知っておきたい脳の機能:②海馬

知っておきたい脳の機能:②海馬

記憶の倉庫から、未来を描く装置へ 〜海馬の役割をめぐる最新知見

「海馬」と聞くと、多くの人は記憶をつかさどる脳領域を思い浮かべるだろう。たしかに海馬は、新しい出来事を記憶し、後から思い出すために不可欠である。しかし、近年の神経科学が明らかにしつつある海馬の役割は、単なる「記憶の保存場所」という説明には収まらない。

現在の理解を一言で表すなら、海馬とは、経験のさまざまな要素を時空間の中で結びつけ、現在の状況を理解し、そこから未来を予測するための装置である。海馬は記憶の倉庫というよりも、経験を編集する編集者であり、世界の構造を描く地図作成者であり、さらに未来を試行するシミュレーターなのである。

海馬は何を記憶しているのか

海馬は左右の側頭葉内側部に位置し、その形がタツノオトシゴに似ていることから、この名が付けられた。歯状回、CA3、CA1、海馬台などの領域から構成され、隣接する嗅内皮質を介して大脳皮質の広い範囲と連絡している。

私たちが一つの出来事を経験するとき、その情報は脳内の一か所だけで処理されるわけではない。物の形や色は視覚皮質、人物の顔は側頭葉、音声は聴覚皮質、感情的な重要性は扁桃体など、情報の種類に応じて異なる領域が活動する。海馬の重要な仕事は、これらの分散した情報を結びつけ、「昨日、大学の食堂で、友人と、どのような話をしたか」という一回性の出来事にまとめることである。

このような記憶は、エピソード記憶と呼ばれる。エピソード記憶には、「何が起きたか」だけでなく、「どこで」「いつ」「誰と」「どのような状況で」という関係性が含まれている。海馬が特に得意とするのは、個々の情報そのものを保存することよりも、情報と情報の関係を記録することである。

近年、てんかん治療のために脳内電極を留置した患者の協力を得て、ヒトの海馬ニューロンを直接記録する研究が行われている。そこでは、特定の物体に反応する細胞と、特定の場所に反応する細胞が、物体と場所の組み合わせを記憶するときに同時に活動することが示された。海馬は、分散した情報を一時的に同期させることによって、一つの記憶を形成しているのである。

ただし、海馬が記憶内容のすべてを保管しているわけではない。海馬は、分散して保存された大脳皮質の情報を結びつける「索引」と考えられる。思い出すときには、この索引を手掛かりとして、大脳皮質上に出来事が再構成される。そのため、記憶の想起は、保存された映像をそのまま再生することではない。私たちは思い出すたびに、過去の出来事を現在の脳内で組み立て直している。

似た記憶を分け、一部から全体を復元する

海馬は、似た経験を区別する一方で、わずかな手掛かりから経験全体を復元するという、一見すると反対方向の処理を行っている。

たとえば、昨日と今日の二日間、同じ机の上に鍵を置いたとする。二つの出来事はよく似ているが、海馬はそれぞれを別の記憶として保存しなければならない。この働きを「パターン分離」という。パターン分離がうまく機能しなければ、似た場所や出来事が混同されてしまう。

反対に、旅先で嗅いだ香りを後日かいだだけで、その土地の風景や一緒にいた人物、会話の内容まで思い出すことがある。このように、一部の手掛かりから記憶全体を呼び戻す働きを「パターン補完」という。

従来、歯状回はパターン分離、CA3はパターン補完、CA1は現在の入力と記憶との照合を担うと説明されてきた。ただし、実際の海馬回路はこれほど単純に分業されているわけではない。 2026年、最大200メートルの空間を飛ぶコウモリの海馬を記録した研究では、CA3が少数の細胞による疎な表現を作る一方、CA1はより多数の場所を表す密な表現を作ることが示された。CA3の疎な符号は新しい状況をすばやく学ぶことに、CA1の密な符号は情報を正確に読み出して大脳皮質へ伝えることに適している可能性がある。

海馬が作る「認知地図」

海馬のもう一つの重要な機能は、空間の地図を作ることである。動物が特定の場所にいるときに活動する「場所細胞」が海馬で発見され、隣接する嗅内皮質では、空間を格子状に表す「格子細胞」が発見された。これらの細胞によって、私たちは自分がどこにいて、目的地がどの方向にあるのかを把握できる。 さらに、現在では、海馬が作る地図は物理的な空間に限られないと考えられている。海馬は、概念、規則、人物関係、選択肢などの間にある「心理的な距離」や関係性も、地図のような形式で表現する

2024年のヒト単一ニューロン研究では、被験者が課題の規則を理解して推論できるようになると、海馬に個々の刺激を超えた「抽象的な文脈」の表象が形成された。しかも、その表象は、言葉で規則を説明された後、数分ほどで成立する場合があった。海馬は、長い時間をかけて情報を蓄積するだけでなく、新しい関係構造を短時間で学習し、それを未知の状況へ応用する能力を持っている。

また、集団生活を送るコウモリの研究では、海馬のニューロンが、他個体の位置だけでなく、その個体の身份、性別、社会的序列、親密度まで表現していた。海馬は「自分がどこにいるか」だけでなく、「誰がどこにいて、自分とどのような関係にあるか」という社会的地図も作っている可能性がある。ただし、動物で得られた知見を、そのまま複雑な人間社会へ当てはめることはできない。

海馬は時間の流れをどのように表すのか

エピソード記憶には、空間だけでなく時間も必要である。出来事の順序が失われれば、一つの経験を物語として思い出すことはできない。 海馬には、出来事の経過に応じて順番に活動する「時間細胞」が存在する。また、海馬と嗅内皮質の活動パターンは時間とともに少しずつ変化する。この変化が、出来事に「時間的な文脈」を与えていると考えられる。

海馬が表現しているのは、時計が示すような絶対時間とは限らない。重要なのは、「どの出来事が先だったか」「二つの出来事がどの程度離れていたか」「同じ場面の中で起きたか、それとも場面が切り替わった後か」という関係である。場所の変化、登場人物の交代、話題や感情の転換などは、海馬にとって出来事の境界となる。海馬は連続する体験を一つのエピソードにまとめると同時に、境界を検出して別のエピソードへ分節している。

眠っている間に記憶を編集する

学習中に活動した海馬ニューロンの系列は、睡眠中や短い休息中に再び活動する。この現象を「リプレイ」と呼ぶ。

リプレイは、経験を録画映像のように再生する現象ではない。実際には、数秒から数分の経験が数十から数百ミリ秒に圧縮され、順序が逆転したり、複数の経験が組み合わされたりする。海馬は、重要な経験を選択し、既存の知識と新しい情報を統合しながら、記憶を編集していると考えられる。

このとき海馬では、「鋭波リップル」と呼ばれる短時間の高周波活動がしばしば生じる。2026年のヒト研究では、正しく記憶を思い出せたとき、海馬リップルの直後に大脳皮質の活動が複雑化し、記憶内容が皮質上に展開されることが示された。圧縮された海馬の索引が、リップルを合図として大脳皮質へ送られ、そこで詳細な記憶へ「解凍」されると考えることができる。

ただし、リプレイとリップルは完全に同じ現象ではない。2025年のラット研究では、リップルを伴わないリプレイも確認された。リップルは、特に新奇性や学習上の重要性が高い経験を大脳皮質へ伝えるための印である可能性がある。

過去を用いて未来をシミュレーションする

海馬を損傷すると、過去の出来事を思い出しにくくなるだけでなく、具体的な未来の場面を想像することも難しくなる。未来を思い描くためには、過去の経験から人物、場所、行動などの要素を取り出し、新しい組み合わせとして再構成する必要があるからである。

動物が移動しているとき、海馬の場所細胞は、シータ波と呼ばれる周期的活動の一周期内で、現在地から前方へ向かう経路を高速に表現する。これを「シータ・スイープ」という。2026年の研究では、この活動が単に進行方向を表すのではなく、記憶された目標地点の方向を先取りしていることが示された。目標方向を強く表せたときほど、その後の経路選択も正確だった。

さらにヒトの研究では、予測しにくい刺激が提示される状況になると、刺激が現れる前から海馬リップルが増加し、その後の視覚皮質の反応を調整することが報告された。海馬は、経験を記憶した後だけでなく、過去の規則性から次に起こる出来事を予測し、予想外の情報を効率的に取り込む準備にも関与している。

情動に文脈を与える

扁桃体が出来事の危険性や情動的な重要性を強調するのに対し、海馬は「いつ、どこで起きた危険なのか」という文脈を与える

この区別は恐怖記憶を考えるうえで重要である。「あの場所では危険だった」という記憶が適切に文脈化されれば、別の安全な場所では恐怖を抑えることができる。しかし文脈の識別が不十分になると、恐怖が安全な状況にも一般化する可能性がある。(恐怖体験のあった場所以外でも、恐怖を感じるということ。) PTSDや不安症では、このような文脈識別や恐怖の過度な一般化との関連が研究されている。ただし、これらの疾患を海馬だけで説明することはできず、扁桃体、前頭前野、ストレス応答系を含む広いネットワークとして考える必要がある。

また、海馬は均一な構造ではない。ヒトでは、後部海馬は細かな空間や知覚的詳細、前部海馬は出来事の全体像、時間的文脈、情動や動機づけに比較的強く関与する。ただし、これは明確な分業ではなく、前方から後方へ連続的に変化する機能勾配である。

成人の海馬でも神経細胞は生まれるのか

成人海馬の歯状回で新しい神経細胞が作られるかどうかは、長年論争となってきた。死後脳の保存状態や細胞マーカーの違いによって、研究結果が一致しなかったためである。

しかし、2025年には単一核RNA解析によって成人海馬に増殖中の神経前駆細胞が同定され、2026年には35万個を超える細胞核を用いたマルチオミクス解析によって、神経幹細胞、神経芽細胞、未成熟顆粒細胞へと続く系列が確認された。成人海馬神経新生が存在することを支持する証拠は、以前よりかなり強くなったといえる。

さらに、アルツハイマー病では、認知症を発症する前の段階から神経新生に関連する遺伝子調節の変化が認められた。一方、非常に高い記憶能力を保つ高齢者では、異なる分子学的特徴がみられ、認知的レジリエンスとの関連が注目されている。

ただし、生きた人間の海馬でどの程度の新生が起きているのか、新生ニューロンが記憶や気分にどれほど寄与するのかは、まだ確定していない。運動や抗うつ薬が神経新生を増やすという動物研究を、そのままヒトの治療効果の説明に用いることにも慎重さが必要である。

記憶とは、未来を作るための過去である

海馬の役割を「記憶」に限定すると、空間認知、推論、想像、予測、情動などとの関係が見えにくくなる。これらに共通するのは、複数の情報を関係づけ、状況の内部モデルを作るという働きである。

海馬は、経験をそのまま保存するのではない。似た経験を区別し、共通する構造を抽出し、睡眠や休息中に再編集する。そして、その地図を用いて、現在地を理解し、まだ起きていない未来の経路を試行する

したがって海馬は、記憶の倉庫というよりも、経験の編集者、世界の地図作成者、未来のシミュレーターである。私たちが過去を覚えているのは、過去にとどまるためではない。変化する世界の中で次に何が起こり得るかを予測し、より適切に行動するためなのである。

参考文献

  1. O’Keefe J, Dostrovsky J. The hippocampus as a spatial map: Preliminary evidence from unit activity in the freely-moving rat. Brain Research. 1971;34(1):171–175. doi:10.1016/0006-8993(71)90358-1 自由に移動するラットの海馬から、特定の場所で選択的に発火するニューロンを初めて報告した歴史的研究である。後に「場所細胞」と呼ばれるこの発見は、海馬を単なる記憶装置ではなく、環境内の現在地を表す「認知地図」として理解する出発点となった。
  2. Kunz L, Staresina BP, Reinacher PC, Brandt A, Guth TA, Schulze-Bonhage A, Jacobs J. Ripple-locked coactivity of stimulus-specific neurons and human associative memory. Nature Neuroscience. 2024;27(3):587–599. doi:10.1038/s41593-023-01550-x てんかん患者の内側側頭葉から単一ニューロン活動を記録し、物体を表す細胞と場所を表す細胞が、記憶の形成・想起時に海馬リップルへ同期して活動することを示した。海馬が分散した情報を一つの連合記憶へ結合する仕組みを、ヒトで直接捉えた研究である。
  3. Courellis HS, Minxha J, Cardenas AR, Kimmel DL, Reed CM, Valiante TA, Salzman CD, Mamelak AN, Fusi S, Rutishauser U. Abstract representations emerge in human hippocampal neurons during inference. Nature. 2024;632(8026):841–849. doi:10.1038/s41586-024-07799-x ヒト海馬ニューロンが、個々の刺激に加えて、複数の状況に共通する抽象的な「文脈」を表現することを示した。この表象は正しい推論が可能な場合に現れ、言語による規則説明後にも短時間で形成された。海馬が概念学習、一般化、推論にも関与することを示す重要な研究である。
  4. Tacikowski P, Kalender G, Ciliberti D, Fried I. Human hippocampal and entorhinal neurons encode the temporal structure of experience. Nature. 2024;635:160–167. doi:10.1038/s41586-024-07973-1 ヒトの海馬・嗅内皮質ニューロンが、画像の内容だけでなく、出来事の順序や時間的距離を学習して表現することを示した。休息中には学習系列を数十ミリ秒へ圧縮したリプレイも観察された。海馬が「何が起きたか」と「いつ起きたか」を統合する神経機構を明らかにした。
  5. Widloski J, Foster DJ. Replay without sharp wave ripples in a spatial memory task. Nature Communications. 2025;16:10287. doi:10.1038/s41467-025-65181-5 ラットの空間記憶課題において、経験した神経活動系列のリプレイが、鋭波リップルを伴わずにも生じることを示した。リプレイとリップルを同一視する従来の理解を修正し、リップルは新奇性や学習上重要なリプレイを選択的に大脳皮質へ伝える信号ではないかと提案した。
  6. Disouky A, Sanborn MA, Sabitha KR, et al. Human hippocampal neurogenesis in adulthood, ageing and Alzheimer’s disease. Nature. 2026;652:1264–1273. doi:10.1038/s41586-026-10169-4 約35万6千個のヒト海馬細胞核をマルチオミクス解析し、成人にも神経幹細胞、神経芽細胞、未成熟顆粒細胞が存在することを示した。前臨床期アルツハイマー病から神経新生関連の異常がみられる一方、記憶能力の高い高齢者には異なる「認知的レジリエンス」の分子像が認められた。
  7. Maimon SR, Eliav T, Aljadeff J, Shalev A, Gronich Y, Finger NM, Eveland KE, Moss CF, Las L, Ulanovsky N. Sparse-to-dense coding transformation between hippocampal areas CA3 and CA1. Nature. 2026;655:1242–1251. doi:10.1038/s41586-026-10537-0 最大200メートルの空間を飛行するコウモリからCA3とCA1を同時記録し、CA3では極めて疎な空間符号、CA1ではより密な符号が形成されることを示した。CA3の疎な表現は新しい地図の高速学習に、CA1の密な表現は位置情報の正確な読み出しと皮質への出力に適すると考えられた。
  8. Frank D, Moratti S, Hellerstedt R, et al. Human hippocampal ripples tune cortical responses based on predicted uncertainty. Nature Neuroscience. 2026;29:1987–1998. doi:10.1038/s41593-026-02345-6 ヒトの海馬と視覚皮質を直接記録し、予測しにくい刺激系列では、刺激が現れる前から海馬リップルの頻度と持続時間が増加することを示した。このリップルは視覚皮質のガンマ活動と驚き反応を調整しており、海馬が不確実性を評価して新情報の取り込みを準備する可能性を示す。
  9. Yu C, Ji Z, Ormond J, O’Keefe J, Burgess N. Hippocampal theta sweeps indicate goal direction during navigation. Nature Neuroscience. Published online July 1, 2026. doi:10.1038/s41593-026-02365-2 ラットの場所細胞系列を解析し、シータ波一周期内の「シータ・スイープ」が、頭や身体の進行方向とは独立して、記憶された目標地点の方向を表すことを示した。目標方向への偏りが強いほど次の経路選択は正確であり、海馬が認知地図を用いて未来の行動を試行することが示唆された。
  10. Kerrén C, Michelmann S, Doeller CF. Hippocampal ripples initiate cortical dimensionality expansion for memory retrieval. Nature Communications. 2026;17:6677. doi:10.1038/s41467-026-75345-6 てんかん患者の頭蓋内脳波を解析し、正しい記憶想起では、海馬リップルの後に大脳皮質の活動が高次元化し、学習時の情報表象が再現されることを示した。圧縮された海馬の記憶索引が、皮質に分散して保存された詳細な記憶を展開・再構成するというモデルを支持する。