生物史のブレイクスルー ①エネルギー・遺伝・個体性の基盤形成

生物史のブレイクスルー ①エネルギー・遺伝・個体性の基盤形成

まえがき

地球上に生命が誕生してから今日まで、生物は数え切れないほどの変化を重ねてきた。しかし、そのすべてが同じ重みをもつわけではない。ある変化は、新しい身体の構造や生き方を可能にし、その後の進化が進み得る範囲そのものを大きく広げた。このような転換点を「生物史のブレイクスルー」として捉え3遍に分けて考えてみた。

第1編では、酸素を利用する代謝とミトコンドリアの獲得、有性生殖、多細胞化を取り上げる。これらは、利用できるエネルギーを増やし、遺伝情報を組み替え、多数の細胞を一つの個体として統合する基盤となった。

第2編では、神経系と筋肉、左右相称性と頭部化、眼、骨格、脊椎動物型の身体、顎の成立をたどり、「感じて動き、食べ、逃げる」動物の出現が食物網を複雑化させた過程を考える。

第3編では、陸上進出、羊膜、内温性、効率的な呼吸と運動、二足歩行、そして言語と累積文化へと視野を広げる。ここでいう「環境からの自立」とは、環境を必要としなくなることではなく、身体内部に安定した環境をつくり、行動や文化によって利用可能な環境を広げることである。

人体もまた、こうした革新が幾層にも積み重なった生命史の記録である。現在の身体機能だけでなく、その破綻としての病気を理解するうえでも、「なぜこの仕組みが生まれたのか」という進化史的視点は、新しい奥行きを与えてくれるだろう。

数十兆個の細胞が「一つの個体」になるまで

人間の身体は、数十兆個の細胞から構成されている。 神経細胞は情報を伝え、筋細胞は収縮し、肝細胞は代謝を担い、免疫細胞は体内を移動して異物を監視する。多くの細胞はほぼ同じゲノムを持ちながら、異なる遺伝子群を選択的に働かせることで、それぞれの役割を果たしている。

しかし、これほど多くの細胞が協調して「一人の人間」を構成していることは、決して自明ではない。細胞には本来、自ら栄養を取り込み、増殖し、生き延びようとする性質がある。その細胞が増殖の自由を制限し、ときには自ら死ぬことによって、個体全体の生存に従っているのである。

このような複雑な動物の成立には、少なくとも三つの基盤が必要だった。

  • 第一は、大量のエネルギーを安定して供給する仕組みである。
  • 第二は、遺伝情報を保存するだけでなく、組み替えながら次世代へ伝える仕組みである。
  • 第三は、多数の細胞を協力させ、その利害対立を抑えて「一つの個体」として統合する仕組みである。

酸素は燃料ではなく、強力な電子受容体である

初期の地球大気には、遊離酸素がほとんど存在しなかった。 初期生命は発酵や嫌気呼吸などによってエネルギーを得ていたが、やがてシアノバクテリアが、水を電子供与体として利用する酸素発生型光合成を獲得した。太陽光を利用して有機物を合成し、その副産物として酸素を放出する仕組みである。

酸素発生型光合成が始まっても、大気中の酸素がすぐに増えたわけではない。 放出された酸素は、海中の二価鉄、火山性ガス、還元状態にある岩石や有機物との反応に消費された。酸素の供給量がこうした「吸収源」を上回り、約24億年前に大気中へ持続的に蓄積し始めた出来事が、大酸化イベントである。その後も海洋深部は長く無酸素状態にあり、酸素濃度は上昇と低下を繰り返した。現在のような酸素に富んだ地球環境は、一度の急激な変化ではなく、数十億年に及ぶ生物と地球環境の相互作用によって形成された。

酸素は厳密には「燃料」ではない。 電子を強く引きつける最終電子受容体である。現生真核細胞では、グルコース一分子から解糖系と発酵だけで得られるATPが正味二分子であるのに対し、酸素を使って完全に酸化すれば、一般に約30~32分子のATPを得ることができる。この大きなエネルギー収支の差が、能動輸送、細胞骨格の再編、タンパク質合成と分解、細胞間通信など、維持費の高い細胞活動を支えた。

一方、酸素は生命にとって危険な物質でもある。 電子伝達の過程ではスーパーオキシドなどの活性酸素種が生じ、DNA、脂質、タンパク質を傷害する。そのため生命は、スーパーオキシドディスムターゼ、カタラーゼ、グルタチオン系などの抗酸化機構と、損傷分子を修復・除去する仕組みを発達させた。 生命は酸素を利用しただけでなく、その毒性を制御する能力を同時に進化させなければならなかったのである。虚血再灌流障害、炎症、老化などにみられる酸化ストレスは、この古い進化的課題が現代医学にも残っていることを示している。

ただし、「酸素濃度が上昇したから動物が誕生した」という単純な因果関係には慎重でなければならない。低酸素環境で生活できる動物も存在し、真核細胞の成立過程が必ずしも高酸素環境で進んだとは限らない。酸素は大型で活動性の高い動物を可能にした重要な条件ではある。ただ、それだけで動物の誕生を説明することはできない。

ミトコンドリア 〜取り込まれた細菌が細胞の中枢になる

動物を含む真核生物の成立における最大の転換の一つが、ミトコンドリアの獲得である。 現在有力な枠組みでは、アスガルド古細菌に近縁な宿主細胞と、アルファプロテオバクテリア系の細菌が共生関係を結び、後者がミトコンドリアになったと考えられている。正確な成立過程には未解決の問題が多いが、真核細胞が古細菌系と細菌系の二つの系統の統合によって成立したことは、広く支持されている。

ミトコンドリアが独自のDNAを持つこと、細菌に似たリボソームを備えること、二重の膜で囲まれていることは、その細菌起源を示す証拠である。 共生が進むにつれて、もとの細菌が持っていた遺伝子の多くは宿主の核へ移動し、残りの遺伝子も核の強い制御下に置かれた。共生細菌は単独で生きる能力を失い、宿主もまたミトコンドリアなしには本来の機能を維持できなくなった。二つの生物は、もはや分離できない一つの細胞へ統合されたのである。

ミトコンドリアの意義は、単に「高性能のエンジンを手に入れた」ということではない。それは、細菌が細胞膜上に持っていた呼吸装置を、真核細胞は細胞内に多数配置できるようになったことである。 これによって細胞の体積を大きくしながら、エネルギー産生に使える膜面積を増やすことができた。ミトコンドリアによるエネルギー予算の拡大が、大きなゲノム、複雑な細胞骨格、細胞内膜系、活発な物質輸送を支えたという説は有力である。ただし、ミトコンドリアだけが真核細胞の複雑性を生み出したとまでは断定できない。アスガルド古細菌の研究からは、宿主側も細胞骨格や膜変形に関係する遺伝子群をすでに備えていた可能性が示されている。

ミトコンドリアはATPを作るだけの細胞小器官でもない。 クエン酸回路、脂質・アミノ酸代謝、鉄硫黄クラスター形成、カルシウム調節、活性酸素によるシグナル伝達などに関与し、細胞の代謝状態を統合している。さらに動物細胞では、ミトコンドリアから放出されたシトクロムcがカスパーゼ系を活性化し、アポトーシスを開始する。

かつて独立した細菌だった存在が、現在ではエネルギーを供給するだけでなく、損傷した細胞を個体のために死なせる仕組みに組み込まれている。この点でミトコンドリア共生は、エネルギー革命であると同時に、異なる生命体が一つの上位単位へ統合された「個体性の革命」でもあった。

有性生殖 〜遺伝情報を再編集する

生命はDNAを正確に複製することで遺伝情報を保存する。 しかし、環境が変化し続ける世界では、同じ情報を忠実に複製するだけでは十分ではない。有性生殖の重要な役割は、突然変異が長い時間をかけて集団内に蓄積してきた遺伝的多様性を、子の世代で新しく組み合わせることにある。

減数分裂では、相同染色体間の交叉と染色体の独立分配によって、親とは異なる組み合わせを持つ配偶子が形成される。さらに二つの配偶子が融合することで、子は両親の遺伝情報を組み合わせた固有のゲノムを持つ。比較ゲノム研究からは、動物が成立するよりはるか以前の真核生物最終共通祖先が、すでに減数分裂と細胞融合の中核的な仕組みを備えていた可能性が高い。

有性生殖には大きなコストがある。配偶相手を探す必要があり、配偶子形成には時間とエネルギーを要し、すでに有利に働いている遺伝子の組み合わせを組換えによって壊すこともある。それでも有性生殖が広く維持されてきた理由については、一つの答えに決着していない。

組換えは、有利な変異同士を同じゲノムへ集め、有害変異との連鎖を切ることで、自然選択の効率を高める。酵母を用いた実験では、有性集団の方が有利な変異と有害な変異を効率よく選別し、無性集団より速く適応することが示されている。 また「赤の女王仮説」は、宿主側が遺伝子の組み合わせを変え続けることで、急速に進化する寄生者や病原体から追跡されにくくなると説明する。 したがって、有性生殖が「多様性を増やすために進化した」と目的論的に考えるのは適切ではない。 DNA修復、有害変異の除去、環境変化への適応、寄生者との共進化など、複数の効果が異なる条件で有性生殖を維持したと考えるのが妥当である。

多細胞化 〜細胞の集団から個体へ

多細胞化は、生命史上で一度だけ起きた現象ではない。植物、動物、菌類、藻類などで独立に何度も生じている。しかし、細胞が集まっただけでは、複雑な多細胞個体にはならない。細胞が接着し、情報を交換し、位置に応じて分化し、集団全体として再現可能な形態を作る必要がある。

興味深いことに、動物の単細胞近縁種も、細胞接着、シグナル伝達、転写制御に関係する遺伝子の一部を持っている。動物はすべてを新たに発明したのではなく、単細胞祖先が環境との相互作用に使っていた分子を、細胞同士の接着や通信へ転用したと考えられる。 進化の大きな革新は、必ずしも新しい遺伝子の誕生だけで起こるのではない。既存の遺伝子を、異なる場所、異なる時刻、異なる組み合わせで働かせる制御系の変化によっても生じることも少なくない。

多細胞個体の細胞分化とは、細胞ごとに異なる遺伝子を持たせることではない。 転写因子、エンハンサー、クロマチン状態、細胞間シグナル、胚内の位置情報などによって、同じゲノムから異なる遺伝子群を選択的に読み出すことである。神経細胞と肝細胞の違いは、基本的には設計図の違いではなく、設計図の「読み方」の違いなのである。

さらに動物は、通常一個の受精卵から発生する。 生活環に一個の細胞を挟む「単細胞ボトルネック」により、体内の細胞は後から生じた体細胞変異を除けば、ほぼ同じゲノムを共有する。 細胞間の遺伝的利害が一致しやすくなるため、一部の細胞が繁殖を放棄して他の細胞を支える分業も成立しやすい。その代表が、生殖細胞と体細胞の分業である。生殖細胞はゲノムを次世代へ伝える一方、体細胞は運動、摂食、防御、感覚、情報処理などを担う。 大部分の体細胞は、自身が次世代へ直接つながる可能性を放棄し、個体の生存と繁殖を支える。多細胞化とは、細胞数が増えた出来事というより、細胞レベルの自由な増殖を制限し、個体全体の利益へ従わせる統治機構が成立した出来事なのである。

個体性を守る仕組みと癌

細胞の協力には、常に利害対立の可能性が残る。ある細胞が周囲から多くの栄養を取り込み、増殖抑制を無視して急速に増えれば、その細胞系列にとっては有利でも、個体全体には不利益となる。このような「裏切り」を抑えるため、多細胞動物は細胞周期チェックポイント、接触阻害、DNA損傷応答、細胞老化、免疫監視、アポトーシスなどを発達させた。

アポトーシスは、損傷細胞を除去するだけではない。発生過程で不要な細胞を消し、指の間を分離し、神経回路を整えるなど、身体の形を作る働きも担う。単細胞生物にとって死はその個体の終わりである。しかし多細胞動物では、一個の細胞が死ぬことが、より大きな個体を生かすための正常な機能となった。

は、この細胞間協力の内部から生じる進化として理解できる。 体細胞に変異が蓄積し、増殖抑制を無視し、分化を失い、アポトーシスや免疫監視を回避する細胞が現れると、組織内でクローン選択が始まる。治療もまた選択圧となり、抵抗性を持つクローンが生き残ることがある。 ただし、癌を単細胞生物への文字どおりの「先祖返り」とみなすのは単純化が過ぎる。癌は、多細胞個体を維持していた制御から一部の細胞が逸脱し、個体レベルに抑え込まれていた細胞レベルの自然選択が再び前面に現れた状態と考える方が正確である。

生命史を貫く「協力と統合」

第1回で取り上げた三つの変化は、互いに独立した出来事ではない。

  • ミトコンドリアは、異なる細胞同士の共生が一つの真核細胞へ統合された結果である。
  • 有性生殖は、異なる個体の遺伝情報を一つの受精卵へ統合する。
  • 多細胞化は、多数の細胞を一つの繁殖単位へ統合する。

そして、いずれの場合にも、統合された単位の内部に残る利害対立を抑える仕組みが必要だった。

生命史の大きなブレイクスルーは、単に「より強い生物」が出現したことではない。それまで独立していた単位が協力し、分業し、相互依存を深めることで、それまで存在しなかった新しい「個体」を作り出したところにある。

高出力のエネルギー、遺伝情報の再編集、細胞間協力の統治。 この三つがそろったことで、神経、筋肉、感覚器、消化器などを備えた活動的な動物が進化できる基盤が整った。

次回は、『感覚運動系の成立と食物網の複雑化』と題して、この基盤の上に神経系、筋肉、眼、骨格、顎が成立し、動物が「世界を感じ、動き、食べる存在」へ変化していく過程を取り上げたい。

参考文献

1. Poulton SW, et al. A 200-million-year delay in permanent atmospheric oxygenation. Nature. 2021.

南アフリカの海成堆積物を、硫黄同位体と鉄・硫黄・炭素の地球化学指標で解析した研究。大気中の酸素は最初の上昇後も約2億年間、微量酸素の閾値を上下し、恒久的な酸素化は約22.2億年前に成立したと推定した。これは現代に近い酸素濃度や海洋全体の酸素化を意味しない。

2. Mills DB, et al. Eukaryogenesis and oxygen in Earth history. Nature Ecology & Evolution. 2022.

化石、分子時計、地球化学、Asgard古細菌の知見を統合した総説。真核細胞とミトコンドリアの起源は、地球規模の主要な酸素化と時期が一致せず、初期の内部共生は無酸素環境での水素授受によって成立した可能性を論じる。「酸素増加が真核化を直接促した」という従来の見方を修正する研究である。

3. Zaremba-Niedzwiedzka K, et al. Asgard archaea illuminate the origin of eukaryotic cellular complexity. Nature. 2017.

環境DNAから未培養古細菌のゲノムを再構築し、Asgard古細菌群を提唱した研究。膜輸送、小胞形成、細胞骨格などに関係する真核生物型蛋白質を見いだし、真核細胞の宿主側古細菌が複雑化の素材を備えていた可能性を示した。ただし、遺伝子の存在だけでは実際の細胞構造や機能は証明できない。

4. Lane N, Martin W. The energetics of genome complexity. Nature. 2010.

細胞と遺伝子のエネルギー収支を比較した仮説論文。原核細胞では呼吸膜とゲノムの配置が複雑化を制約する一方、ミトコンドリア共生は大規模なゲノムと遺伝子発現を支える基盤を与えたと論じる。影響力の大きい仮説だが、数値的推計はモデルに依存し、因果の強さには議論がある。

5. Goodenough U, Heitman J. Origins of Eukaryotic Sexual Reproduction. Cold Spring Harbor Perspectives in Biology. 2014.

分子遺伝学と細胞生物学の知見を統合した総説。減数分裂遺伝子と性の基本機構が主要な真核生物群に共有されることから、最終真核共通祖先はすでに有性生殖を行っていたと推定する。減数分裂、配偶子融合、交配型、細胞小器官DNAの片親遺伝などの成立過程も検討している。

6. McDonald MJ, Rice DP, Desai MM. Sex speeds adaptation by altering the dynamics of molecular evolution. Nature. 2016.

出芽酵母の有性集団と無性集団を約千世代にわたり進化させ、ゲノム変化を比較した研究。有性生殖では組換えが有利変異同士の競合を緩和し、有害変異の便乗固定を防いで適応を速めた。性の利点が、新変異の生成よりも、既存変異の並べ替えと効率的な選別にあることを示す。

7. Suga H, et al. The Capsaspora genome reveals a complex unicellular prehistory of animals. Nature Communications. 2013.

動物に近縁な単細胞生物Capsasporaの全ゲノムを解読した研究。細胞接着、情報伝達、転写調節など、多細胞化に利用される遺伝子群の多くが動物出現以前から存在したことを示した。動物の多細胞性は、既存遺伝子の転用に、新規遺伝子と制御ネットワークの発達が加わって成立したと考えられる。

8. Ratcliff WC, et al. Experimental evolution of multicellularity. Proceedings of the National Academy of Sciences. 2012.

単細胞の出芽酵母から、速く沈む集団を選び続けた実験。短期間でクローン性の「雪片状」細胞集団が生じ、多細胞性の繁殖単位、幼若期、有限成長、細胞死を利用した単純な分業が進化した。多細胞化の初期段階が急速に生じ得ることを示すが、動物の多細胞化を再現したものではない。

9. Michod RE. Evolution of individuality during the transition from unicellular to multicellular life. Proceedings of the National Academy of Sciences. 2007.

ボルボックス系列の緑藻を主な例として、細胞集団が一つの進化的個体へ移行する仕組みを論じた理論・総説。大型化に伴う生存と繁殖のトレードオフが、体細胞と生殖細胞の分化を促し、適応度の単位を細胞から集団へ移すと提案する。多細胞化における「個体性」の成立を説明する枠組みである。

10. Greaves M, Maley CC. Clonal evolution in cancer. Nature. 2012.

がんを、組織という生態系内で起こる遺伝的多様化、クローン増殖、自然選択の反復として捉えた総説。腫瘍内の不均一性と分岐進化を重視し、治療自体が耐性クローンを選択し得ると指摘する。がんは多細胞協力からの逸脱と細胞レベルの選択の再浮上として理解できるが、単純な「単細胞への先祖返り」ではない。