次世代に伝えたい偉人伝⑥:『セーレン・キルケゴール』 〜「実存」という新しい視座の創造

次世代に伝えたい偉人伝⑥:『セーレン・キルケゴール』 〜「実存」という新しい視座の創造

「私はどう生きるのか」を哲学に取り戻した人 キルケゴールが切り開いた「実存」という新しい視座

どれほど世界を正確に説明できても、その説明だけで、私たちは自分の人生を生きられるわけではありません。 宇宙の成り立ちを知り、歴史の法則を理解し、人間とは何かを一般的に説明できたとしても、「私はこの人と結婚すべきか」「この仕事を続けるべきか」「自分の過去をどう引き受けるのか」「死を前にして何を信じるのか」という問いには、自動的な答えが与えられません。 19世紀デンマークの思想家セーレン・キルケゴールが哲学に持ち込んだのは、この「一般論からは答えの出ない、私自身の生」という問題でした。

キルケゴール以前の近代哲学も、決して主体を無視していたわけではありません。むしろデカルト以来、主体は哲学の中心にありました。しかし、そこで論じられていたのは、多くの場合、「理性的主体」「認識する意識」「道徳的主体」「歴史を担う精神」といった普遍的な主体でした。

これに対してキルケゴールが問い直したのは、抽象的な主体ではありません。 苦悩し、迷い、選び、後悔し、それでも一度限りの人生を生きなければならない「この私」です。 彼は自己や主体という概念を哲学史上初めて発見したのではありません。彼の革新は、主体を「世界を認識するための一般的な原理」から、「自分自身の生を引き受ける具体的な存在」へと転換したところにあります。

普遍的な主体を求めた近代哲学

近代哲学の出発点とされるデカルトは、あらゆるものを疑っても、「疑っている私が存在すること」だけは疑えないと考えました。「我思う、ゆえに我あり」という命題によって、彼は思考する主体を知識の確実な基礎に据えました。 しかし、デカルトの「私」は、特定の人生を背負った個人というより、確実な認識を可能にする思考主体です。その「私」がどこで生まれ、誰を愛し、何を恐れ、どのような後悔を抱えているかは、哲学的には中心的な問題ではありませんでした。

カントもまた、人間が世界を認識するための普遍的な条件を明らかにしようとしました。私たちは、時間、空間、因果性といった形式を通して経験を構成します。ここで問題となる主体も、個々人の性格や生活史を超えた「超越論的主体」です。

さらにヘーゲルは、個人の意識、社会制度、宗教、芸術、哲学を、「精神」が歴史の中で自己を理解していく壮大な過程として捉えました。個々の矛盾や対立は、より高次の統一へ進む契機として位置づけられます。個人の苦悩さえも、世界史的な精神の展開の中で意味を与えられることになります。 この体系は、世界と歴史を一つの全体として理解しようとする壮大な試みでした。しかしキルケゴールは、そこに取り残されるものがあると考えました。 それが、「現に生きている一人の人間」です。

体系は完成しても、私はその中に住めない

キルケゴールは、ヘーゲル的な体系を、巨大な宮殿にたとえる趣旨の批判をしています。思想家は壮麗な宮殿を建て上げながら、自分自身はその隣の粗末な小屋に住んでいる。つまり、世界全体を説明する理論と、その理論を語る本人の実際の生とが切り離されているのです。

哲学者が世界史の必然性を説明できたとしても、本人が何を信じ、誰に責任を負い、どう死ぬかという問いは残ります。世界の全体を理解することと、自分自身を理解して生きることは同じではありません。 たとえば、「人間は死すべき存在である」という命題は、誰にとっても正しい客観的事実です。しかし、それを知識として知ることと、「ほかならぬ私が死ぬ」と自覚して生きることとの間には、大きな隔たりがあります。 結婚について一般論を語ることもできます。愛情、家族制度、経済条件を分析することもできます。しかし、目の前の相手と人生を共にするかどうかは、最後には本人が決断しなければなりません。 一般理論は決断を助けることはできますが、本人に代わって決断することはできないのです。

キルケゴールが哲学に取り戻そうとしたのは、この代行不可能な一人称の生でした。

「主体性が真理である」とは何か

キルケゴールの思想は、しばしば「主体性が真理である」という言葉によって要約されます。 この言葉は誤解されやすいものです。キルケゴールは、「人それぞれが真実だと思えば、それが真実になる」と主張したわけではありません。数学的事実や歴史的事実の客観性を否定したのでもありません。

彼が問題にしたのは、人生や信仰に関わる真理です。 ある命題が客観的に正しいとしても、その真理が私の生と無関係な知識として所有されているだけなら、私の生き方を変えることはありません。反対に、ある真理を本当に引き受けるとは、その真理によって自分の生を方向づけ、選択し、責任を負うことです。

したがって、キルケゴールの問いは、「何が真理であるか」だけではありません。 私は、その真理にどのように関わっているのか。 神が存在するかについて、無関心なまま膨大な議論を積み重ねる人よりも、不確実性の中で自分の全存在をかけて信仰を求める人のほうが、信仰の真理に実存的に関わっています。

ここで重要なのは、知識の量ではなく、関わり方の質です。真理は、外側から眺める対象であるだけでなく、自分自身がその中を生きなければならないものになります。 哲学はここで、「真理を知ること」から「真理を生きること」へと方向を変えます。

自己は、選択を通して自己になる

キルケゴールにとって、自己は初めから完成した実体ではありません。人間は、選択を通して自己になっていく存在です。

もちろん、私たちは自分のすべてを自由に選べるわけではありません。生まれた時代、身体、家族、過去の出来事、社会的条件など、その多くは与えられたものです。 しかし、与えられた条件にどう向き合うか、自分の過去をどのように意味づけるか、どの可能性を選び、何に責任を負うかという問題は残ります。

ここでいう選択は、商品を選ぶような表面的な選択ではありません。何かを選ぶことによって、選ぶ人自身が変化するような決断です。 一人の人と生きることを選べば、その約束を継続する人として自己が形成されます。ある使命を選べば、その使命に責任を負う人になります。選択とは、単に外部の対象を選ぶことではなく、「私はどのような人間になるのか」を選ぶことなのです。

反対に、決断を先延ばしにし、すべての可能性を残そうとする人は、自由を守っているように見えます。しかし、何も選ばないことによって、何者にもならないことを選んでいるともいえます。 選択しないこともまた、一つの選択なのです。

不安は「自由のめまい」である

選択によって自己になるのであれば、人間は自由な存在です。しかしキルケゴールは、自由を明るく楽観的な能力としてだけ捉えませんでした。

自由には不安が伴います。 恐怖には、通常、恐れている対象があります。病気、災害、失敗、敵などです。これに対して不安は、対象がはっきりしないまま、さまざまな可能性が開かれていることから生じます。 人間は自由であるため、善を選ぶことも悪を選ぶこともできます。現在の生き方を続けることも、変えることもできます。可能性が開かれているということは、自分が何をするかが完全には決まっていないということです。

キルケゴールは、不安を「自由のめまい」と表現しました。 高い場所から下を見たとき、私たちは落ちることを恐れるだけではありません。「自分は飛び降りることもできる」という自分自身の可能性にも目がくらみます。不安とは、外から迫る危険への反応だけでなく、自分の中にある自由に直面したときに生じる感情なのです。 これは哲学史上、重要な転換でした。不安や絶望は、それまで理性を妨げる感情、あるいは克服すべき弱さとして扱われがちでした。キルケゴールは、それらを人間存在の構造を明らかにする手がかりとして捉えました。

不安は、私たちが可能性を持つ存在であることを示しています。 しかし、絶望は、私たちが自己との関係に失敗しうる存在であることを示しています。

絶望とは「自己になれないこと」

『死に至る病』で、キルケゴールは自己を「自己自身に関係する関係」と表現しました。

人間は、ただ存在しているだけではありません。自分がどのような人間であるかを意識し、自分を評価し、自分を嫌い、あるいは別の自分になろうとします。人間は自分自身に関係しながら生きています。

キルケゴールにとって絶望とは、この自己関係が正しく成り立たない状態です。 自分自身であることを望まない人がいます。反対に、与えられた条件を拒否し、自分だけの力で理想的な自己になろうとする人もいます。無限の可能性を夢見るだけで、現実の責任を引き受けない人もいれば、自分には何も変えられないと思い込み、可能性を閉ざしてしまう人もいます。 また、世間的には成功し、本人も不幸を感じていないにもかかわらず、他人の価値観に同化し、自分自身を失っている場合もあります。キルケゴール的な意味での絶望は、単なる抑うつ気分ではありません。

絶望とは、自己を持ちながら、自己になることができない状態なのです。 ここには、後の実存哲学や実存的精神病理学につながる、きわめて現代的な自己理解があります。

美的・倫理的・宗教的という生の可能性

キルケゴールは、人間の生き方を「美的」「倫理的」「宗教的」という三つの実存領域によって描きました。

美的な生とは、 快楽、新奇さ、興味、気分を中心に生きるあり方です。 退屈を避け、魅力的な経験を求め続けます。しかし、何かを最終的に選ぶことを避けるため、やがて人生の統一性を失い、倦怠や絶望に陥ります。

倫理的な生では、 人は責任、約束、義務を引き受けます。 瞬間的な気分に従うのではなく、自分の人生を一貫したものとして選び直します。ただし、真剣に倫理的に生きようとするほど、自分が完全には善を実現できないことも明らかになります。

その先に宗教的な生があります。 人は自分の有限性と罪を認め、「神の前に立つ単独者」となります。

この三つは、全員が順番に進む単純な発達段階ではありません。それぞれが、何を人生の中心原理とするかという異なる生の可能性です。 そして、その間の移行は理論から自動的に導かれるのではなく、本人の決断によって生じます。

群衆の中に隠れない「単独者」

キルケゴールは近代社会における大衆、新聞、世論の力にも敏感でした。

人は「皆がそうしている」「世間ではそれが普通だ」という言葉によって、自分の判断を匿名の多数者に委ねることができます。多数者の中に隠れれば、自分で決断し、その責任を引き受けずに済みます。 キルケゴールの「群衆は非真理である」という言葉は、民主主義や多数決を単純に否定するものではありません。社会的な決定に多数決が必要であっても、私はどう生きるのかという実存的な問いを、多数決で決めることはできないという意味です。 「単独者」とは、孤立した個人ではありません。他者との関係を断つ人でもありません。社会的役割や世間の評価の背後に隠れず、自分の生について自分で応答する人です。

この問いは、同調圧力やSNS上の世論に取り囲まれた現代において、いっそう切実なものになっています。

実存主義へ受け継がれたもの

キルケゴールの思想は、生前には十分に理解されませんでした。しかし20世紀に入ると、その著作は実存哲学・実存主義に大きな影響を与えます。

ハイデガーは、キルケゴールの不安、可能性、死、自己喪失の分析を、人間存在の構造を問う存在論へと展開しました。人間は匿名的な「世人」の中に埋没しやすいが、死を自分自身の可能性として引き受けることで、本来的な生へと目覚めると考えました。

ヤスパースは、死、苦悩、闘争、罪といった、客観的な知識や技術によって除去できない事態を「限界状況」と呼びました。限界状況に直面することで、人間は日常的な役割を超え、自らの実存と超越者との関係を問うようになります。

サルトルは、キルケゴールの自由、選択、責任という問題を、無神論的に徹底しました。人間には、神によって定められた本質も、選択を保証してくれる絶対的根拠もありません。人間は選択によって自分自身を作るほかなく、その自由から逃げようとすることもまた、自分自身の選択です。

カミュは、キルケゴールが直面した逆説と不確実性を、「不条理」という問題へと変えました。ただし、キルケゴールが信仰によって神との関係へ進んだのに対し、カミュは神への跳躍を拒み、意味を保証しない世界の中で、それでも生き続ける「反抗」を選びました。

こうして実存主義は、キルケゴールが提示した問いを、宗教的あるいは無神論的な立場から引き受け直していきました。

「真理を知る」ことから「真理を生きる」ことへ

キルケゴールが哲学史にもたらしたのは、自己や主体という概念そのものではありません。デカルト、カント、ヘーゲルの哲学にも、すでに主体は存在していました。 彼の革新は、普遍的な認識主体の背後に隠れていた、具体的で有限な「この私」を前景化したことにあります。

哲学が世界をどれほど正確に説明しても、その説明は私の代わりに生きてはくれません。私たちは完全な知識がそろうまで人生を保留できず、不確実性の中で選び、その結果に責任を負わなければなりません。 キルケゴールは、哲学を「世界全体を外側から眺める体系」から、「一人の人間が自分の生を内側から引き受けるための思索」へと転換しました。

彼が私たちに突きつける問いは、今も変わっていません。 私は世間の価値観を自分の価値観だと思い込んでいないか。 選択を先延ばしにすることで、自由と責任から逃げていないか。 知識を増やすだけで、知っていることを生きるのを忘れていないか。 そして私は、与えられた一度限りの人生を、本当に自分自身のものとして引き受けているか。

キルケゴールが哲学に取り戻したのは、抽象的な「人間」ではありませんでした。 それは、ほかの誰にも代わってもらえない生を生きる、「私」という存在だったのです。

著者追記

キルケゴールが、普遍や世界の根本原理を語ってきた哲学の中に、自己との関係を提示して、主体という視座を創造した事は、のちの哲学の発展を見ると素晴らしい仕事だと思います。 ただ、キルケゴールの言う「絶望」や「単独者」という考え方は、私自身も含め、信仰を持たない人達には、非常に分かりにくい考え方ではないかと思います。 その理解に、「死に至る病」に出てくる、「キリスト教者の死」をめぐる下記の論説は、一つの参考になると思います。

キルケゴールにおける「キリスト教者の死」

『死に至る病』の仮名著者・反クリマクスによれば、キリスト教者にとって肉体の死は、存在の消滅ではなく永遠の生命への移行です。したがって、肉体を死なせる病気は究極的な意味での「死に至る病」ではありません。真に人間を死へ至らせる病は、「絶望」です。

キルケゴールのいう信仰とは、単に神の存在を知的に認めることではなく、神を客観的証明によって確実な知識にできないなかでも、神との関係を引き受けることです。自分の有限性、弱さ、罪、変えられない過去を受け入れ、自分を成立させた神との関係の中で自己を生きることです。

反対に信仰を失うとは、必ずしも無神論者になったり、教会を離れたりすることではありません。自分の存在根拠を神ではなく、世間の評価、地位、財産、能力、他者の承認、自分自身の意志だけに置くことです。形式的にはキリスト教徒であっても、神との主体的な関係を失っていれば、本人が気づかないまま絶望している可能性があります。

絶望には、「自分自身でありたくない」と自己を拒む形と、「自分だけの力で自己になろう」と自己を絶対化する形があります。両者に共通するのは、自分を神から与えられた存在として受け取ることを拒んでいる点です。

ただし、疑いや不安を抱くこと自体が信仰喪失なのではありません。信仰とは、不確実性の中で神との関係を引き受けることなのです。 また、絶望を自覚することは、自力では自己を完成できないと知り、神の赦しへ向かう入口にもなります。 このように、「キリスト教者の死」とは、肉体が滅びることではなく、神との関係を失い、自分自身の力だけで生きようとすることで、真の自己として生きられなくなることなのです。

参考書籍

1.鈴木祐丞『キェルケゴール 生の苦悩に向き合う哲学』 筑摩書房・2024年 父との葛藤、レギーネとの婚約破棄、仮名著作、教会批判まで、生涯と思想を一体として描いた新しい入門書です。「不安」「絶望」だけでなく、キルケゴールの哲学が最終的には「いかにキリスト者になるか」という課題に結びついていたことも分かります。 仮名著者(注)を本人の意見と単純に同一視してはいけないという、キルケゴールを読む際の重要な注意点も学べます。 (注)仮名著者:キルケゴールの仮名は、単に身元を隠すためのペンネームではなく、それぞれ異なる人生観と限界を持つ「架空の思想家」を表していると言う事。

2.キルケゴール『死に至る病』 鈴木祐丞訳 講談社学術文庫・2017年 キルケゴールの自己論を学ぶ中心的著作です。 「自己とは、自己自身に関係する関係である」という難解な定義から始まり、絶望を、 ・自分が自己であることに気づかない絶望 ・自分自身であることを望まない絶望 ・自分だけの力で自己になろうとする絶望 などに分類します。 精神医学的なうつ病論ではなく、有限性と無限性、可能性と必然性の間で「自己になれない」という実存的な病理を扱った書物です。従来の邦訳より新しく、原典に即した注釈も備えた鈴木訳を推薦します。

3.キルケゴール『不安の概念』 斎藤信治訳 岩波文庫 自由と不安の関係を理解するための主著です。 キルケゴールは不安を、具体的対象に対する恐怖とは区別し、まだ現実になっていない「可能性」に直面したときに生じる感情として捉えました。人間は自由だからこそ、善だけでなく悪も選びうる。その可能性に目がくらむ状態が「自由のめまい」です。 ハイデガー、ヤスパース、サルトル、さらに実存的精神病理学への影響を考えるうえでも重要です。ただし、キリスト教の原罪論を背景としており、訳文もやや古いため、最初から完全に理解しようとせず、「不安―可能性―自由」という関係を軸に読むのがよいでしょう。

4.鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜 キェルケゴールをつなぐ者たち』 講談社選書メチエ・2022年 キルケゴールが哲学史の中に何を持ち込み、それが後世にどう継承されたかを学ぶ本です。 前半では、主体的思考、間接伝達、ソクラテスとの関係を通して、キルケゴール固有の「実存哲学」が整理されます。後半では、ハイデガー、ヤスパース、サルトルによる受容を検討したうえで、ウィトゲンシュタインへの思想的系譜が論じられます。 キルケゴールを単に「実存主義の創始者」として説明するのではなく、後の哲学者が彼の思想から何を受け継ぎ、何を切り捨てたかを見分けるために有用です。