四十七文字の小宇宙 〜「いろは歌」に見る日本語のしくみ
四十七文字の小宇宙 〜「いろは歌」に見る日本語のしくみ
「いろはにほへと、ちりぬるを」。冒頭はよく知られていても、その先を最後まで唱えられる人は、以前より少なくなったかもしれない。「いろは歌」は、かつて文字を習うための手本として広く用いられ、「いろは順」は辞書の見出しや番号づけにも利用されてきた。今日でも「仕事のいろは」「研究のいろは」というように、「いろは」は物事の初歩や基本を意味する。しかし、この歌は単なる昔の「あいうえお」ではない。わずか四十七文字の中に、日本語の文字、音、文法、韻律、そして思想が、驚くほど巧妙に組み込まれている。
まず、歌の全文を歴史的な表記で掲げてみよう。
意味に従って濁点と漢字を補うと、一般には次のように読まれる。
現代語に意訳すれば、次のようになるだろう。
ここでいう「匂ふ」は、現代語の「香りがする」だけではなく、色美しく映える、華やかに咲くという意味をもつ。「有為」は仏教語で、さまざまな原因と条件によって生じ、絶えず変化する現象世界を指す。
伝統的には、この歌は『涅槃経』に由来する「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」という偈の内容に対応すると解釈されてきた。作者の意図を逐語的に確定することはできないが、花の盛りからその散るさまを見つめ、この世の無常を悟り、最後には迷いを越えようとする。その意味の流れは一貫している。
すべての仮名を、一度ずつ
いろは歌の第一の特色は、同じ仮名を一度も繰り返さず、当時の基本的な仮名四十七種を一度ずつ使っていることにある。このように、ある文字体系の文字をすべて含む文を「パングラム」といい、しかも各文字をちょうど一度だけ使うものを「完全パングラム」と呼ぶ。いろは歌は、日本語を代表する完全パングラムなのである。
ただし、「日本語のすべての音を一度ずつ使った歌」と説明すると、少し正確さを欠く。
原文には濁点がなく、「と」を「ど」、「か」を「が」、「そ」を「ぞ」、「し」を「じ」、「す」を「ず」と読ませている。重複していないのは、実際に発音される音ではなく、濁点を付ける前の基本的な仮名記号である。
また、現在は通常使われない「ゐ」「ゑ」が含まれる一方、「ん」は含まれない。撥音そのものがなかったのではなく、当時の「ん」が、まだ字母表の独立した一員として確立していなかったからである。
もう一つ興味深いのは、仮名だけを続けた原文には、単語の境界も漢字も濁点も示されていないことである。
読む人は、文法と語彙、そして歌全体の意味を手掛かりに、「いろ・は・にほへど」「わが・よ・たれぞ」と区切り、清音を濁音に変え、そこへ「色」「我が世」「有為」といった意味を復元する。
書かれていない情報を文脈によって補う日本語表記の性質が、作者に多くの選択肢を与える一方、読者にも能動的な解釈を求めている。
現存する最古のいろは歌は、一〇七九年に書写された『金光明最勝王経音義』に、万葉仮名で記されている。作者は分かっていない。古くは空海の作と伝えられたが、空海の時代には区別されていた音が、いろは歌ではすでに一つになっていることや、この歌謡形式が広まった時期などから、現在では平安時代中期以後の成立と考えられている。つまり、いろは歌は文字遊びであると同時に、約千年前の日本語がどのような音を区別していたのかを伝える「言語史の化石」でもある。
「五十音図」と「いろは順」の違いも示唆的である。五十音図は、ア・イ・ウ・エ・オという母音の「段」と、カ行・サ行など子音の「行」を組み合わせ、日本語の音を表の中に整理する。いわば音韻体系の設計図である。これに対し、いろは順には、隣り合う音の規則性がない。歌の中に現れた順番を、そのまま文字の配列へ転用したものだからである。それにもかかわらず長く辞書や分類に使われたのは、意味とリズムをもつ歌として記憶しやすかったためだろう。一編の詩が、社会の情報を並べる共通の物差しになったのである。
なぜ日本語で、このような歌が作れたのか
完全パングラムが成立したことには、日本語、とりわけ仮名文字の特徴が深く関係している。
アルファベットの一文字は、原則として母音または子音という「音の部品」を表す。
英語で二十六文字を一度ずつしか使えないとすれば、a、e、i、o、uという母音字も、それぞれ一度しか使えない。自然な長文を作ることはきわめて難しく、多くの完全パングラムは、珍しい単語や略語を寄せ集めた、やや不自然な文になる。
これに対して仮名の多くは、母音だけ、または子音と母音の組み合わせからなる一拍、すなわち一モーラ(注1)を表す。
「あ」「か」「さ」「た」「な」は、すべて母音aを含んでいるが、文字としては別物である。そのため、「あ」という仮名を繰り返さなくても、aという母音は何度も発音できる。いろは歌が禁じているのは仮名の反復であって、母音や子音そのものの反復ではない。この違いが、四十七拍もの長さをもちながら、意味の通る文章を作る余地を生み出している。
さらに、日本語の伝統的な詩歌は、強く読む音の位置よりも、五拍、七拍という拍数を基礎としてきた。
仮名一字と一拍がおおむね対応するため、「すべての仮名を使う」という文字上の課題と、「七・五のリズムを作る」という詩の課題を、同じ単位で組み立てられる。いろは歌は一般に七五調と呼ばれるが、現存形を厳密に数えると、 七―五/六―五/七―五/七―五 となり、「我が世誰ぞ」だけが六拍である。七拍と五拍を四組そろえるには四十八拍必要だが、使える仮名は四十七字しかない。現存形に見られる一拍の字足らずは、完全パングラムという制約と七五調との間に生じた、わずかな継ぎ目のようにも見える。
もっとも、もとは四十八字だったとする説(注2)もあり、作者が意図的に一拍を削ったとまでは断定できない。
(注1)モーラ モーラとは、日本語のリズムを数える一拍分の単位である。通常は仮名一字が一モーラに対応するが、「きゃ」は二文字で一モーラ、「ん」や小さい「っ」、長音の後半もそれぞれ一モーラとして数える。例えば「がっこう」は「が・っ・こ・う」の四モーラである。俳句や短歌の五・七・五も、正確にはこのモーラ数に基づいている。
(注2)四十八字だったとする説 現在伝わる本文は四十七字で、「我が世誰ぞ」だけが六モーラとなる。亀井孝氏(国文学者:一橋大学名誉教授)は、古く区別されていた二種類の「エ」(ア行のエ :e、ヤ行のエ :je)に着目し、「我が世誰ぞえ/常ならむ」という四十八字の原形を推定した。この形なら七五調が四組そろう。ただし、四十八字形を伝える古写本はなく、音韻史と韻律に基づく復元仮説である。
文法が提供する、小さな部品
日本語の文法も、この難題を解く助けとなった。 日本語には「は」「を」「の」「も」など、一拍の助詞が多い。また、古典語には、動詞の後ろに付いて意味を加える短い助動詞や接続の言葉が豊富にある。
いろは歌を分解すると、 匂へ+ど/散り+ぬる/なら+む/越え+て/見+じ/せ+ず のようになる。
「ど」は逆接、「ぬる」は完了、「む」は推量、「じ」は打消しの意志、「ず」は打消しを表す。
短い文法的部品を動詞の後ろへ連結することで、必要な仮名を一つずつ使いながら、文章全体に細かな意味を与えられるのである。
日本語では、文脈から分かる主語や目的語を、必ずしも言葉にしなくてよい。 後半の「今日越えて、浅き夢見じ、酔ひもせず」には、決意する主体である「私」が明示されていない。それでも私たちは、語り手が迷いの世界を越えようとしていると理解できる。
主語を常に置く必要がなく、英語のような冠詞もなく、動詞が人称や数によって変化しないことも、限られた文字の中へ意味を圧縮するうえで有利に働いた。
とはいえ、日本語なら完全パングラムを簡単に作れるわけではない。普通の文章では「の」「に」「を」などの頻出する仮名を何度も使う一方、「ゐ」「ゑ」のような仮名は使える言葉が限られる。いろは歌では、この使いにくい「ゐ」と「ゑ」も使わなければならないという難題があった。
作者は、「ゐ」を仏教語の「有為」に、「ゑ」を迷いを思わせる「酔ひ」に用いた。必要な文字を無理に押し込むのではなく、それらを歌の中心である「無常」と「迷いからの目覚め」を表す言葉に結びつけたのである。
必要な文字を埋めるために意味を犠牲にするのではなく、制約そのものを主題の形成に利用しているのである。
制約が生んだ、意味の運動
いろは歌の最も優れた点は、四十七文字を使い切ったことだけではない。
- 第一句では、花が美しく咲きながら、すでに散る運命を含んでいることを見つめる。
- 第二句では、その観察を人間と世界の普遍的な無常へ広げる。
- 第三句では、無常を知るだけでなく、有為の奥山を「越える」という行為へ踏み出す。
- そして第四句で、夢や酔いから離れて生きようと決意する。
そこには、観察から一般化へ、理解から実践へ、そして覚醒への、明瞭な精神の運動がある。
通常、厳しい形式的制約を課せば、文章の意味はぎこちなくなりやすい。ところが、いろは歌では、文字の制約、七五調に近いリズム、仏教的な思想が互いを支え合っている。これは単なる技巧ではなく、形式と内容が分かちがたく結びついた言語芸術である。
私たちは日々、限られた時間と状況の中で言葉を選んでいる。 病院では、申し送りや説明、記録の正確さが求められる一方、患者さんや家族に向けた一言には、情報だけでなく安心や配慮も必要になる。制約は、表現を貧しくするだけのものではない。限られた条件があるからこそ、何を残し、どの言葉を選ぶかが研ぎ澄まされることもある。
四十七文字を一度ずつ使いながら、千年にわたって記憶される歌を作り上げた無名の作者。その仕事は、日本語の柔軟さを示すと同時に、言葉を丁寧に選ぶことの力を、今も私たちに静かに教えている。
著者あとがき 〜「あめつちの詞」との比較
完全パングラムとしては、いろは唄の前には、「あめつちの詞」が、知られていました。
「あめつちの詞」は、いろは歌より古い平安時代初期の手習い詞です。当時の日本語で区別されていた四十八の清音節を、一度ずつ使って作られています。
【全文】
【漢字当て】
ただし、「おふせよ」以下は意味がはっきりせず、この漢字表記も確定したものではありません。別の語の区切り方や解釈も提案されています。「あめつちの詞」といろは歌は、どちらも日本語の音を網羅するものですが、完成度には大きな違いがあります。
「あめつちの詞」は、音を集めることには成功したものの、後半の意味が不明瞭です。一方、いろは歌は四十七字を一度ずつ用いながら、七五調に近いリズムと「無常からの解脱」という一貫した思想を成立させています。
つまり「あめつちの詞」は、いろは歌の直接の原形と断定はできないものの、機能上の先駆けといえます。その粗雑さがあるからこそ、後のいろは歌が、いかに高度に構成された作品であるかも分かります。
