次世代に伝えたい偉人伝 11 ヴィットゲンシュタイン 〜言語で世界を示す条件と限界から、言語ゲームへ
言葉の迷路から、人間の生活へ 〜ヴィットゲンシュタインは哲学をどのように変えたのか
私たちは、言葉を使って世界を理解している。目の前の出来事を説明し、未来を予測し、自分の感情を伝え、他者と約束を交わす。科学も法律も教育も医療も、言葉なしには成立しない。
ところが、言葉は世界を明らかにする道具であると同時に、存在しない問題を作り出すこともある。「心は身体のどこに入っているのか」「時間はどこから流れてくるのか」「人生の意味というものは、どこに存在するのか」。こうした問いは、深遠な哲学的問題に見える。しかし、その難しさの一部は、世界そのものではなく、問いの中で使われている言葉から生じているのかもしれない。
20世紀の哲学者ルートヴィヒ・ヴィットゲンシュタインは、生涯を通じて、言語が世界とどのように結びつき、また、どのように私たちを惑わせるのかを考え続けた。その思想は一般に、『論理哲学論考』を中心とする前期と、『哲学探究』を中心とする後期に分けられる。
前期の彼は、言語が世界を記述できる条件と、その限界を明らかにしようとした。
後期には、言語を単一の論理体系として見る考えを退け、人間の生活に埋め込まれた多様な「言語ゲーム」に注目した。
前期と後期では、言語についての考え方が大きく変化している。しかし、その根底には一つの共通した問いがある。すなわち、哲学的問題に答えようとする前に、その問題を作っている言葉が、どのように働いているかを確かめなければならない、という問いである。
世界は物ではなく、事実から成る
前期ヴィットゲンシュタインの主著『論理哲学論考』は、「世界は、成立している事柄の総体である」という考えから始まる。これは、世界が机、石、人間、星といった「物」の集まりではなく、それらが一定の関係に置かれている「事実」の総体だという意味である。
たとえば、机とコップという二つの物が存在しているだけでは、世界の状態はまだ決まらない。「コップが机の上にある」「コップが机の下に落ちている」「コップが割れている」という関係が成立することによって、世界がどのような状態にあるかが定まる。世界を記述するとは、物の名前を並べることではなく、物がどのような関係にあるかを示すことである。
この考え方に対応して、命題もまた、言葉を一定の関係に配置したものと考えられる。「猫が椅子の上にいる」という命題では、「猫」と「椅子」に対応する言語的要素が、「上にいる」という関係によって結ばれている。現実の猫と椅子が同じ関係にあれば、この命題は真となる。猫が床にいれば、命題は偽となる。
しかし、偽の命題にも意味はある。実際には猫が床にいても、私たちは「猫が椅子の上にいる」という文が、どのような状態を表そうとしているかを理解できるからである。命題が意味を持つとは、常に真であることではない。その命題が、どのような場合に真となり、どのような場合に偽となるかが分かることである。命題は、現実に成立している事実だけでなく、成立する可能性のある事実を描いている。
命題は世界の「像」である
ヴィットゲンシュタインは、命題が世界を表す仕組みを「像」として説明した。これは、命題が現実の写真のように見えるという意味ではない。
たとえば、交通事故を説明するために、模型の自動車や人形を道路図の上へ配置する場面を考えてみよう。模型は実物の自動車や人間と大きさも材質も違う。それでも、模型同士の位置関係が事故現場の位置関係に対応していれば、模型によって事故を“事象として”再現できる。
路線図も同じである。路線図は実際の地形を忠実に描いてはいない。駅と駅の距離も、路線の角度も、現実とは異なることがある。それでも、どの駅がどの路線で結ばれているかという関係が保たれているため、私たちは路線図を使って移動できる。
命題と現実の関係も、これに似ている。 言葉と物が外見上似ている必要はない。命題を構成する要素の関係と、現実を構成する物の関係が対応していればよい。ヴィットゲンシュタインは、この対応を可能にする共通の構造を「論理形式」と考えた。言語と現実が論理形式を共有しているからこそ、命題は世界の可能な状態を描くことができるのである。
したがって、前期ヴィットゲンシュタインは、「言語と現実の形式が異なるために世界の記述が困難になる」、とは考えなかった。反対に、「両者が同じ論理形式を持つからこそ、事実の記述が可能になる」と考えたのである。形式の共有は、言語の失敗の原因ではなく、言語が成功するための条件である。
論理形式は「語られる」のではなく「示される」
ところが、ここに難しい問題が生じる。命題と現実が論理形式を共有しているとして、その論理形式自体を言葉で説明することはできるのだろうか。
交通事故の模型は、模型の配置によって事故の構造を示す。しかし、模型が事故を表せるための対応関係を、模型の内部にもう一台の模型として置くことはできない。同じように、言語と世界の関係を説明する命題も、すでに言語の論理形式を使用しなければならない。
“私たちは言語の外側へ出て、言語と世界をともに外部から眺めることができないのである。”(著者注参照:コラム最下段に記載)
そこでヴィットゲンシュタインは、「語られること」と「示されること」を区別した。 「猫が椅子の上にいる」という事実は語ることができる。しかし、その命題がどのように現実を表現できるのかという論理形式は、別の事実として語られるのではない。命題が実際に意味を持つこと、そのものの中に示されている。
将棋を例にしてもよい。将棋の一局を指しているとき、棋士の手は一つずつ記録できる。しかし、すべての指し手を可能にしている規則は、盤上にもう一個の駒として置かれているわけではない。規則は、それぞれの駒が正しい仕方で動かされ、反則と合法手が区別されることの中に現れている。
論理形式も、世界内の一個の物ではなく、命題が意味を持つための条件なのである。
倫理や人生の意味は、なぜ事実命題にならないのか
前期ヴィットゲンシュタインの枠組みでは、意味のある命題は、世界がどのような状態にあるかを表す。その典型が自然科学の命題である。「水は一気圧のもとで約100度になると沸騰する」「この薬を投与した群では症状評価尺度が平均して低下した」といった命題は、観察や実験によって真偽を調べることができる。
では、倫理、価値、人生の意味についても、同じ形式で語れるのだろうか。 重い病気を告知された人を考えてみよう。検査値、画像所見、治療の奏効率、予測される生存期間は、医学的事実として記述できる。しかし、「残された時間をどのように生きるべきか」「家族に何を伝えるべきか」「苦痛を伴っても延命治療を続けるべきか」という問いは、医学的事実をいくら集めても、それだけでは答えが出ない。事実は判断に不可欠だが、事実の一覧から生き方の答えが自動的に導かれるわけではない。
ある人が道に落ちていた財布を拾い、警察へ届けたとする。「財布には現金が入っていた」「持ち主の名前が書かれていた」「その人は警察署へ行った」ということは事実として記述できる。しかし、その行為の誠実さは、財布や現金と同じような物体として世界の中に置かれているわけではない。その人が損得よりも他者への責任を優先したことによって、誠実さが行為の中に現れる。
ヴィットゲンシュタインが倫理を「語り得ないもの」としたのは、倫理が無価値だと考えたからではない。むしろ、絶対的な価値や人生の意味は、世界内の個別的事実として表せないほど根本的なものだと考えたのである。倫理は「世界の中に何があるか」だけでなく、「世界全体をどのように受け取り、どのように生きるか」に関係すると考えたのである。
これは、倫理について話し合うことが無駄だという意味でもありません。 私たちは行為の理由を説明し、他者の立場を想像し、価値判断について議論できる。ただし、その議論を自然科学とまったく同じ種類の事実記述へ還元することはできないのです。倫理は、言葉だけで完結する理論というより、最終的には選択、態度、生き方の中に「示される」のである。
『論理哲学論考』の最後に置かれた「語り得ないことについては、沈黙しなければならない」という言葉は、重要なことを考えるなという命令ではない。それは、科学的に記述できる事実と、事実の記述だけでは捉えきれない価値とを混同しないための沈黙である。
言語は世界を記述するためだけにあるのではない
ところが、後期ヴィットゲンシュタインは、前期の言語観そのものを見直していく。前期では、言語の基本的役割は世界の事実を描くことだと考えられていた。しかし、私たちが日常で言葉を使う場面を観察すると、事実の記述は言語の働きの一部にすぎないと考えたのだ。
「窓を閉めてください」は、世界の状態を報告する命題ではなく依頼である。「約束します」は、心の中にある状態を説明する言葉ではなく、その言葉を発すること自体によって約束を成立させる。
「痛い」という叫びは、身体内部の状態を冷静に観察した報告である以前に、苦痛の表出であり、援助を求める行為でもある。
「おめでとう」「ごめんなさい」「いただきます」も、事実の真偽を伝えるためだけの文ではない。
言葉は、報告し、命令し、質問し、祈り、冗談を言い、感謝し、謝罪し、計算し、物語を作るために使われる。ヴィットゲンシュタインは、こうした言葉と活動のまとまりを「言語ゲーム」と呼んだ。「ゲーム」といっても、言葉が遊びにすぎないという意味ではない。それぞれの活動に一定の規則があり、人間の生活の中で具体的な役割を果たしているという意味である。
同じ言葉でも、ゲームが変われば働きが変わる
たとえば「信じる」という言葉を考えてみよう。
- 「明日は雨が降ると信じる」と言うときには、天気予報や雲の状態を根拠にしており、翌日になれば予測が当たったかどうかを確認できる。
- 「友人の無実を信じる」には、その人物との長い関係や信頼が関係する。
- 「神を信じる」は、出来事の発生確率についての予測だけではなく、その人の祈り、倫理、生き方全体に結びついている。
これらは同じ「信じる」という言葉を使っていても、根拠の示し方、疑い方、確かめ方が同じではない。
宗教的信仰に、翌日の天気予報とまったく同じ検証方法を要求すれば、その言葉が本来働いている場面を見失う。反対に、治療法の有効性を「私は信じている」という個人的確信だけで正当化すれば、科学的検証の言語ゲームを損なう。問題は言語の多様性そのものではなく、異なる言語ゲームの規則を混同することにある。
「正常」という言葉も同様である。検査値についての「正常範囲」、多数派を示す統計的な「正常」、社会的規範に適合するという意味の「正常」、本人が苦痛を感じていないという臨床的な意味の「正常」は、同一ではない。統計的に少数であることを、そのまま病気や道徳的逸脱とみなせば、異なる言語ゲームを混同することになる。
言葉が「休暇に出る」とき
後期ヴィットゲンシュタインによれば、哲学的混乱は、言葉が本来の生活場面から切り離され、空回りするときに生じる。彼はこれを、言葉が「休暇に出る」と表現した。
たとえば、机や本については「それはどこにあるのか」と問うことができる。そこで同じ問い方を「心」に適用し、「心は身体のどこに入っているのか」と考えると、心を物体と同じ種類のものとして扱うことになる。もちろん、「恐怖に関連して扁桃体や島皮質がどのように活動するか」という問いは、神経科学的な研究課題として意味を持つ。しかし、脳活動の場所を特定することと、「恐怖」や「心」という物体を脳内で発見することは同じではない。
「時間が流れる」という表現も、日常では十分に役立つ。しかし、そこから「時間はどの方向から流れてくる物質なのか」と問えば、比喩を物理的事実と取り違えることになる。「意味は言葉の中のどこに入っているのか」という問いも、意味を小さな物体のように扱ったところから生じている。
哲学の仕事は、このような問いに新しい対象を発見して答えることではない。言葉が本来どのように使われているかを確認し、問いを生み出していた文法上の混乱を明らかにすることである。
「痛み」は私だけの秘密の対象か
「痛み」という言葉は、後期思想を理解するための好例である。私の痛みを他人が直接感じることはできない。そこで、「痛み」という語は、本人だけが観察できる内的対象の名前だと考えたくなる。 確かに、痛みそのものは、本人にしか直接経験できない。しかし、「痛い」という言葉は、本人が心の中を観察して、秘密の感覚に名前を付けることによって成立したのではない。
しかし、子どもは、自分の内面を観察して痛みに名前を付けるのではない。 転んで泣き、傷口を押さえ、大人から「痛かったね」と声をかけられる中で、「痛い」という言葉を学ぶ。痛みの言葉は、泣く、顔をしかめる、患部をかばうといった自然な表出と、他者が心配し援助する生活の中に組み込まれている。 「私は痛い」は、多くの場合、自分の内部について立てた仮説ではなく、苦痛を直接表す言葉である。 一方、「彼は痛がっている」は、他者の表情、発言、行動、状況に基づく判断である。
ヴィットゲンシュタインは、内的経験を否定したのではない。批判したのは、心理的な言葉の意味を、本人だけが確認できる秘密の対象だけによって説明する考えである。意味が成立するためには、正しい使用と誤った使用を区別できる規則が必要であり、その規則は教育、反復、訂正可能な共同的実践に支えられている。
哲学は問題を解決しないのか
後期ヴィットゲンシュタインの方法は、科学的・社会的問題を直接解決するものではない。 感染症の原因は実験や観察によって調べなければならず、貧困や差別は制度や権力関係を変えなければ改善しない。言葉の使い方を分析するだけで、新しい薬が開発されたり、社会的不平等が消えたりするわけではない。
しかし、問題そのものが言葉の混乱から作られている場合には、その混乱が消えることが解決となる。 「意味という物体は言葉のどこにあるのか」という問いに対しては、意味の所在地を発見する必要はない。意味が言葉の使用の中にあると理解すれば、探していた対象について答えが得られるのではなく、そのような対象を探す必要そのものがなくなる。
この意味で、ヴィットゲンシュタインは哲学を「治療」にたとえた。 哲学者は、すべてを説明する新しい理論を作るのではなく、私たちが言葉によって作った迷路から抜け出す道を示す。哲学的問題の解決とは、必ずしも正解となる命題を一つ得ることではない。問いを支配していた言葉の像が見え、その問いに囚われなくなることも、一つの解決なのである。
ただし、ここから「すべての問題は言葉の問題である」と結論してはならない。 現実の苦痛、病気、暴力、不平等は、言い換えだけでは消えない。ヴィットゲンシュタインの方法が教えるのは、現実の問題に取り組む前に、何を問題と呼び、どのような基準で解決を判断しているかを明確にする必要がある、ということである。
次世代に伝えたい、言葉に対する二つの慎重さ
【1】前期思想から:言語の力と限界を知る
言語と現実が論理形式を共有するため、私たちは事実を記述し、科学を築き、他者と知識を共有できる。 しかし、論理形式そのもの、絶対的価値、人生全体の意味を、世界内の一事実と同じ方法で語ることはできない。何でも科学的事実へ翻訳できると考えれば、倫理や生の意味が持つ次元を見失う。
【2】後期思想から:言葉に単一の働きを求めない
報告、命令、約束、祈り、苦痛の表出、科学的検証は、それぞれ異なる言語ゲームに属する。その違いは言語の欠陥ではなく、人間の生活が多様であることの表れである。必要なのは、すべてを一つの形式へ統一することではなく、ある言葉が、誰によって、どの場面で、何をするために使われているかを見ることである。
現代では、同じ言葉が学問、政治、医療、宗教、SNSなどを瞬時に行き来する。「自由」「正常」「科学的」「信じる」「差別」といった語は、文脈が変われば役割も変わる。その違いを無視して議論すれば、互いに同じ言葉を使いながら、実際には異なる問題を話していることになる。言葉の意味を辞書だけで決めず、その使用場面を確かめる習慣は、他者を理解し、不要な対立を減らすためにも重要である。
ヴィットゲンシュタインは、世界の謎に対する最終回答を残した哲学者ではない。むしろ、私たちが答えを急ぐ前に、問いを作っている言葉を見直すよう求めた。事実として語れるものは、できる限り正確に語る。しかし、事実の言語だけでは捉えきれない価値を、無理に事実へ還元しない。そして、言葉の使い方が異なるときには、一方の規則を他方へ押しつけない。
言語の限界を知ることは、思考を諦めることではない。それは、自分の言葉がどこまで届き、どこから先では別の理解の仕方が必要になるかを知ることである。 語るべきことを明瞭に語り、語り尽くせないものに対しては、それが生き方や態度の中にどのように示されているかを見る。この慎重さこそ、ヴィットゲンシュタインから次世代へ伝えたい、言語と人間を理解するための基本姿勢なのである。
参考書籍
最初に読む本として最も推薦します。生涯と思想を紹介しながら、前期から後期への変化を、単純な「思想の転向」としてではなく、「像」という概念の変化を軸に連続的に説明しています。写像理論、言語ゲーム、規則、私的言語などの基本概念を、日常的な例から理解できます。
前期ヴィットゲンシュタインの主著です。「世界は事実の総体である」「命題は世界の像である」「語ることと示すこと」といった思想が、番号を付した短い命題によって展開されます。 極度に凝縮されているため、単独で完全に理解するのは困難です。まず全体を通読し、分からない箇所が残ったままでも、次の野矢茂樹の解説書へ進むのがよいでしょう。ラッセルの解説、訳注、論理記号の説明も収録されています。
後期ヴィットゲンシュタインの中心的著作です。意味とは使用である、言語ゲーム、家族的類似、規則に従うこと、私的言語、痛み、アスペクト知覚などが、具体例と問いかけによって考察されます。 体系的な教科書ではなく、読者の思考を揺さぶる短い考察の集積です。最初から完全に理解しようとせず、「意味」「規則」「痛み」など、関心のある主題を往復しながら読むのが適しています。
最晩年の思索を伝える遺稿です。「透明な白は可能か」「赤みを帯びた緑はあり得るか」「全員が色盲の民族を想像できるか」など、色彩に関する具体的な問いを通じて、概念の文法を調べています。 色覚の生理学を説明する本ではありません。「赤」「白」「透明」といった言葉が、どのような規則のもとで使われているかを明らかにする本です。『哲学探究』で示された方法が、実際の問題へどのように応用されるかを見るのに適しています。
『論理哲学論考』を理解するための最も有用な日本語解説書の一つです。対象、事態、要素命題、論理形式、独我論、死、幸福、語り得ないものなどを、原典の構造に沿って丁寧に読み解きます。 『論考』を考えながら読むための案内役として利用するのが適切です。『論理哲学論考』と並行して読むことをお勧めします。
前期・中期・後期・最晩年を一冊で見渡す、より本格的な総合案内書です。『論理哲学論考』『哲学探究』だけでなく、講義録や膨大な遺稿にも立ち入り、ヴィットゲンシュタインの思想と独特な著述方法を、生涯と関連づけて説明しています。 略年譜、主要著作の解説、キーワード解説、読書案内も備えているため、前述原典三冊を読んだ後の知識を整理するのに適しています。
(著者注):「言語の外側へ出る」とは何か
ここでいう「私たちは言語の外側へ出て、言語と世界をともに外部から眺めることができない」とは、言語について何も説明できないという意味ではない。 私たちは、語の意味、文法、記号の用法、命題の真偽を確かめる方法について、いくらでも説明できる。問題となるのは、「言語が世界を表現できるための最も根本的な条件を、世界内にあるもう一つの事実や物体と同じ仕方で表せるか」、ということである。
交通事故を模型で再現する場面を考えてみよう。 現実には、赤い自動車Aが、青い自動車Bの左側から衝突したとする。道路図の上に赤と青の模型を置き、赤い模型を青い模型の左側に配置すれば、模型によって事故を表現できる。模型は実物とは大きさも材質も異なるが、模型同士の位置関係が、現実の自動車同士の位置関係に対応しているからである。表現に必要なのは外見上の類似ではなく、要素と要素の関係構造の対応である。
このとき模型の中には、二台の模型や道路図が置かれている。しかし、「赤い模型は自動車Aを表す」という対応関係自体が、第三の部品として置かれているわけではない。もちろん、模型の横に「赤い模型=自動車A」という説明札を置くことはできる。 しかし、その説明札を理解するには、「赤い模型」という言葉が模型を指し、「自動車A」という言葉が現実の車を指すことを、すでに理解していなければならない。説明札は対応関係を説明する一方で、それ自身も新たな言葉と対象との対応関係を前提としている。
では、その対応を説明するため、さらに小さな模型や別の説明札を加えればよいのだろうか。 そうすると今度は、その小さな模型や説明札が何を表すのかを説明しなければならない。模型を説明する模型、その模型を説明する模型というように説明を重ねれば、無限後退に陥る。 したがって最終的には、対応関係をもう一つの対象として追加するのではなく、赤い模型が自動車Aの代わりとして用いられ、その配置が事故の再現として理解されているという、模型の実際の働きへ戻らなければならない。 模型と現実の対応は、模型が表現として機能することの中に示されるのみなのである。
前期ヴィットゲンシュタインは、言語の命題もこの模型と同じように働くと考えた。 「自動車Aが自動車Bの左側から衝突した」という命題では、「自動車A」「自動車B」「左側」「衝突した」という言語的要素が一定の関係に配置されている。現実でも、二台の自動車、位置、衝突という要素が一定の関係を作っている。命題の要素関係と現実の事物関係が対応しているため、命題は事故を記述できる。この両者に共通する構造が「論理形式」である。
命題が偽であっても意味を持つのは、このためである。 実際には自動車Aが右側から衝突していたとしても、「左側から衝突した」という命題が描く状況を、私たちは理解できる。命題が意味を持つとは、常に真であることではなく、それがどのような場合に真となり、どのような場合に偽となるかが定まっていることである。命題は、現実に成立した事実だけでなく、成立し得る事実の一つの像となる。
ところが、「言語と世界は共通の論理形式を持つ」と説明する文も、それ自体が一つの命題である。この文も、「言語」「世界」「論理形式」といった語を一定の論理的関係に配置することで意味を持つ。 つまり、論理形式を説明しようとする命題も、すでに論理形式を使用している。私たちは言語について言語で考えることはできるが、あらゆる言語の働きを停止した場所に立ち、言語と世界を二つの物体のように並べて眺めることはできない。
ここから、ヴィットゲンシュタインの「語ること」と「示すこと」の区別が導かれる。 「自動車Aが左側から衝突した」という事実は、命題によって語ることができ、現実と比較して真偽を確かめられる。 一方、その命題が現実を表現できるための論理形式は、世界内のもう一つの事実として語られるのではない。命題が実際に意味を持ち、真または偽となり得ることの中に示されている。
したがって、「論理形式は語れず、示される」とは、それが曖昧で理解不能だという意味ではない。論理形式は、私たちがまだ発見していない隠れた対象ではなく、何かを意味のある命題として語ることを、そもそも可能にしている条件である。 しかし、私たちは、その仕組みを使うことによって初めて世界について語ることができる。そのため、その仕組み全体を言語から切り離し、外側から眺めて説明することはできないのである。
