外国人を苦しめる“日本語の数え方” 〜歴史、文化、習慣と音韻変化から考える。
外国人を苦しめる“日本語の数え方” 〜歴史、文化、習慣と音韻変化から考える。
1.日本語を学ぶ人が出会う「数え方の壁」
日本語を学び始めた人が、「一、二、三」と数を覚えて、ようやく買い物ができると思ったとします。ところが、りんごは三個、鉛筆は三本、紙は三枚。犬は三匹、鳥は三羽、本は三冊です。数字は同じなのに、後ろにつく言葉が次々と変わります。 「数を覚えたのに、ものを数えられない」。日本語の数え方には、学習者をそんな気持ちにさせる難しさがあります。
さらに、「本」を覚えれば済むわけでもありません。 一本は「いっぽん」、二本は「にほん」、三本は「さんぼん」です。「匹」も、いっぴき、にひき、さんびきと音が変わります。人を数えるときには、ひとり、ふたりのあとに、さんにんが続きます。 どの言葉を選ぶかに加えて、数字との組み合わせによる発音まで覚えなければならないのです。
この「個」「本」「枚」などを、助数詞といいます。 日本語を母語とする私たちは、普段、その複雑さをほとんど意識しません。しかし、改めて説明しようとすると、簡単な規則だけでは片づかないことに気づきます。 そこには、ものの形を見分ける仕組み、数える単位を定める習慣、外国語から受け入れた表現、そして人間と世界との関わりの歴史が重なっています。
2.形・種類・用途による使い分け
助数詞を理解する最初の手がかりは、対象の特徴です。 「枚」は紙や皿のように薄く平たいもの、「本」は鉛筆や傘のように細長いものに使います。「匹」は動物、「冊」は本、「台」は機械や乗り物などに用います。つまり、数を伝えるときに、その対象がどのような種類のものかも一緒に示しているのです。
ただし、分類の基準は一つではありません。「枚」「本」は主に形に注目し、「匹」は生き物であることに注目し、「冊」「台」は対象の種類や用途に関わります。形、生命、機能という異なる基準が、同じ体系の中に共存しています。学習者が難しく感じるのは、単語の数が多いからだけではありません。何を基準に選べばよいのかが、場面によって変わるからです。
しかも、基本的な意味から使い道が広がった表現もあります。 「電話を一本かける」と言うとき、数えているのは細長い物体ではありません。映画も「一本」と数えます。 具体的なものに使っていた数え方が、活動や作品にも広がり、慣習として受け継がれています。現在の形だけを観察して、正しい助数詞をすべて推測することはできないのです。
3.母語によって異なる数え方の難しさ
もっとも、外国人なら誰もが同じように苦労するわけではありません。 中国語やベトナム語などにも、対象に応じて数える言葉を使い分ける仕組みがあります。こうした数詞類別詞は、東アジアから東南アジアにかけて広く分布しています。母語に似た仕組みがある学習者なら、発想そのものは理解しやすいでしょう。ただし、具体的に何をどの言葉で数えるかまで一致するとは限りません。
英語にも、紙を数える「sheets」や、水を数える「glasses」のような単位表現があります。一方、犬なら「two dogs」と、数と名詞を組み合わせられます。日本語では「犬が二匹いる」のように、個体として区別しやすい対象にも助数詞を添えることが一般的です。言語によって、数えるための区分をどこまで表現に組み込むかが違うのです。
「日本語には複数形がないから助数詞が必要になった」とだけ説明することもできません。名詞の形で単数・複数を区別しなくても、助数詞を必要としない言語があります。WALS「数詞類別詞」
4.同じ写真でも、「一枚」
助数詞の面白さは、対象ごとに一つの正解が決まっているとは限らないことにもあります。 同じ写真でも、「写真を一枚送る」と「写真を一点出品する」では、数え方が変わります。前者は写真という画像の単位、後者は作品や出品物としての単位を表しています。助数詞の選択に、その場で写真をどう扱っているかが現れているのです。
もちろん、「一枚」と言ったら作品として見ていない、という意味ではありません。また、「一点」は芸術作品だけでなく、商品や持ち物にも使えます。助数詞は対象の本質を一つに決めるものではなく、ある側面を前面に出す表現です。 椅子一脚、写真一枚、花瓶一個も、展覧会の出品物としてまとめれば「三点」になります。異なるものを、共通の役割に沿って数え直すことができるのです。
シャツについても、「もう一枚洗濯する」と「着替えをもう一着用意する」とでは、注意の向け方が少し異なります。「枚」には薄い布製品としての形が、「着」には身に着ける衣服としてのまとまりが表れます。どちらか一方だけが正しいのではなく、何をしている場面なのかによって、自然な選び方が変わります。
5.何を「一つ」とするかを決める言葉
助数詞は、「何を一つとするか」も決めています。 三枚の便箋に書いた手紙は、紙としては三枚ですが、相手に届ける通信文としては一通です。便箋を補充する人は枚数を気にし、郵便物を仕分ける人は通数を気にします。同じ対象でも、作業の目的によって意味のある単位が異なるわけです。
箸なら、片方を一本、二本の組を一膳と数えます。八両が連結された電車は、車両として八両、運行するまとまりとして一編成です。一本の茎に三つの花が咲いていれば、一本であり三輪でもあります。数えることは、目の前の世界にそのまま数字を貼り付ける作業ではありません。何を切り分け、何をまとめて扱うかという判断が、その前にあります。
もちろん、私たちは話すたびに、対象の性質を分析して助数詞を選んでいるわけではありません。 「椅子は一脚」という組み合わせの多くは、慣習として覚えています。「脚」という字があっても、数えているのは脚の本数ではなく、椅子全体です。助数詞は、自由なものの見方を表せる一方で、社会で共有された言い方によって選択を制約されてもいます。
この慣習と柔軟さの両方が、学ぶ難しさと表現の豊かさを生んでいます。
6.数え方に重なる言葉と暮らしの歴史
こうした複雑な体系は、一度に設計されたものではありません。 日本語にもともとあった数え方に、漢語系の数詞や助数詞が加わり、長い時間をかけて使い分けが形成されました。「ひとつ、ふたつ」という和語の体系と、「個」「枚」「冊」などを用いる体系が共存していることにも、その歴史が見えます。「ひとり、ふたり、さんにん」という異なる読みの連続も、複数の体系が重なった跡です。
その上に、生活や職業ごとの必要が積み重なりました。 薬なら一錠、一包、一瓶と数えます。これらは似た意味の言い換えではなく、剤形や包装、容器など、異なる単位を示しています。 文学では短歌を一首、俳句を一句、書物を一冊と数えます。特定の分野で繰り返し扱う対象には、その分野で使い慣れた数え方が定着します。
したがって、助数詞の種類が多いからといって、すべてを誰もが同じ頻度で使うわけではありません。日常会話で頻繁に使うものもあれば、専門的な場面で主に使うものもあります。辞書に並んだ長い一覧は、個人が毎日使う言葉の一覧というより、社会全体が蓄えてきた数え方の集まりとして見るほうが適切でしょう。
7.神を「柱」と数える信仰の世界
この蓄積には、信仰の歴史も含まれています。神を「一柱、二柱」と数える習慣は、その代表例です。 『古事記』でも、神を数える通常の助数詞として「柱」が使われています。神をどのような存在として捉えるかという区別が、数を表す言葉の中に組み込まれているのです。(國學院大學『古事記学』第7章注解)
『古事記』には、イザナキとイザナミが巡る「天之御柱」も登場します。 柱は建築の材料であると同時に、神話や祭祀において特別な意味を帯びる存在でもありました。國學院大學の解説では、その象徴性を、樹木崇拝、神社における柱の祭祀、諏訪の御柱祭などと関連づけて検討しています。「柱」という数え方を信仰の世界と結びつけて考えることには、十分な理由があります。(國學院大學『古事記学』第4章注解)
8.生き物との関係が数え方に表れる
一方、人間と生き物との関係が数え方に表れることは、身近な表現からも理解できます。「犬が一匹います」と言う場合と、愛犬を含めて「わが家は四人家族です」と表現する場合を考えてみましょう。後者では、犬を家族の一員として位置づける気持ちが、通常の数え方を変えています。
ここで変わったのは、犬の身体や生物学的な種類ではありません。話し手が、その犬をどのような存在として位置づけているかです。 「一匹」は動物として数える表現ですが、家族の「一人」と数えれば、ともに暮らす大切な存在であることが伝わります。助数詞には、対象の形や種類だけでなく、話し手がその対象に寄せる気持ちや、生活の中で結んでいる関係も表れるのです。
9.信仰、暮らし、過去の記憶を映す助数詞
「万物に魂が宿る」という言い方も、日本の信仰のある側面を捉えています。しかし、自然や物に霊威を認めることと、あらゆる物に同じ性質の魂があると考えることは、厳密には同じではありません。 多様な時代や地域の信仰を、一つの教義にまとめることは難しいでしょう。助数詞に信仰が表れる例を丁寧に拾うことと、助数詞全体を一つの宗教観から説明することには、距離があります。
むしろ注目したいのは、人々が対象との間に結んできた関係の多様さです。 ある存在を祀り、ある生き物を育て、別のものを材料として加工し、商品として取引します。助数詞には、そうした行為や関係が反映される余地があります。形の分類、暮らしの必要、信仰、制度、言語の接触を重ねて見ることで、数え方の複雑さをより具体的に理解できます。
そして、昔の数え方は、対象の姿が変わっても残ります。 スマートフォンに保存された写真には、手で触れられる紙の厚さも広がりもありません。それでも私たちは「写真を一枚送る」と言います。紙に印刷された写真に使ってきた数え方が、デジタル画像にも引き継がれているのです。助数詞には、今ここにある対象の特徴だけでなく、過去の生活の記憶も残っています。
10.学習者とともに数え方の意味を考える
こう考えると、学習者にすべての助数詞を最初から暗記させることが、理解への近道とは限りません。 まずは「人」「個」「本」「枚」「匹」など、生活でよく使うものを身につける。その上で、「これは何を一つとして数えているのか」「この場面ではどんな側面に注目しているのか」と考えると、単なる例外の一覧だったものに、意味のつながが見えてきます。
そのため、助数詞の学習では意味を理解することと、表現のまとまりを覚えることが両方必要になります。鉛筆と「三本」、紙と「三枚」を実際の場面で結びつけることで、抽象的な規則だけでは捉えにくい使い分けにも慣れていけるでしょう。
「りんごを三つください」のように、広く使える数え方もあります。 一方、仕事や専門分野では、慣用の単位を知ることが意思疎通を助けます。大切なのは、細かい数え方を知っていることを教養の試験にするより、相手が何を、どの単位で伝えようとしているかを理解することです。日本語を母語とする側にも、その姿勢が求められます。
11.数えることは、世界との関係を表すこと
外国人を苦しめる日本語の数え方は、日本語を話す私たち自身に、普段は見えない問いを突きつけます。 一枚の写真を一点の作品として扱い、二本の箸を一膳として使い、一匹の犬を家族の一人として迎える。同じ対象であっても、注目する側面や、そこに生きる存在との距離は変わります。 私たちは数えるたびに、何を一つとみなし、どのような関係の中に置くかを、言葉にしているのです。
著者あとがき 〜数える音に残る日本語の歴史
本稿では、助数詞を手がかりに、日本語が物の形や用途、人と生き物との関係をどう表してきたかを考えました。しかし、日本語を学ぶ人にとっては、もう一つ大きな難関があります。何を付けて数えるかが分かっても、その読み方まで一定ではないのです。 「ひとり、ふたり、さんにん」「いっぴき、にひき、さんびき」。私たちは自然に口にしますが、初めて習う人が戸惑うのも当然でしょう。
この二つの不規則さには、異なる背景があります。 まず、人数の数え方には、古くからの日本語である和語と、中国語に由来する漢語が混在しています。「ひとつ、ふたつ」の「ひと」「ふた」「みつ」「よつ」と同じ系列に属するのが「ひとり」「ふたり」です。一方、「さんにん」は漢語の数詞「さん」と、助数詞「にん」の組み合わせです。「にん」が発音の都合で「り」に変わったわけではありません。 漢語の数え方が広まっても、古い言い方が一斉に消えたわけではなく、日常で繰り返し使う「ひとり」「ふたり」は残りました。「四人」を「よにん」と読むところにも、和語の「よつ」と漢語の「にん」の組み合わせが見られます。現在の数え方は、初めから一つの規則に従って設計されたものではなく、異なる時代の言葉が重なってできたものなのです。
これに対して、「ひき、びき、ぴき」は、同じ助数詞の音が、前に来る数詞に応じて変わる現象です。 「いち」と「ひき」を別々に覚えても、つなげれば「いっぴき」になります。「ろく」でも「ろっぴき」です。学ぶ側からすれば、単語を覚えたあとに、その接続部分をもう一度覚え直すようなものです。
この変化には、昔の発音が関わっています。 日本語のハ行は、古くはパ行に相当する音でした。 また、「一」「六」などの数詞は、中国語から入った当時、子音で終わる形を持っていました。 その子音が後続する音と結びつき、「いっぴき」の小さな「っ」に当たる促音が生じたと説明されます。促音の後ろに古いパ行の音が残る一方、母音の後などではハ行へと変化し、「ぴき」と「ひき」の違いが生まれました。
「さんびき」の濁り方は、これとは別の仕組みです。 「さん」の末尾の「ん」は鼻音で、その後ろでは子音が濁りやすい傾向があります。「三本」が「さんぼん」、「三杯」が「さんばい」になるのも同じ仲間です。「ぴき」になる変化まで、すべて「連濁」の一言で説明することはできません。(参照:国立国語研究所「『匹』の読み方」)
ただし、「ん」の後なら必ず濁るわけでもありません。 「四匹」は「よんびき」ではなく「よんひき」です。この一例からも、現在の音の並びだけで、あらゆる読み方を機械的に導けるわけではないと分かります。発音の傾向に加え、それぞれの言葉がたどった歴史と、使い慣らされた形を考える必要があります。
「言いやすいように変わったからです」という説明は、入り口としては便利でしょう。 しかし、何を言いやすいと感じるかは、その言語で身に付けた音の習慣にも左右されます。日本語話者に自然な「いっぴき」が、外国人にも初めから自然とは限りません。私たちの「当たり前」を、そのまま相手の出発点にはできないのです。
だからこそ、「いちひき」と言う人に出会ったときは、その間違いにも理由があることを忘れずにいたいと思います。その人は、覚えた数詞と助数詞を正しく組み合わせようとしています。そこで必要なのは、似た変化をする「一本、一杯」などを一緒に示し、少しずつ耳と口になじませる手助けでしょう。
助数詞には、世界をどう分けて見るかという文化が刻まれています。 そして、その読み方には、外から来た言葉と古い日本語が出会い、音が変わりながら受け継がれてきた歴史が残っています。 何気ない「ひとり」と「いっぴき」に耳を澄ませると、日本語の難しさとともに、その成り立ちの豊かさも聞こえてくるように思います。
