を示しています。

⑧ Chen M, Ma S, Liu H, et al. “Brain region-specific action of ketamine as a rapid antidepressant.” Science. 2024;385(6709):eado7010. https://doi.org/10.1126/science.ado7010 抑うつ様マウスでは、ケタミンが海馬より外側手綱核のNMDA受容体を選択的に遮断することを示した研究です。

⑨ Zhou R, Lu J, Ling Y, et al. “NMDA receptors are not necessary for burst firing of lateral habenula neurons in mice.” Frontiers in Psychiatry. 2026;17:1828920. https://doi.org/10.3389/fpsyt.2026.1828920 外側手綱核のバースト生成にNMDA受容体が必須ではない可能性を示した研究で、従来のモデルを再検討するうえで重要です。

⑩ Fortin JS, Lafleur M, Parisien C, Hétu S. “The habenula in mood disorders: A systematic review of human studies.” Molecular Psychiatry. 2025;30:4948–4970. https://doi.org/10.1038/s41380-025-03105-x ヒト研究50報を検討し、安静時過活動と機能的結合の結果は一貫せず、手綱核体積の変化を支持する証拠も乏しいと結論しています。

⑪ Sartorius A, Kiening KL, Kirsch P, et al. “Remission of major depression under deep brain stimulation of the lateral habenula in a therapy-refractory patient.” Biological Psychiatry. 2010;67(2):e9–e11. https://doi.org/10.1016/j.biopsych.2009.08.027 治療抵抗性うつ病に対する外側手綱核DBSによる寛解を報告した初期の症例報告です。