次世代に伝えたい偉人伝 13:『ジャン・ポール・サルトル』 〜神なき時代に自由の意味を問う

次世代に伝えたい偉人伝 13:『ジャン・ポール・サルトル』 〜神なき時代に自由の意味を問う

1.栄誉を辞退した哲学者

1964年、ノーベル文学賞の受賞者に選ばれたジャン・ポール・サルトルは、その栄誉を辞退しました。 文学者にとって最高峰の賞を、なぜ拒んだのでしょうか。彼は、作家が公的な栄誉によって権威や制度の一部になることを警戒していました。自分の言葉は、自分の責任で語らなければならない。その姿勢には、自由と責任を問い続けた彼の思想が表れています。

もっとも、その生涯は、信念を貫いた美しい物語だけでは語れません。 自由を擁護しながら、政治的な判断では大きな矛盾も抱えました。そこまで含めて学ぶことが、この思想家を次世代に伝える意味なのだと思います。

2.文学と哲学を通して人間を問う

サルトルは1905年、パリに生まれました。 高等師範学校で学び、1928年に卒業しますが、教授資格試験に不合格となり、翌1929年に首席で合格します。その後、哲学教師として働きながら、文学と哲学の両方大きな足跡を残します。 ボーヴォワールは、生涯にわたる伴侶であるとともに、独自の思想を持つ対話相手でした。 フッサールの現象学やハイデガーの存在論との出会いは、サルトルに、抽象的な体系だけでなく、人間が世界をどう経験しているかを問い直す道を開きました。 第二次世界大戦では捕虜生活も経験し、個人の生が歴史から切り離せないことを身をもって知ります。

その歩みの中から、小説『嘔吐』、哲学書『存在と無』、戯曲『出口なし』などが生まれました。 哲学書では難しい言葉で論じられる問題が、小説では身体の感覚となり、演劇では人間同士の葛藤となって現れます。思想を生活の場面へ持ち込み、読む人や観る人自身の問題に変えたことが、サルトルの大きな業績でした。 『嘔吐』が描くのは、世界や自分が存在することに、必然的な理由を見いだせない経験です。 普段は名前や用途によって見慣れているものが、ある瞬間、ただそこに存在しているものとして迫ってくる。日常を支えていた説明が揺らぐとき、人は、自分の人生にも初めから確かな意味が備わっているわけではないと気づきます。 サルトルは、その不安定さを文学として読者に経験させようとしました。

3.実存は本質に先立つ

彼の思想を代表するのが、「実存は本質に先立つ」という言葉です。 例えば、紙を切る道具は、用途や形が考えられてから作られます。何のためのものかという設計が、実物の存在に先立っています。 無神論者であるサルトルは、人間には、そのように人生の目的を決めた神の設計図はないと考えました。人間はまず存在し、その後、具体的に生きることを通して、自分がどのような人間であるかを形づくっていくのです。

この考えは、「本当の自分」を見つけるという営みに、新しい問いを投げかけます。 心の奥に完成した自分が隠れていて、それを発見すれば人生の答えが得られるのでしょうか。誰かを助けるか、約束を守るか、困難な仕事を引き受けるか。そうした日々の行為を通して、自分は形になっていきます。内面に可能性があると信じることと、それを実際の行為にすることの間には、越えなければならない距離があるのです。 『存在と無』では、物の存在のあり方を「即自存在」、意識を持つ人間のあり方を「対自存在」と呼びます。 人間は、自分の現在の姿を振り返り、「このままである必要はない」と考えられます。現にある自分との間に距離をつくり、まだ実現していない可能性へ向かう。 この働きに関わるのが、題名にある「無」です。(注1)それは単なる虚無感ではなく、与えられたものを問い直す意識の働きに結びついています。

(注1)この働きに関わるのが、題名にある「無」です。 ここでいう「無」とは、意識が、現にあるものや現在の自分に完全には重ならず、「そうではない」「まだそうなっていない」と関われる、その隔たりを指します。「何も存在しない空間」や「人生に意味がないという虚無感」とは違います。 もし人間が、現在の性格や過去の行動と完全に一致した存在なら、「私はこういう人間だから、こうするしかない」となるでしょう。しかし、サルトルによれば、人間は自分の過去や現在から距離を取り、まだ実現していない可能性へ向かいます。この働きを「無化」と呼びます。過去を消すことではなく、過去が自分の未来をすべて決めるものとしては働かない、ということです。 ただし、これは意識的に反省したときだけ起こる特別な技術ではありません。 サルトルは、意識そのものが、このような自己との隔たりを持つと考えます。その構造に自由の根拠を見いだしたのです。

4.自由と責任を引き受ける

しかし、自由には重さがあります。生き方の正しさを最後まで保証するものがないなら、人は自分の判断を引き受けなければなりません。 決断を他人に任せても、その人に任せるという選択が残ります。「人間は自由の刑に処せられている」という言葉には、自分の人生への関与から完全には降りられないという、厳しい認識が込められています。自由は喜びであるとともに、不安を伴う条件でもあるのです。

もちろん、人は何でも思いどおりに実現できるわけではありません。 生まれた時代や家庭、身体、過去の出来事には、自分で選べなかったものが数多くあります。サルトルは、こうした与えられた条件を「事実性」として扱いました。そのうえで、その条件の中で何を目指し、どう行動するかを問います。 ただし、実際に選べる範囲は人によって大きく異なります。この不均衡をどう考えるかは、彼の後期思想の重要な課題になりました。

5.自己欺瞞と他者のまなざし

自由の重さから逃れるために、人は自分を一定の役割に閉じ込めることがあります。サルトルが「自己欺瞞」と呼んだ問題です。 「私はこういう性格だから」「この立場なら、こうするしかない」と考え、自分の判断が関わる余地を消してしまう。 反対に、「自分はいつでも変われる」と言って、過去の行為や責任を引き受けないこともあります。 自分を固定した物のように扱うことにも、何の制約もない存在として扱うことにも、自分を見失う危険があるのです。

この問題を他者との関係から描いたのが、戯曲『出口なし』です。 人は誰かに見られていると気づくと、自分の姿や振る舞いを意識します。他人の目を通して自分を知る一方、その評価に縛られることもあります。 劇中の「地獄とは他人である」という言葉は、あらゆる人間関係を否定する宣言ではありません。 サルトル自身は、他人の判断に全面的に依存し、そこから抜け出せない関係の問題だと説明しました。他者は自分を脅かし得ると同時に、自分を知るために欠かせない存在なのです。

6.実存的精神分析と根本的投企

こうした自由、自己欺瞞、他者との関係の考察から生まれた、人間理解の試みが「実存的精神分析」です。 その中心にあるのは、「この人は、与えられた状況の中で、どのような存在として生きようとしているのか」という問いです。 行動を性格の名前で分類するだけでなく、その人にとっての意味を、人生全体の中で理解しようとします。

例えば、同じように熱心に働く二人がいても、仕事の意味は同じとは限りません。 一人には新しいものを生み出す喜びがあり、 もう一人には、役に立ち続けなければ自分の居場所がなくなるという切迫感があるかもしれません。 「勤勉な人」という説明だけでは、この違いは見えません。なぜ、その人にとって、それほど大切なのか。その行為によって、自分をどのような存在として保とうとしているのか。実存的精神分析は、この問いを深めます。 サルトルは、さまざまな行動に通じる生き方の方向を「根本的投企」(注2)と呼びました。投企とは、自分を何らかの可能性へ向けて生きることです。 目先の目標よりも深く、世界や他者にどう関わり、自分をどう成り立たせようとしているかを指します。 他人に必要とされること、誰にも依存しないこと、優れた成果を残すことなどが、その理解の入口になるでしょう。ただし、これらは固定的な性格類型ではありません。

(注2)「根本的投企」 「自分はどのような存在であろうとするのか」という、その人の生き方全体を貫く基本的な方向づけです。サルトルの実存的精神分析は、さまざまな行動や欲望に表れる、この方向づけを理解しようとします。 「投企(とうき)」は、現在の自分を超えて、まだ実現していない可能性へと自分を向けることです。単なる将来計画よりも広く、日々の行動を通して「こういう自分として存在しようとする」ことを意味します。 根本的投企は、「この人は何を欲しがっているか」から一歩進んで、「それを得ることで、どのような存在であろうとしているのか」と問うための概念です。

7.経験することと、その意味を知ること

ここで注意したいのは、サルトルがいう「選択」は、十分に考えてから下す決断だけを意味しないことです。 ある人が、幼い頃に「他人の役に立つことを人生の原則にしよう」と決めたとは限りません。頼まれると引き受け、断ろうとすると落ち着かず、感謝されると安心する。そのような生活の積み重ねとして、生き方の方向が現れます。本人は個々の感情を経験していても、それらを貫く意味を説明できるとは限りません。

サルトルは、経験していることと、その意味を知っていることを区別しました。 人は、いつも自分の動機を分析しながら生きているわけではありません。夢中で会話し、相手の表情に身を固くし、理由がよく分からないまま安心する。そうした経験を後から振り返って、初めて自分のあり方に気づくことがあります。 実存的精神分析は、この、まだ十分に言葉になっていない生の方向を明らかにしようとするのです。

8.臨床で考える「生き方の意味」

実存的精神分析を理解するために、もう少し具体的な人物を想像してみましょう。 職場では頼まれた仕事を断れず、家庭でも世話役になり、疲れて休もうとすると罪悪感に襲われる人です。 人を助けることには熱心ですが、自分が助けられる立場になることには抵抗があります。面接でも、相手を困らせないように話を整えようとします。これは、考え方を説明するための架空の例です。

この人について、「人に役立つことが、自分の居場所を保つ条件になっているのではないか」という仮説が生まれるかもしれません。 もし本人の経験に合っているなら、休息の難しさも理解しやすくなります。休むことは、仕事を中断するだけでなく、自分が不要な存在になるような恐ろしさを伴っているのかもしれません。その場合、「もっと休みましょう」という助言だけでは、本人が感じている困難の中心には届きにくいでしょう。 そこで、「休んでいるとき、ご自身が周囲にとってどんな人になったように感じますか」と尋ねてみます。 あるいは、「誰かに助けてもらうと、安心する部分と、落ち着かなくなる部分の両方がありますか」と聞くこともできるでしょう。 生き方の意味を、本人が確かめ、訂正できる言葉にすることが大切になります。 目指す変化は、人の役に立つことをやめることとは限りません。 人を助けることの価値を保ちながら、休むことや助けられることも許されるようになる。その人の生き方に、選べる幅が生まれることが考えられます。 病態の評価と、対人行動の意味を理解する作業は、区別して進める必要があります。

9.人間を理解する方法と、その限界

サルトル自身が重視したのは、異なる場面の行動を比較する方法でした。 一つの発言から、その人の本質を言い当てようとするのではありません。仕事、家族、友人、趣味などでの振る舞いを照らし合わせ、共通する意味を探ります。 同じ行動でも、人によって、また同じ人の異なる時期によって意味は変わり得ます。本人が思い当たるかどうかに加え、その解釈で理解できない経験がないかも検討しなければなりません。

この方法には、深い魅力と危うさがあります。 多くの行動が一つの意味でつながったとき、私たちはその人を理解できたと感じます。しかし、その感覚だけで解釈の正しさが保証されるわけではありません。人間の中には矛盾も偶然もあり、時期による変化もあります。 整った物語を作るために、合わない事実を見落としてしまえば、理解しようとする営みが、その人を新しい枠へ閉じ込めることになります。 サルトルは、この人間理解を、ボードレール、ジュネ、フローベールについての著作で実践しました。 作品や行動を、その人が生きた関係や社会の中へ戻して読み解いたのです。 とくに『家の馬鹿息子』では、フローベールの家庭環境と文学的創造を結びつけようとしました。ただし、これらは、本人と対話しながら検証した臨床症例ではありません。史料から確かめられる事実と、サルトルの大胆な解釈とを区別して読む必要があります。

10.個人の自由から社会と歴史へ

後期になると、彼の問いは、“個人の自由を支えたり妨げたりする条件へ”と、さらに広がります。 『方法の問題』では、現在の人物から過去の形成条件へ遡り、そこから再び、その人が何をしてきたかをたどる方法が示されます。ある作家が特定の階級に属していると説明しても、なぜその人物が、その作品を書いたのかまでは分かりません。 社会的条件を知ることと、一人の人間の経験を理解することを、往復させる必要があるのです。

『弁証法的理性批判』では、人々が共通の目的のために集まり、その集団がやがて制度として硬直する過程も考察しました。 自由を実現するために作った組織が、いつの間にか個人を拘束するものになる。こうした逆説は、政治だけでなく、私たちが働く組織や身近な共同体にも、問いを向けます。 自由を内面の態度として考えるだけでは足りず、それを可能にする関係や仕組みを検討しなければならないのです。

11.社会への関与と政治的判断の矛盾

その関心は「アンガージュマン」、すなわち社会への関与へとつながりました。 サルトルはボーヴォワールらと雑誌『現代』を創刊し、植民地主義や人種差別、戦争の問題に発言しました。自分が書く言葉も、沈黙することも、社会の中で何らかの働きを持つ。知識人はその影響を引き受けるべきだと考えたのです。 アルジェリアの植民地支配への批判は、その姿勢を示す活動でした。

一方、共産主義勢力への接近や革命的暴力への評価には、重大な論点が残ります。 ソ連による1956年のハンガリー侵攻を批判するなど立場の変化はありましたが、自由を語る思想と、現実の政治的判断が、いつも一致していたわけではありません。 植民地支配を告発した意義を認めながら、その抵抗の暴力を強く肯定した言説も検討する必要があります。 社会に関わる勇気には、自分が支持する側をも批判する責任が伴います。

12.次世代に手渡したい問い

①サルトルが次世代に残した大きな影響は、人間を「状況の中で選び、自分を形づくる存在」として捉える視点です。 「実存は本質に先立つ」という思想は、生まれや肩書で自分を固定せず、自らの選択に責任を持つ姿勢を、戦後の若者や文学者に広めました。小説や演劇を通じ、哲学を日常の生き方に結びつけた点も重要です。

②作家や知識人が社会の問題に関わる「アンガージュマン(社会参加)」を掲げました。 不正や抑圧に向き合う姿勢は、反植民地主義や社会運動に影響を与え、思想と言葉を行動へ結びつける知識人像を示しました。その影響は、文学研究やポストコロニアル思想にも及んでいます。 ③構造主義や後のポスト構造主義は、“自由な主体を中心に据える考え方”を問い直し、言語や制度、権力が人間を形づくる面を重視しました。 批判の核心は、「自由に選ぶ『私』そのものが、すでに言語や社会制度によって形づくられているのではないか」という問いです。各思想家の立場は異なりますが、主体を説明の出発点とすることを疑った点に共通性があります。 構造主義的マルクス主義のアルチュセールは、人が学校や家族などを通じ、社会の価値観を自分のものとして受け入れる過程を論じました。 身近な例に置き換えれば、「有名大学に入り、一流企業で働きたい」という本人の希望にも、学歴や職業で人を評価する社会の基準が入り込んでいます。「自分で選んだ」という自覚だけでは、その選択の成り立ちを説明できません。 ポスト構造主義と関連づけられるフーコーは、権力が人を禁止や命令で抑えるだけでなく、人の自己理解も形づくると考えました。 たとえば、学校で評価され続けるうちに、生徒が自らを「優秀な人間」「劣った人間」と捉えるようになる場合です。 こうした批判は、「何を選ぶか」に加え、「選ぶ私や、選択の基準はどうつくられたか」を問う必要があると、主体中心の思想に迫ったのです。 サルトルは、批判の対象となることによっても後世の思想を刺激したのです。 後期の彼自身も、“社会や歴史による制約“を深く検討しました。 「“与えられた状況の中”で、何を選び、他者にどのような責任を負うのか」という問いは、現在にも受け継がれています。

著者あとがき 〜サルトルをフロイトとともに学ぶ意味

フロイトとサルトルの違いは、しばしば「過去を重視する精神分析」と「未来を重視する実存主義」という対比で説明されます。しかし、どちらも、過去の経験が現在の生き方に深く関わることを認めています。違いは、その関わりをどのように理解するかにあります。

フロイトにとって、過去は終わった出来事ではありません。 幼少期の欲望や不安、葛藤、それに対処するための防衛が、本人の気づかないところで現在にも働き続けます。精神分析は、その働きを、現在の感情や行動、人間関係の中に読み取ろうとします。 たとえば、子どもの頃、親に反論すると厳しく叱られた人を考えてみましょう。 大人になった現在も、上司から無理な仕事を頼まれると断れず、疲れ切ってしまう。 本人は「自分は気が弱いだけだ」と考えていますが、その背景には、「反論すれば嫌われる」「相手を怒らせれば関係を失う」という不安があるかもしれません。相手への怒りを自分でも認められず、「うまく対応できない自分が悪い」と、自責に向かう可能性もあります。 治療の場でも、治療者の説明に納得できないのに、同意してしまうことがあります。 その背景に「反対すれば怒られる、見放される」という予想があり、かつての親との関係が重なっているなら、転移として理解できる場合があります。 治療では、現在の治療者の態度も確かめながら、そこで生じた不安や感情を一緒に振り返ります。 こうした検討を通して、本人は、自分が人間関係で何を恐れ、どのように気持ちを抑えてきたのかに気づいていくのです。 サルトルも、幼少期の経験を軽視しません。 ただし、「親に叱られたから、上司に逆らえない」という説明だけでは、その人の生き方を十分には理解できないと考えます。 「この人にとって、断ることは何を意味するのか」「他者との関係で、どのような自分であろうとしているのか」と、さらに問いを進めます。 先ほどの人なら、「誰も失望させない存在でありたい」という方向づけが、仕事だけでなく、友人関係や家庭生活にも表れているかもしれません。頼まれ事を引き受けることは、不安を避ける行動であると同時に、「必要とされる自分」であろうとする生き方の一部とも理解できます。 こうした人生全体を貫く方向づけが、根本的投企に関わります。本人が意識的に決めた方針とは限らず、日々の行動として生きているものです。 この人が変わるとは、単に断り方を覚えることだけではないでしょう。 「相手の期待に応えられなくても、関係を築いてよい」「限界を伝えることも、誠実な関わり方である」と、自分と他者の関係を結び直すことでもあります。 その変化は、誰からも失望されない生き方から、意見の違いや限界を含んだ関係を引き受ける生き方への転換と捉えられます。 過去の事実は変えられません。しかし、その事実が人生の中で占める意味は変わり得ます。 たとえば、試験に落ちた経験を「自分には価値がない証拠」と受け止め、その後の挑戦を避けていた人が、別の仕事に出会い、「自分に合う道を探し始めた契機」と捉えるようになることがあります。 失敗や苦痛を消すのではなく、未来の可能性との関係で、過去の位置づけが変わるのです。 もちろん、これは「考え方を変えれば、何でも乗り越えられる」という話ではありません。 サルトルは後年、家族や階級、時代状況が人の可能性を制約することを詳しく検討しました。 自由は、選べなかった条件を抱えた人間の問題です。 以上の例は、両者の視点の違いを示すためのものです。 フロイトも行動の意味を問い、サルトルも過去の拘束を認めます。 後の臨床家には、両者を対話させる試みもあります。過去が現在に及ぼす力を理解することと、その過去を抱えて未来への関わり方を探ること。その双方に目を向けるところに、二人の思想をともに読む意義があるように思います。

著者雑感

サルトルに触れるたびに、私はいつも、野坂昭如氏が歌っていた「ソ、ソ、ソクラテス」というコマーシャルソングの一節を思い出します。

当時の私にとって、サルトルは「カミュと揉めていた”作家“」くらいの存在でした。ソクラテス、プラトン、ニーチェといった偉大な哲学者たちと並び称される人物だとは、思ってもいなかったのです。それだけに、同じ時代を生きる「現役の”作家“」が、歴史上の偉人たちと肩を並べて歌われていることに驚きました。そして、その驚きが、“ジャン・ポール・サルトル”という人物への、不思議なほど強い関心につながりました。当時は、彼がノーベル文学賞を辞退したことすら知らなかったのです。 その後の研修医時代、20世紀のフランス思想を彩る、綺羅星のような知性たちについて学ぶ機会に恵まれた時に、あらためてサルトルの存在の大きさを知りました。 ボーヴォワールが、親しみを込めて、奔放なサルトルの人となりを描いているのは、人生の伴侶であったことを考えれば自然なことでしょう。しかし、レヴィ=ストロース、メルロ=ポンティ、アロン、カミュ、ニザンらを紹介する書物にも、サルトルは無視できない存在として登場します。友情や共鳴だけでなく、論争や決別を通しても、彼は同時代の知性たちと深く関わっていました。その姿から、当時の思想界における彼の大きな存在感が伝わってきたのです。 今、初めてあの歌を聴いたとしても、当時のように心を動かされることはないかもしれません。同じ言葉や出来事との出会いでも、そのときの自分が何を知り、何に関心を持ち、どのような状況にいるかによって、受け取る意味は大きく変わります。 今回、サルトルについて改めて調べるなかで、あの歌との出会いが、私にとって思いがけない思想への入口になっていたことを感じました。 そして、この原稿を書いている間にも、ふと「ソ、ソ、ソクラテス」と口ずさむ自分がいました。

参考書籍

1.『サルトル 〜「人間」の思想の可能性』 海老坂武 著/岩波新書 哲学者、小説家、社会に発言する知識人という多面的な姿を、生涯と時代背景に重ねて紹介する入門書です。自由や責任という思想が、文学や政治参加とどう結びついたかを見渡せます。個々の概念に取り組む前に、サルトルが何を問い続けた人物なのか、その全体像をつかみたい方におすすめします。最初の一冊に適しています。

2.『実存主義とは何か』 ジャン=ポール・サルトル 著/人文書院 一般向けの講演をもとに、実存主義の核心を説明した代表的な入門的著作です。「実存は本質に先立つ」という考えから、人間は選択と行動によって自分を形成し、その責任を担うと説きます。自由がなぜ不安を伴うのか、個人の選択が他者とどう関わるのかを考えられます。解説書から本人の文章へ進む際の橋渡しとなる一冊です。 3.『嘔吐[新訳]』 ジャン=ポール・サルトル 著、鈴木道彦 訳/人文書院 主人公ロカンタンの日記を通して、日常の事物が突然見慣れないものとなり、存在することの奇妙さが迫ってくる小説です。世界や自分には、あらかじめ保証された存在理由がないという「偶然性」を、感覚的に描きます。抽象的な哲学用語だけではつかみにくい実存の問題を、孤独や違和感、芸術への希望とともに読み取れる代表作です。 4.『極限の思想 サルトル 〜全世界を獲得するために』 熊野純彦 著/講談社選書メチエ 意識のあり方、他者のまなざし、自由と状況など、サルトル哲学の中心問題を掘り下げる解説書です。『存在と無』の議論を軸に、哲学史とのつながりも考えながら理解を深められます。やさしい概説を読んだ後、専門的な議論へ進みたい方に向いています。自由を単なる気ままさと捉えず、人間存在の構造として考える助けになります。 5.『存在と無 〜現象学的存在論の試み』〔全3巻〕 ジャン=ポール・サルトル 著、松浪信三郎 訳/ちくま学芸文庫 自己欺瞞、他者のまなざし、自由、欲望などを精密に論じる哲学上の主著です。実存的精神分析を学ぶうえでは、人の行動を貫く根本的な生き方の選択を探る議論が重要です。難解ですが、入門書と往復しながら読む価値があります。まず自己欺瞞を扱う箇所に親しみ、その後、第4部の実存的精神分析へ進むと問題意識をつかみやすくなります。 6.『方法の問題』 ジャン=ポール・サルトル 著、平井啓之 訳/人文書院〈サルトル全集 第25巻〉 個人の生き方を、家庭環境や階級、歴史との関係からどう理解するかを探る著作です。実存主義とマルクス主義を接続し、人間を社会条件だけにも、内面だけにも還元しない方法を模索します。実存的精神分析への関心を、具体的な人生や社会の理解へ広げたい方に適しています。初期の自由論から、後期の歴史・社会への展開を学べます。