モノアミン以外の脳内伝達物質:② アセチルコリン

モノアミン以外の脳内伝達物質:② アセチルコリン

脳を「学習モード」に切り替える物質 〜アセチルコリンと神経・グリア・ミトコンドリア

アセチルコリンと聞くと、多くの人は、神経から筋肉へ命令を伝える物質を思い浮かべるかもしれない。たしかに、私たちが手足を動かせるのは、運動神経の末端から放出されたアセチルコリンが筋肉を収縮させるからである。しかし脳の中での役割は、筋肉に対する働きとはかなり異なっている。脳内のアセチルコリンは、一つひとつの神経細胞に単純な命令を送るというより、脳全体を「目覚め、注意を向け、新しい情報を学ぶ状態」へ切り替える調節物質として働いている。

二種類の受容体

アセチルコリンは、主として前脳基底部脳幹にある神経細胞から放出される。前脳基底部から伸びる神経線維は、大脳皮質や海馬など、注意、学習、記憶に関係する広い領域に届いている。一方、脳幹のコリン作動性神経は、視床や基底核などに投射し、覚醒、睡眠、運動の調節にかかわる。

アセチルコリンを受け取る受容体には、ニコチン性受容体ムスカリン性受容体の二種類がある。 ニコチン性受容体はイオンの通り道となるため、刺激されると神経細胞の電気的状態を素早く変化させる。 ムスカリン性受容体は、細胞内の情報伝達系を介して、神経細胞の反応しやすさを比較的ゆっくり、長く調節する。

さらに、受容体の種類によって作用の方向も異なる。神経細胞を興奮しやすくする受容体もあれば、神経伝達物質の放出を抑える受容体もある。したがって、アセチルコリンを単純に「興奮性の神経伝達物質」と呼ぶのは正確ではない。どこで、どの受容体に、どのような時間幅で作用するかによって、結果が変わるからである。

覚醒と注意をつくる

脳内のアセチルコリンは、覚醒時とレム睡眠中に比較的多く、深いノンレム睡眠中には少なくなる。アセチルコリンが増えると、大脳皮質の神経細胞が同じリズムでゆっくり活動する状態から、それぞれが細かく活発に活動する状態へ移る。これは、脳が外界から情報を受け取る準備を整えた状態といえる。

ただし、アセチルコリンは脳全体を一様に目覚めさせるだけではない。近年の研究では、報酬や罰、予想外の刺激、注意を向けるべき出来事に反応して、特定の場所で短時間だけ放出されることが分かってきた。いわばアセチルコリンは、「今起きたことは重要である」「この情報を学習せよ」という印を神経回路につけるのである。

大脳皮質では、アセチルコリンは外部から入ってくる感覚情報を相対的に強める一方、皮質内部で繰り返される活動を抑えることがある。その結果、背景の雑音に埋もれていた新しい刺激が目立ちやすくなる。私たちが雑踏の中で自分の名前に気づいたり、授業中に重要な説明へ注意を向けたりできる背景にも、このような神経回路の選別機能がある。

記憶の「入力」と「再生」を切り替える

記憶を担う海馬でも、アセチルコリンは重要である。アセチルコリンが多いと、外部から海馬へ入る新しい情報が優先され、神経細胞どうしの結合が変化しやすくなる。これは新しい出来事を記銘する「入力モード」に相当する。

一方、アセチルコリンが少ない状態では、海馬の内部に保存された活動パターンが再生されやすくなる。深い睡眠中にアセチルコリンが低下することは、日中に得た記憶を再生し、大脳皮質へ定着させる過程に適していると考えられている。大まかにいえば、高いアセチルコリンは新しい情報の入力を、低いアセチルコリンは既存記憶の再生を助けるのである。

このように考えると、アセチルコリンは単に「記憶力を高める物質」ではないことが分かる。記憶には、情報を取り込む段階と、保存された情報を呼び戻す段階があり、両者には異なる脳の状態が必要である。アセチルコリンは、その状態の切り替えに関与している。

神経細胞だけに働くのではない

従来、脳の情報処理を担うのは神経細胞であり、グリア細胞は神経細胞を支える脇役だと考えられていた。しかし現在では、グリア細胞も神経伝達物質を受け取り、神経回路の活動を積極的に調節することが明らかになっている。アセチルコリンも、アストロサイト、ミクログリア、オリゴデンドロサイト系の細胞に働く。

アストロサイトは、神経細胞の周囲を取り囲み、細胞外のイオン濃度を整え、神経伝達物質を回収し、血液から受け取った栄養を神経細胞へ供給している。アセチルコリンがアストロサイトのムスカリン性受容体を刺激すると、細胞内のカルシウム濃度が上昇する。このカルシウム信号は、周囲のシナプス活動、局所の血流、エネルギー供給などを調節する。

動物実験では、コリン作動性神経を刺激すると、アストロサイトのカルシウム信号を介して大脳皮質や海馬のシナプス可塑性が変化することが示されている。すなわち、アセチルコリンによる学習促進は、神経細胞だけで完結せず、アストロサイトを含む「神経―グリア回路」によって成立している可能性がある。ただし、アストロサイトがグルタミン酸やD-セリンなどをどの程度放出し、生体内の情報処理に寄与するかについては、なお議論が続いている。

脳内の炎症を調節する

ミクログリアは、脳内の免疫を担当する細胞である。感染や損傷を検出すると活性化し、異物や傷んだ細胞を除去する。しかし活性化が長期間続くと、炎症性サイトカインや活性酸素が過剰に産生され、周囲の神経細胞まで傷つけることがある。

ミクログリアに存在するα7型ニコチン性受容体を刺激すると、NF-κBなどの炎症反応に関係する経路が抑えられ、TNF-α、IL-1βなどの産生が減少することが、細胞実験や動物実験で示されている。この働きは「コリン作動性抗炎症経路」と呼ばれる。ただし、免疫反応を全面的に止めるのではなく、必要な防御反応を保ちながら過剰な炎症を抑える仕組みと理解する方が適切である。また、この領域の研究では、アセチルコリンそのものではなく、ニコチンやα7受容体作動薬を使用した実験が多いことにも注意が必要である。

髄鞘形成のタイミングを調節する

オリゴデンドロサイトは、神経線維を包む髄鞘を形成する。髄鞘は電気信号の伝導を速めるだけでなく、神経線維を代謝的に支える役割も持つ。オリゴデンドロサイト前駆細胞にもムスカリン性受容体が存在する。

興味深いことに、この受容体の刺激は、前駆細胞を未成熟な状態にとどめる方向に働くことがある。反対に、ムスカリン性受容体を遮断すると、成熟と再髄鞘化が促進されることが、培養細胞や脱髄動物モデルで報告されている。したがってアセチルコリンは、髄鞘を単純に増やす物質ではなく、細胞がいつ増殖をやめ、いつ成熟するかを調節する「時間管理」の信号である可能性がある。

ミトコンドリアとの関係

脳は体重の約二%を占めるにすぎないが、安静時にも全身のエネルギーの大きな割合を消費する。神経細胞が発火し、シナプスで情報を伝えるには大量のATPが必要であり、その多くをミトコンドリアが産生している。

アセチルコリンによって神経活動が高まると、細胞膜を出入りしたナトリウムやカリウムを元に戻すためにATP消費が増える。同時に、細胞内へ適度に流入したカルシウムはミトコンドリアに取り込まれ、クエン酸回路と酸化的リン酸化を刺激する。つまりミトコンドリアは、アセチルコリンが作り出した「活動量の増加」を感知し、それに見合うエネルギーを供給する。

しかし、刺激が強すぎてカルシウムが過剰に流入すると、活性酸素の増加、ミトコンドリア膜電位の低下、シトクロムcの放出などが起こり、細胞死へ進むことがある。アセチルコリンの作用は、適度ならエネルギー需要と供給を結びつけるが、過剰ならミトコンドリアへの負荷にもなりうる。

さらに一部の研究では、ミトコンドリアの外膜にもα7型などのニコチン性受容体様タンパク質があり、カルシウムの取り込みやシトクロムc放出を直接調節する可能性が報告されている。ただし、この証拠の多くは単離したミトコンドリアや実験動物から得られたものである。生きたヒトの脳で、神経終末から放出されたアセチルコリンがミトコンドリアへ直接作用しているかは、まだ確立していない。現時点では、神経活動、細胞内カルシウム、炎症反応を介した間接作用の方が、確実性の高い説明である。

「多ければよい」物質ではない

アルツハイマー病では、前脳基底部のコリン作動性神経が障害されるため、アセチルコリンを分解する酵素を阻害する薬が認知症症状の改善に用いられている。一方、抗コリン作用を持つ薬は、特に高齢者では記憶障害やせん妄を引き起こすことがある。

しかし、アセチルコリンが多ければ脳機能が無条件に向上するわけではない。過剰な刺激は注意を狭め、神経回路の柔軟性を損ない、受容体の脱感作を起こすこともある。重要なのは総量ではなく、必要な場所で、必要な時に、適切な受容体が刺激されることである。

アセチルコリンは、神経細胞に情報を伝えるだけの物質ではない。神経回路を学習に適した状態へ切り替え、アストロサイトを通じてシナプスと代謝を調節し、ミクログリアの炎症反応やオリゴデンドロサイトの成熟にも影響する。さらに、その活動はミトコンドリアによるエネルギー産生と結びついている。アセチルコリンとは、神経、グリア、免疫、代謝を横断し、脳全体を「外界に注意を向け、経験から学ぶ状態」へ整える統合的な調節物質なのである。