心の「波」はどうして起きる? 〜双極症のメカニズムを科学する〜
心の「波」はどうして起きる? ——双極症のメカニズムを科学する
「最近、どうも気分にムラがある」「調子が良いと思っていたら、急に坂道を転げ落ちるように落ち込んでしまった」。そんな経験は誰にでもあるかもしれません。しかし、その「波」が自分の意思ではコントロールできないほど大きく、生活を脅かすものになるのが「双極症(双極性障害)」という病気です。
かつては「躁うつ病」と呼ばれていたこの病気ですが、近年の脳科学の進歩により、単なる「性格の問題」や「気合の不足」ではなく、脳内の非常に緻密なシステムに「不具合」が生じていることが分かってきました。今回は、その驚くほど複雑で、かつ論理的な発症のメカニズムを、専門的な視点から詳細に紐解いてみましょう。
1. 「設計図」に刻まれた、わずかな揺らぎ
まず、なぜこの病気になる人がいるのか、という根本的な疑問から始めましょう。双極症には、生まれ持った「遺伝的」な要素が関係していることが分かっています。精神疾患の中でもその影響は比較的大きく、遺伝率は約60〜80%に及ぶと報告されています。
ただし、これは「この遺伝子があれば必ず発症する」というような単純なものではありません。何百、何千という小さな遺伝子のバリエーションが複雑に組み合わさることで、「感情やエネルギーの調整が少しだけ揺らぎやすい脳」という設計図が出来上がります。これを専門用語で「ポリジェニック(多遺伝子性)」な構造と呼びます。
最新のゲノム解析(GWAS)では、神経細胞の間で情報をやり取りするための「カルシウムチャネル」に関わる遺伝子が、この揺らぎに関わっていることが指摘されています。これは、脳のスイッチが入りやすく、かつ切れにくい特性を形作っている可能性があるのです。
2. 脳という工場の「エネルギー不足」と「空回り」
私たちの脳は、全身のエネルギーの約20%を消費する精密な巨大工場のようなものです。この工場の中で、エネルギーを作り出す発電所の役割を果たしているのが、細胞の中にある「ミトコンドリア」です。
双極症の方の脳では、このミトコンドリアの働きに不具合が生じているという説が有力です。発電所の出力が安定しないため、脳が正常に動くためのエネルギー(ATP)が不足したり、逆に過剰に供給されたりします。この不安定さが、気分の激しい変動の土台となります。
また、エネルギー産生の過程で発生する「活性酸素」による酸化ストレスが神経細胞にダメージを与え、脳の回復力(レジリエンス)を低下させてしまいます。躁状態のエネルギーに満ち溢れた感覚は、実は脳が無理をして「火事場の馬鹿力」を出している状態で、その後のうつ状態は、いわば「燃料切れ」と、ダメージを受けた工場の修繕期間だと考えることができます。
3. ブレーキの利かないアクセル、過敏なセンサー
次に、脳の「回路」に目を向けてみましょう。私たちの脳には、感情を司る「アクセル(辺縁系)」と、それを冷静にコントロールする「ブレーキ(前頭前野)」が存在します。
双極症の状態では、このバランスが大きく崩れます。
- アクセル(扁桃体)の過活動: 脳の感情センターが過敏になり、小さな刺激に対しても激しいアラームを鳴らし続けます。
- ブレーキ(前頭前野)の機能低下: 本来なら感情を抑えるはずの部位がうまく機能せず、暴走を止められなくなります。
4. 「体内時計」という、繊細なリズムの狂い
双極症のメカニズムを語る上で欠かせないのが、「概日リズム(体内時計)」です。私たちは本来、太陽の光を浴びて起き、暗くなると眠るという一定のリズムで生きています。しかし、双極症の脳はこの時計が非常にデリケートです。
「CLOCK遺伝子」などの変異により、睡眠のリズムが崩れやすくなっているだけでなく、光刺激に対して脳が過剰に反応してしまいます。夜更かしや時差ボケといった、健康な人なら「少し疲れた」で済むようなリズムの乱れが、双極症の人にとっては脳のスイッチを切り替える強力なトリガーになってしまうのです。
「睡眠を安定させることが、最高の治療である」と言われる理由は、この体内時計の不調を整えることが、脳全体の安定に直結するからです。
5. 心の火種が「燃え上がる」前に
最後に、この病気の時間的な経過についても触れておきましょう。重要なのが「キンドリング現象(燃え上がり現象)」です。
キャンプファイヤーを想像してください。最初は大きな丸太に火をつけるために強い火種が必要ですが、一度勢いよく燃え出すと、次からは小さな枝を投げるだけで大きな炎になります。双極症の脳も同様で、最初は大きなストレス(失恋、転職、死別など)が発症のきっかけになりますが、再発を繰り返すと脳がそのパターンを「学習」してしまいます。
放置してしまうと、最終的には明確な理由がなくても勝手に波が起きるようになってしまいます。だからこそ、早期にメカニズムを理解し、お薬や生活療法によって脳が「燃え上がる」のを防ぐことが極めて重要なのです。
