次世代に伝えたい偉人伝④:『ロラン・バルト』 〜記号が示す意味の観察者

次世代に伝えたい偉人伝④:『ロラン・バルト』 〜記号が示す意味の観察者

ロラン・バルトの思想 〜「意味」を解放するための批評

ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915–1980)は、20世紀フランスを代表する批評家・記号論者です。文学だけでなく、広告、ファッション、料理、スポーツ、写真、恋愛、身体、音楽などを、「意味がどのように作られるか」という観点から考察しました。

バルトの思想を一言でまとめるなら、次のようになります。 私たちが「自然」「常識」「事実」だと思っているものの多くは、社会と文化によって意味づけられた記号である。 ただし、バルトの思想は一つの体系として完成されたものではありません。 初期には社会に隠されたイデオロギーを記号論によって暴き、 中期には文学作品の構造を分析し、 後期には固定された構造そのものから離れて、読者の身体、快楽、欲望、愛、記憶、喪失へと向かいました。

そのため、バルトの思想は、「構造を発見する思想」から「構造を揺さぶる思想」への移行として読むことができます。実際、バルトは構造主義とポスト構造主義の境界に位置する人物と評価されています。⁠Internet Encyclopedia of Philosophy

1.『零度のエクリチュール』 〜文章は中立ではない

最初の重要な著作が、1953年の『零度のエクリチュール』です。

バルトは文学表現を、次の三つに区別しました。 ・言語(langue)文体(style)エクリチュール(écriture) 「言語」は、フランス語や日本語のように、作者が生まれる以前から社会に存在する制度です。作者は言語そのものを自由に選べません。

「文体」は、作者の身体、気質、過去、感覚などに深く根ざした、半ば無意識的な表現です。プルーストやカミュの文章に固有の呼吸やリズムがあるように、文体には作者の身体的な痕跡が現れます。 これに対して「エクリチュール」は、作者が歴史的・社会的状況の中で選び取る、書くことの態度です。簡潔な文体を選ぶのか、政治的な言葉を使うのか、文学的装飾を避けるのか。そこには、作者が社会に対してどのような位置を取るかが表れます。

つまり、文章の形式は単なる容器ではありません。ある書き方を選ぶこと自体が、政治的・倫理的な選択なのです。 バルトが求めた「零度」とは、完全に無色透明な文章ではなく、既成の文学的・政治的コードに可能なかぎり回収されない書き方でした。しかし、その新しい表現も、反復されればやがて制度化されます。 ここにはすでに、「意味を固定する社会」と「そこから逃れようとする文学」の緊張関係が示されています。

[詳しくは、コラム診断カテゴリーが実体化されるという問題 〜R・バルト「零度のエクリチュール」から、操作的診断基準を読む〜を、参照下さい。]

2.『神話作用』 〜日常生活に隠されたイデオロギー

1957年の『神話作用』は、バルトの思想を理解するうえで最も重要な著作の一つです。

ここでいう「神話」は、ギリシア神話や宗教的伝説ではありません。社会的に作られた価値観が、あたかも自然で自明の事実であるかのように見える仕組みを意味します。

バルトは、ソシュールの記号論を利用して、記号を次の関係として理解しました。 記号表現+記号内容=記号 例えば、フランス国旗という色と形が「フランス国家」という意味を担うとき、国旗は記号になります。

しかし神話作用では、その第一段階の記号全体が、さらに別の意味を担う「記号表現」になります。『神話作用』で有名なのは、フランス国旗に敬礼する黒人兵士の雑誌写真です。 第一段階では、それは「制服を着た黒人青年が敬礼している写真」です。 しかし第二段階では、「植民地出身者も自発的にフランス国家へ忠誠を誓っている」という意味を帯びます。 そこから、フランス植民地主義の調和的・普遍的イメージが作られます。 このように神話は、歴史的・政治的に作られたものを、自然なものへと変換します。 神話の本質は、歴史を自然に変えることである。

高級車は単なる移動手段ではなく、成功や洗練の象徴になります。 化粧品は単なる物質ではなく、若さや女性性を表します。 白いシャツを着た若者の広告から反射的に、「清潔」「若さ」「健康」を読み取ります。 この様な、文化的偏見が、あたかも自然な事実のように流通することがあるのです。

バルトの批評は、その「自然に見えるもの」をいったん不自然なものとして見直す作業です。

[詳しくは、コラム(書評)ロラン・バルト『神話作用』: 日常をハックする「見えないコード」を、参照下さい。]

3.構造主義 〜個人よりも関係と規則を見る

1960年代のバルトは、ソシュールの言語学やレヴィ=ストロースの構造人類学の影響を受け、構造主義を文学や文化へ応用しました。 構造主義とは、1960年代のフランスを中心に発展した現代思想です。その最大の特徴は、「人間の思考や行動は、個人の自由な意思ではなく、その背後にある見えない『構造(言語や社会のルールなど)』によって決定づけられている」と考える点にあります。つまり、物事そのものの性質よりも、要素同士の「関係性」の中で意味がどう作られるかに注目します。個人の主体性を重視する実存主義とともに、哲学はじめ人文科学や社会科学に多大な影響を与えました。

したがって、意味を理解するには、個々の要素を見るだけでなく、それらを配置している体系を調べる必要があると考えます。バルトはこの方法を物語分析に応用しました。 物語は作者の天才から直接生まれるのではなく、人物類型、対立、謎、行動、時間構成など、社会的に共有された複数の規則によって組み立てられています。

ただし、バルトは次第に、構造分析が作品の意味を一つの体系へ閉じ込めてしまう危険にも気づいていきます。

4.『S/Z』――作品は複数のコードが交差する場所である

1970年の『S/Z』では、バルザックの短編「サラジーヌ」が細かな単位に分割され、五つのコードによって分析されました。

  • 解釈的コード――謎を作り、解答を遅らせる
  • 行為的コード――出来事や行動を連鎖させる
  • 意味素的コード――人物や場所に性質を与える
  • 象徴的コード――男性/女性、生/死などの対立を作る
  • 文化的コード――社会的知識や常識を参照する

重要なのは、一つの文章が一つの意味だけを持つのではなく、複数のコードが交差する場所になるという点です。

ここからバルトは、テクストを二つに区別します。 読むテクスト 「読むテクスト(texte lisible)」は、読者がすでに完成された意味を受け取る作品です。筋書きが明確で、人物の心理や物語の結論が比較的安定しています。読者は意味の消費者になります。 書くテクスト 「書くテクスト(texte scriptible)」は、意味が確定せず、読者自身が関係を作りながら読む作品です。読者は受動的な消費者ではなく、テクストの生産者になります。

これは難解な実験文学だけを称賛する分類ではありません。同じ作品でも、読み方によって「読むテクスト」にも「書くテクスト」にもなり得ます。重要なのは、作品を完成品として消費するのではなく、その意味の生成に参加することです。

5.「作者の死」 〜作者の意図を唯一の答えにしない

バルトの最も有名な主張が、1967年に発表された「作者の死」です。

従来の文学研究では、作品の意味を理解するために、作者の生涯、性格、思想、意図が重視されていました。作品の「正解」は作者の心の中にある、と考えられていたのです。

バルトは、この作者を「作者=神」と呼び、その権威を批判しました。 しかし、「作者の死」とは、作者が実在しない、あるいは作者の伝記を調べてはいけない、という意味ではありません。作者の意図を作品の最終的な意味と見なしてはならない、という方法論的主張です。

文章は、作者個人の内部から無から生み出されるものではありません。すでに存在する言葉、文学的慣習、社会的言説、過去の作品、無意識的な引用などが交差して作られます。作者は意味の創造主というより、既存の言葉を新しく組み合わせる「書き手」です。 したがって作品の意味は、作者の出発点ではなく、読者がテクストと出会う地点で生じます。

作者の死によって、読者が誕生する。 ただし、これは「どんな解釈でも正しい」という意味ではありません。解釈は、テクストに存在する言葉や構造によって支えられる必要があります。否定されたのは意味そのものではなく、「意味を一つに決定できる最終権威」です。

6.作品からテクストへ

バルトは、「作品」「テクスト」を区別します。

作品は、本棚に置かれ、著者名が記され、所有・分類できる物体です。 それに対してテクストとは、読むことによって意味が生成していく活動そのものです。 作品が「もの」だとすれば、テクストは「出来事」です。

テクストは単一の声ではなく、無数の引用、文化的記憶、言語的規則が織り合わされた網目です。英語の textile と同様に、text も「織る」という語源につながっています。 したがって読者は、作品の奥に隠れた唯一の真理を発掘するのではありません。複数の言葉が交差し、意味が生まれてはずれていく運動に参加します。

この考え方は、文学作品だけでなく、診断記録、ニュース、広告、映画、医学論文などにも応用できます。どの文章も、複数の制度的・文化的言説が交差する場所として読めるからです。

7.『テクストの快楽』 〜読むのは頭だけではない

1973年の『テクストの快楽』以降、バルトは構造分析から、読者の身体的経験へと関心を移します。

ここでバルトは、二種類の読書経験を区別しました。 「快楽(plaisir)」は、読者の文化的期待を満たす心地よさです。物語を理解し、展開を楽しみ、自分の知識やアイデンティティが保たれる読書です。

これに対して「悦楽(jouissance)」は、読者の安定した自己や意味の秩序を揺さぶる経験です。言葉が通常の意味から外れ、読者が自分自身を一時的に見失うような読書です。

バルトにとって読書は、情報を受け取るだけの知的活動ではありません。文章のリズム、響き、間、反復、声の質感などを身体で経験する行為です。 音楽論で用いた「声の肌理(grain of the voice)」という言葉も、この思想を示しています。声には、言語的意味や音楽的技術だけでは説明できない、発声器官や身体の物質性が現れます。

後期バルトは、「何を意味するか」だけでなく、「その言葉が私の身体に何を起こすか」を問うようになったのです。

8.『恋愛のディスクール・断章』――恋する主体の孤独

1977年の『恋愛のディスクール・断章』は、恋愛を心理学的に説明する本ではありません。恋する人が、自分の内部でどのような言葉を反復しているかを描いた本です。

「待つ」「不安になる」「嫉妬する」「相手の言葉を解釈する」「愛していると告げる」「破局を想像する」といった局面が、「フィギュール」と呼ばれる断章として並べられます。

恋する主体は、相手からの電話が遅い、返事が短い、表情がいつもと違う、といった細部を絶えず解釈します。しかし相手の本心を完全に知ることはできません。そのため恋愛は、意味を求め続けながら決して確定できない記号解読になります。

この本の重要な点は、恋愛を外部から診断・分類するのではなく、恋する主体の言葉を内側から記述したことです。 恋する人は多くを語るのに、その言葉は社会の公的言語からは「感傷的」「非合理的」として退けられます。バルトは、その孤立した言葉に発言の場所を与えました。

[詳しくは、コラム(書評)ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』:主体性の危機と獲得の好機を、参照下さい。]

9.『明るい部屋』――写真、記憶、喪失

1980年の『明るい部屋』は、写真論であると同時に、亡くなった母をめぐる喪の書でもあります。この著作は、体系的記号論から大きく離れた晩年の仕事であり、自伝とアフォリズムが交差する作品と評価されています。⁠Oxford Reference

バルトは写真を見る経験を、「ストゥディウム」と「プンクトゥム」に分けました。 ストゥディウム ストゥディウムは、文化的知識を通じて写真を理解する働きです。 「これは戦争写真である」「この服装はこの時代のものである」「撮影者は貧困を告発している」といった、共有可能な関心と解釈です。 プンクトゥム プンクトゥムは、写真の中のある細部が、見る者を偶然に「刺す」経験です。 それは撮影者が意図した中心的メッセージとは限りません。人物の靴、指の位置、服のしわ、視線など、他人には重要でない細部が、特定の見る者にだけ強く作用します。 プンクトゥムは一般的な記号論では完全に説明できません。そこには見る者自身の記憶、欲望、喪失が入り込むからです。写真は、言語の様に意味の限界を規定しないがゆえに、その意味の発現は、より読者に依存するのです。

さらにバルトは、写真の本質を「それはかつてあった(Ça-a-été)」と表現しました。絵画とは異なり、写真は、被写体から届いた光が実際に感光面に触れた痕跡です。

したがって写真は、「この人は確かに存在した」という証明であると同時に、「しかし今はもう存在しないかもしれない」という死の予告でもあります。 写真には過去の現実性と現在の不在が同居しています。

10.晩年の「中性的なもの」

晩年のコレージュ・ド・フランス講義でバルトは、「中性的なもの(le Neutre)」を論じました。バルトは1976年から1980年まで、同校の「文学記号論」の講座を担当しています。⁠Collège de France

中性的なものとは、無関心でも、男女の中間でもありません。 社会は私たちに、「賛成か反対か」「正常か異常か」「男性か女性か」「主体か客体か」といった二者択一を迫ります。バルトのいう中性的なものは、こうした強制的な対立を回避し、どちらかに固定されることを拒む態度です。

これは結論を出さない優柔不断ではありません。世界を二分法で支配しようとする言語の暴力から、一時的に離脱する試みです。

バルトの思想全体には、この「固定から逃れる」という運動があります。 ・神話による意味の固定を暴く ・作者による意味の独占を退ける ・構造によるテクストの閉鎖を避ける ・性や主体の安定した分類を揺さぶる ・読者を意味の受容者から生産者へ変える

11.バルトの政治性

バルトは初期にはマルクス主義の影響を受け、ブルジョワ社会が日常文化を通じて自らの価値を自然化する過程を批判しました。 しかし後期になると、権力を国家や階級だけに限定しなくなります。権力は言葉の分類、常識、物語の形式、話す資格、正常と異常の区別などにも浸透しています。

コレージュ・ド・フランスの就任講義で、バルトは「言語はファシストである」という刺激的な表現を用いました。この発言は、言語が特定の政治体制だという意味ではありません。言語は単に「何かを言うことを禁止する」のではなく、「一定の仕方で言うことを強制する」という意味です。 何かを語るためには、既存の文法、概念、分類を使わなければなりません。私たちは言語を使って自由に話しているようでいて、同時に言語の体系によって話させられています。

その強制を完全に脱することはできません。だからこそ文学は、言語を内部からずらし、複数の意味を生み出し、支配的な分類を一時停止させる場所になります。

12.精神医学との接点

バルトの思想は、精神医学にもいくつかの重要な示唆を与えます。

第一に、診断概念を「自然そのもの」と同一視しないことです。 診断には生物学的根拠が存在していても、それがどのような名称、境界、物語によって理解されるかは歴史的・文化的条件に影響されます。バルトの神話論は、診断を否定するのではなく、その周囲に形成される「自明性」を批判的に点検する視点を与えます。

第二に、症例記録の「作者の死」です。 患者の語りの意味を、患者自身の意図だけに還元することも、医師の診断だけに還元することもできません。語りには家族関係、医学用語、社会的偏見、過去の経験、無意識的連想など、複数のコードが交差しています。

第三に、『恋愛のディスクール』が示す主観的経験の尊重です。 恋愛、喪失、嫉妬、待機、不安などは、外側から症状として分類するだけ外側から症状として分類するだけでは、その経験の構造を十分に理解できません。バルトは、語り手の言葉を性急に診断へ回収せず、その言葉がどのように世界を構成しているかを読む姿勢を示しています。

結論 〜意味を一つにしない思想

バルトは、「意味など存在しない」と主張した思想家ではありません。むしろ反対に、記号は様々な意味を想像する可能性があるにも関わらず、社会がその複数性を一つの正解に閉じ込めようとすることに注目しました。

初期のバルトは、日常生活の中で意味が自然化される仕組みを暴きました。 中期には、文学が複数のコードによって作られていることを示し、作者の権威から読者を解放しました。 後期には、構造分析だけでは捉えられない身体、快楽、愛、記憶、喪失へと向かいました。

その思想を貫いているのは、次の姿勢です。 言葉によって作られた秩序を、自然そのものと思い込まないこと。 意味を一つに固定せず、そこに別の読み方が生まれる余地を残すこと。

バルトにとって批評とは、作品の正解を決定することではありません。それは、固定された意味をわずかにずらし、これまで聞こえなかった声や、まだ名づけられていない経験が現れる場所を作ることだったのです。

参考文献

  1. ロラン・バルト『〈中性〉について コレージュ・ド・フランス講義1977–1978年度』(塚本昌則訳、筑摩書房、2006年)
  2. 石川美子『ロラン・バルト、言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書、2015年)
  3. 渡辺諒『バルト、距離への情熱』(白水社、2007年)