次世代に伝えたい偉人伝⑩:ピエール・ブルデュー 〜教育による、階級の再生産と『ディスタンクシオン
(区別)』
次世代に伝えたい偉人伝⑩:ピエール・ブルデュー 〜教育による、階級の再生産と『ディスタンクシオン(区別)』
新しく見えない階級制度 〜社会学の視点から考える“現代の教育”
私たちは普段、自分の人生を自分で選んでいると考えています。どんな服を着るか、何を食べるか、どんな音楽を聴くか、大学へ進学するか、どんな職業を選ぶか。もちろん、そこには本人の意志があります。しかし、本当にすべてを自由に選んでいるのでしょうか。 例えば、クラシック音楽を好むこと、現代美術を面白いと感じること、ワインの産地やヴィンテージに関心を持つことは、一見すると純粋に個人的な「趣味」に見えます。しかし、なぜある人にはそれが自然で、別の人には縁遠いものに感じられるのでしょうか。
この「自然に感じられる」という部分に注目したのが、20世紀後半を代表するフランスの社会学者ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu, 1930–2002)です。
ブルデューが生涯を通して追究したのは、社会の構造がどのように人間の内面に入り込み、その人自身の「好み」「常識」「能力」「選択」として現れるのかという問題でした。それは同時に、近代社会において、なぜ社会的不平等が暴力的な強制なしに世代から世代へと再生産されるのか、という問いでもありました。
「自由な主体」と「社会構造」の間で
ブルデューは1930年、フランス南西部の比較的質素な家庭に生まれ、パリの高等師範学校で哲学を学びました。その後アルジェリアに渡り、現地社会の調査を行ったことを契機として社会学へ転じます。やがてフランス社会そのものを研究対象とし、教育、階級、芸術、文学、大学、国家、メディアなど幅広い領域を研究しました。1981年にはコレージュ・ド・フランス教授となり、フランス社会学を代表する存在となります。
彼が登場した20世紀フランス思想には、大きな対立がありました。 一方にはサルトルに代表される、「人間は自ら選択し、行動する主体である」(実存主義)という考えがあります。 他方ではレヴィ=ストロースらの構造主義が、個人の意識を超えて働く言語・文化・社会の構造を明らかにしようとしていました。
しかし、人間を完全に自由な主体と考えると、社会階級や教育、経済条件などの影響を軽視してしまいます。逆に人間を構造によって決定される存在と考えれば、個人の工夫や選択、社会変化を説明することが難しくなります。 ブルデューは、この二者択一を乗り越えようとしました。
人間は社会によって完全に決定されているわけではない。しかし、何の制約もなく自由に選択しているわけでもない。この中間を説明するために彼が提示した重要な概念が「ハビトゥス」です。
社会が身体の中に入る 〜ハビトゥス
ハビトゥス(habitus)とは、家庭、学校、友人関係、職業、社会階層などの中で長期間生活することによって形成される、ものの見方、感じ方、考え方、振る舞い方の傾向です。
例えば、レストランで料理を選ぶとき、私たちは毎回自分の社会階層を計算して注文しているわけではありません。「今日はこれが食べたい」と自然に感じます。しかし、何を美味しいと感じ、どのくらいの価格を普通と考え、店員にどう話しかけるかといったことまで含めて、長い生活経験によって形成されています。
進路選択についても同様です。ある家庭に育った子どもにとっては「大学へ進学する」「医師になる」「研究者になる」ことが当然の選択肢として見えるかもしれません。一方、別の環境に育った子どもには、それらが能力以前に「自分とは関係のない世界」に見えることがあります。 誰かに禁止されたわけではありません。それでも選択肢として浮かんでこない。
社会構造は、外側から人間を押さえつけるだけではありません。「自分に何ができそうか」「何が自分らしいか」という感覚となって、人間の内部に入り込んでいるのです。
ただしハビトゥスは、コンピュータープログラムのように行動を一つに決定するものではありません。むしろ、ある状況に出会ったときに「自然にこうする」と感じさせる、身についた傾向です。そのため人間には即興や選択の余地があります。 この考えによってブルデューは、「構造に操られる人間」と「完全に自由な人間」の間をつなごうとしました。
お金だけではない 〜さまざまな「資本」
ブルデューの第二の重要な概念が「資本」です。 マルクスが主として経済的な資本に注目したのに対し、ブルデューは、人間の社会的位置を決める資源はお金だけではないと考えました。
財産や所得は「経済資本」です。 それに加えて、知識、学歴、言語能力、芸術への親しみなどの「文化資本」、人脈や社会的ネットワークという「社会関係資本」があります。 さらに、社会から正統な価値を持つものとして認められれば、名声、権威、肩書などの「象徴資本」として働きます。厳密には象徴資本は独立した資本というより、さまざまな資本が社会的に承認され、権威を獲得した状態と考えた方がよいでしょう。
そして、これらの資本は相互に変換できます。 裕福な家庭が子どもに良質な教育を提供すれば、経済資本を文化資本へ変換できます。 その子どもが高い学歴を取得すれば、文化資本は学位という制度的資格になり、将来の職業や所得へと再び変換されます。 また有力な人々とのネットワークは、新しい職業機会を生み出すかもしれません。
こう考えると、社会的不平等は単なる所得格差よりはるかに複雑です。
社会というゲーム 〜「界」
第三の重要概念が「界(field)」です。
ブルデューは社会を、単純な一本の上下関係として考えませんでした。社会の中には、経済界、政治界、学問界、芸術界、文学界、ジャーナリズム界など、それぞれ比較的独自のルールを持った「ゲームの場」が存在すると考えます。 そして、その界によって価値の高い資本が異なります。
企業経営者の世界で大きな意味を持つ経済資本が、純粋数学の研究者の世界でそのまま最高の評価につながるわけではありません。数学の世界では、優れた論文や理論的業績の方が大きな象徴資本になります。
したがって、人間の行為を理解するには、「その人がどのようなハビトゥスを身につけ」「どんな資本を持ち」「どの界にいるのか」を同時に考える必要があります。
この三つが、ブルデュー社会学の基本骨格です。
『ディスタンクシオン』 〜「趣味」はどこから来るのか
この理論が最も鮮やかに展開されたのが、1979年の代表作『ディスタンクシオン 〜社会的判断力批判』です。
ブルデューはフランス社会における音楽、美術、食事、服装、家具、スポーツなどを調査し、人々の趣味が職業、学歴、所得、家庭環境などと体系的に関連していることを示しました。 私たちは普通、「モーツァルトが好き」「現代美術が好き」「この料理が美味しい」といった判断を、自分自身の個人的感性だと思っています。しかしブルデューは、「何を美しいと感じるのか」という感性そのものが社会的に形成されていると考えました。
ここで重要なのが「必要性からの距離」です。 生活上の経済的制約が強ければ、食事では「量が十分ある」「腹持ちがよい」、衣服では「丈夫で実用的」といった価値が重視されやすくなります。ブルデューはこれを「必要性の趣味」として分析しました。 それに対して経済的・時間的余裕があれば、「役には立たないが美しい」「量は少ないが洗練されている」「分かりにくいが芸術的である」といった評価が可能になります。 これは、どちらの趣味が優れているという話ではありません。どのような生活条件を経験してきたかによって、「自然に良いと思えるもの」が異なってくるということです。
そして、ここから「ディスタンクシオン」という現象が生まれます。 フランス語の distinction には「区別」だけでなく、「卓越」「上品さ」という意味もあります。
ある人が「この音楽は洗練されている」「この絵は芸術的だ」と対象を分類するとき、その人自身もまた、「それを理解できる教養のある人」として社会的に分類されます。 つまり、趣味は物を区別すると同時に、人間を区別するのです。 文化的な違いが、「教養がある/ない」「上品/下品」「洗練/野暮」といった社会的序列へ変換される。
『ディスタンクシオン』が単なる趣味の研究ではなく、権力と階級の研究である理由はここにあります。
学校は格差をなくすのか 〜『遺産相続者たち』
この問題は、ブルデューの教育社会学と直結します。
ジャン=クロード・パスロンとの共著『遺産相続者たち』(1964)で、ブルデューは家庭から子どもへ受け継がれるのは経済的財産だけではないことを示しました。 本を読む習慣、豊富な語彙、抽象的な話題について話す能力、文学・音楽・芸術への親しみ、教師との話し方、大学という場所に対する心理的な近さなども、家庭から継承されます。 これが文化資本です。
文化資本の特に興味深いところは、その「相続」が見えにくいことです。 財産を相続すれば、自分が親から財産を受け取ったことは分かります。しかし幼いころから本に囲まれ、親との会話を通して高度な語彙を身につけた人は、それを「相続した財産」とは感じません。 「自分は昔から読書が好きだった」 「文章を書くのが得意だった」 「勉強が好きだった」 と感じます。
社会的な財産が、本人の性格や才能のような形をとっているのです。
『再生産』 〜文化の差が「能力の差」になる
1970年の『再生産』では、この問題がさらに理論化されます。
近代の学校は、原則としてすべての生徒を同じ基準で評価します。これは身分によって進路が決定される社会と比べれば、大きな進歩です。 しかし、ここに逆説があります。 同じ試験を受けさせることが、本当に同じ条件で競争させることになるのでしょうか。 学校が評価する語彙、文章表現、抽象的思考、芸術的知識、教師とのコミュニケーションなどを、家庭生活を通じてすでに身につけている子どもがいます。一方、それらを学校に入ってから初めて学ばなければならない子どももいます。 学校が全員を同じ基準で公平に評価したとしても、出発点が同じとは限りません。
すると、 家庭の社会的位置から文化資本を受け継ぐ。 それが学校で高く評価される。 高い成績や学歴を得る。 その学歴によって有利な社会的位置を獲得する。 そして次の世代に経済資本や文化資本を受け渡す。 という循環が成立します。
重要なのは、学校が意図的に上位階層を優遇しているとブルデューが主張したわけではないことです。 むしろ教師が誠実に「能力だけ」を評価している場合にも、家庭から受け継がれた文化資本の一部が本人固有の能力として評価される可能性があります。
ここにブルデューのいう「象徴的暴力」の問題が現れます。
「象徴的暴力」とメリトクラシー
象徴的暴力とは、殴る、脅す、命令するといった直接的暴力ではありません。ある社会で作られた価値基準が、あたかも自然で普遍的な基準であるかのように受け入れられることによって生じる、目に見えにくい支配です。
学校で成功した人は、「努力して実力で成功した」と考えます。一方、失敗した人は「自分には才能がなかった」と考えるかもしれません。 もちろん、努力や能力の差は現実に存在します。ブルデューはそれを否定しているわけではありません。 彼が問いかけているのは、その「努力できる条件」や「能力を伸ばせる条件」まで、本当に平等だったのかということです。
さらに重要なのは、「自分には大学は無理だ」「医師や研究者になるのは自分とは違う人たちだ」と、本人自身があらかじめ可能性を狭めてしまう場合です。制度上は禁止されていなくても、ハビトゥスによって「自分の進む道ではない」と感じることがあります。 このようにして客観的な社会格差が、主観的な「向いている/向いていない」という感覚へ変換されます。
近代社会では身分によって人生を決めることは正当化されません。その代わり、「能力と努力による選抜」が正当なものとされます。ブルデューが明らかにしたのは、このメリトクラシーが社会的流動性を生み出す一方で、既存の格差を「正当な能力差」に変換してしまう危険も持つという逆説でした。
『国家貴族』と『ホモ・アカデミクス』
この教育社会学をさらに発展させたのが『国家貴族』(1989)です。 ブルデューはフランスのグランゼコールなどのエリート教育機関を分析し、近代国家が試験と学歴によってエリートを選抜する仕組みを研究しました。
前近代社会では「貴族の子だから支配者になる」という原理が存在しました。近代社会では、それに代わって「難しい試験に合格し、一流校を卒業したから重要な地位につく」という原理が成立します。 後者は明らかに前者より公平です。しかし、その競争に必要な文化資本の獲得機会が家庭によって異なっていれば、社会階層の再生産は別の形で続くことになります。こうして世襲的な「血統」に代わり、学歴によって正当化された新しいエリートが形成される可能性を、ブルデューは「国家貴族」という刺激的な言葉で表現しました。
さらに『ホモ・アカデミクス』(1984)では、大学そのものを分析対象にしました。
大学教授も社会の外側に立つ純粋な観察者ではありません。大学という「界」の中で、教授職、所属大学、論文、学会での地位、人脈、学問的名声など、さまざまな資本をめぐって活動しています。 だから研究者は、社会を分析すると同時に、「分析している自分自身はどの位置から世界を見ているのか」を検討しなければならない。 ここからブルデューの「反省的社会学」が生まれます。
ブルデューは何を社会学にもたらしたのか
ブルデューの大きな功績は、マルクス、ウェーバー、構造主義、実存主義などが扱ってきた問題を、具体的な日常生活の次元で結びつけたところにあります。
マルクスからは資本と階級の問題を引き継ぎながら、資本を経済だけでなく文化や人間関係へ広げました。 ウェーバーが扱った権威や正統性の問題は、象徴資本や象徴的暴力へとつながります。 レヴィ=ストロースらの構造主義からは、人間の意識の背後にある構造を重視する姿勢を受け継ぎながら、ハビトゥスによって具体的な人間の実践を取り戻そうとしました。
フーコーとの比較も興味深いものです。 フーコーが「何が正常とされ、何が真理とされるのか」という知と権力の関係を分析したとすれば、ブルデューは「何を上品と感じ、何を知的と感じ、何を自分にふさわしいと思うのか」という日常的な感覚の中に社会的権力が入り込む過程を分析した、と考えることができます。
しかもブルデューは、これを哲学的思弁だけで論じませんでした。アルジェリアでの民族誌的調査から、フランス社会における大規模質問紙調査、インタビュー、統計解析まで、さまざまな実証的方法を組み合わせています。壮大な社会理論と具体的な社会調査を結びつけたことも、彼の重要な業績です。
ブルデューの限界
もちろん、ブルデューの理論にも批判があります。
第一に、20世紀フランス社会を中心として作られた理論を、文化も教育制度も異なる他国へそのまま適用できるわけではありません。 第二に、社会階層と趣味との対応を強調しすぎており、個人の創造性や階層を越えた文化交流を過小評価しているという批判があります。 第三に、教育による「再生産」を強調するため、社会移動や教育による格差是正、ハビトゥスそのものの変化を十分説明できないのではないかという問題もあります。
したがって、ブルデューを「すべては階級によって決まっている」と読むのは適切ではありません。 彼の価値は、私たちが純粋に個人的だと思っている選択について、その選択を可能にした社会的条件をもう一度問い直すための視点を提供したところにあります。
「努力」を否定するのではなく、「努力できる条件」を考える
ブルデューの教育社会学は、ともすると「恵まれた家庭に生まれた者が成功するだけだ」という悲観的な思想に見えるかもしれません。しかし、そこに彼の本当の意義があるわけではありません。
ある学生が長時間勉強して難関大学に合格したなら、その努力は現実のものです。ブルデューはその努力を否定しません。 ただ、その一歩手前で問いを立てます。 「なぜ、その人は長期間努力することができたのか」 「なぜ、その進路が自分にも可能だと思えたのか」 「誰が学習方法を教えてくれたのか」 「失敗しても再挑戦できる環境があったのか」 「その能力を学校が評価する価値ある能力として認めたのはなぜか」 ここまで考えて初めて、「能力と努力」という言葉を社会的文脈の中に置くことができます。
そしてこれは教育者にとって重要な問いでもあります。 教育の役割を、全員に同じものを与える「形式的平等」にとどめるのか。それとも、それぞれが異なる文化資本や社会的条件を背負って教室に入ってくることを理解したうえで、それまで獲得する機会のなかった知識、言語、経験、そして「自分にもできる」という可能性感覚を提供するのか。 後者まで含めて考えるなら、ブルデューの理論は教育を否定する思想ではありません。むしろ教育が本当に社会的不平等を縮小するためには何が必要なのかを問い直す思想になります。 私たちは、自分の人生を完全に自由に作っているわけではありません。しかし、社会構造によって完全に決められているわけでもありません。
自分の「好み」「常識」「能力」「自分らしさ」の中に、これまで生きてきた社会の痕跡があることを知る。そのうえで、自分が当然と思ってきた価値を一度相対化し、自分にも他者にも別の可能性があり得たことを想像する。
ブルデューが残した最も重要な遺産は、まさにこの視点ではないでしょうか。 彼の社会学は、私たちに「あなたの選択は社会によって決められている」と告げるためのものではありません。 むしろ、 「あなたが自由に選んでいるその選択肢は、どのようにしてあなたの前に現れるようになったのか」 と問いかける社会学なのです。
著者あとがき 〜ブルデューを現代日本で読むために
ブルデューの教育社会学は、現代社会を考えるうえでも非常に魅力的な理論です。しかし注意しなければならないのは、彼が主として分析したのが20世紀後半のフランス社会であり、その議論をそのまま現代日本へ移植することはできないという点です。
当時のフランスでは、グランゼコールやENAなどの少数のエリート教育機関が、上級官僚をはじめとする国家エリートの形成と強く結びついていました。ブルデューのいう「国家貴族」は、こうした当時フランス固有の制度的背景の中で理解する必要があります。(ENAは2022年に廃止され、現在はINSP(国立公務学院)に移行し、従来の卒業順位によってその後のキャリアが大きく決まる仕組みも廃止されました。)
これに対して現代日本では、東京大学が大きな象徴資本を持っていることは間違いありませんが、東大卒業が上級官僚や政治家、企業経営者への地位を直接保証するわけではありません。官僚、企業、政治、医学、法曹、学問などにはそれぞれ異なる選抜経路があり、京都大学、早稲田、慶應をはじめ多数の大学がエリート形成に関与しています。したがって、少数の教育機関を頂点として国家エリートが集中的に再生産されるという旧フランス型モデルを、そのまま日本社会に当てはめるのは適切ではありません。
しかし、だからといってブルデューが日本では役に立たないわけではありません。注目すべきなのは、より見えにくい形で存在する文化資本や社会関係資本です。家庭の経済力、親の学歴、幼少期からの読書経験、塾や中学受験を利用できる環境、進学に関する情報、そして「自分も難関大学へ進める」と自然に思える感覚などは、子どもの進路に影響します。形式的には同じ入学試験を受けていても、そこへ到達するまでの条件まで同じとは限りません。
日本については、「一つの教育エリートによる支配」ではなく、さまざまな「界」に文化資本、経済資本、社会関係資本が分散し、それぞれ異なった形で次世代へ受け渡される「分散型の再生産」と考える方が実態に近いでしょう。
ブルデューの理論を学ぶ意味は、フランス社会についての結論を普遍的法則として受け入れることではありません。重要なのは、彼が残した「本人の能力や努力に見えているものの背後に、どのような社会的条件が存在するのか」という問いです。 ブルデューを現代日本に当てはめるのではなく、ブルデューの問いを使って現代日本を改めて観察する。そのような距離の取り方こそ、彼の社会学を現在に生かす最も建設的な方法だと思います。
参考書籍
- 岸政彦『100分de名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』』NHK出版 最も平易な入門書。まず「趣味・階級・ハビトゥス・文化資本」の関係を直感的につかむのに適しています。
- 石井洋二郎『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』藤原書店 岸の本から一段深く入り、ブルデューの主要概念を体系的に理解するための優れた橋渡しです。
- ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン 〜社会的判断力批判』藤原書店 ブルデューの代表作。「個人的な趣味」が実は社会的位置と深く結びついていることを、大規模な実証研究から明らかにします。
- ピエール・ブルデュー/ジャン=クロード・パスロン『遺産相続者たち 〜学生と文化』藤原書店 教育社会学の出発点。「能力」の差として見えるものの背後に、家庭から継承された文化資本が存在することを示した重要著作です。
- ピエール・ブルデュー/ジャン=クロード・パスロン『再生産 〜教育・社会・文化』藤原書店 『遺産相続者たち』を理論的に発展させた著作。文化的再生産、象徴暴力、教育制度と階級構造の関係を理解するための必読書です。
