スタンダール(マリー=アンリ・ベール)の『恋愛論』
失恋の痛みを分析へと昇華させた「恋愛の精神解剖学」
はじめに:情動の分類学としての『恋愛論』
医学において、疾患の分類(Taxonomy)が治療の第一歩であるように、スタンダールは複雑怪奇な「恋愛」という現象を、その発生機序と臨床像に基づいて4つのカテゴリーに分類しました。彼は、恋愛を単なる詩的な美徳ではなく、脳内の「結晶作用」という生理的・心理的プロセスとして記述しようと試みたのです。
1. 恋愛の四類型(The Four Types of Love)
スタンダールは、情熱の源泉とその持続性に基づき、恋愛を以下の4つに大別しました。
① 情熱愛(L’amour-passion)
スタンダールが最も理想とし、かつ「真の病」に近い状態として描いたものです。
• 特徴: 打算が一切なく、相手のために自己を犠牲にすることを厭わない。
• 医学的示唆: 神経伝達物質(ドーパミンやオキシトシン)の過剰分泌による多幸感と、強烈な離脱症状を伴う「急性中毒状態」に近いと言えます。
② 趣味愛(L’amour-goût)
18世紀パリの上流社会に蔓延していた、洗練された「ゲーム」としての愛です。
• 特徴: 傷つくことを避け、機知に富んだ会話を重視する。情熱よりも「良識」が優先されます。
• 医学的示唆: 理性でコントロールされている状態であり、副作用のないプラセボのような恋愛です。
③ 肉体愛(L’amour-physique)
本能的な欲望に基づいた愛です。
• 特徴: 狩猟的な快楽。相手の個性よりも、生物学的な充足が優先されます。
• 医学的示唆: 視床下部や辺縁系主導の反応であり、持続時間は短く、充足後は急速に減衰します。
④ 虚栄愛(L’amour d’amour-propre)
他人に自慢したい、あるいは自分の社会的地位を確認したいという動機から生じる愛です。
• 特徴: 「地位のある人を手に入れた自分」に恋をしている状態。
• 医学的示唆: 自己愛性パーソナリティに近い力学が働いており、外発的な評価に依存するため非常に脆いのが特徴です。
2. 核心概念:「結晶作用(Cristallisation)」
医学部生の皆さんに最も理解していただきたいのが、この「結晶作用」という概念です。これは恋愛の発生機序における「認知の歪み」を説明するモデルです。
塩鉱の枝の比喩:
サルツブルクの塩鉱に枯れ枝を投げ込むと、数ヶ月後には塩の結晶が枝を覆い尽くし、まるでダイヤモンドのように輝く。元の枯れ枝が何であったかはもはや重要ではなく、見えているのは付着した「結晶」の輝きである。
結晶作用のプロセス
- 1. 感嘆: 相手の美点に気づく。
- 2. 自問: 「あの人と接吻したら、どんなに幸せだろうか」。
- 3. 希望: 相手も自分を愛してくれるかもしれないという期待(触媒)。
- 4. 第一の結晶作用: 相手のあらゆる欠点が美徳に変換される。
- 5. 疑念の発生: 相手が自分を愛していないのではないかという不安。
- 6. 第二の結晶作用: 疑念を打ち消すために、さらに強固な理想化が行われる。
このプロセスは、精神医学における「理想化」という防衛機制、あるいは「確証バイアス」の極致と言えます。脳が対象の客観的データ(枯れ枝)を、主観的な願望(結晶)で上書きしてしまう現象です。
3. 医学的視点からの考察:恋愛と病理
スタンダールは、恋愛を一種の「熱病」として捉えていました。
- 強迫観念: 相手のこと以外考えられなくなる状態(OCDにおける侵入思考との類似)。
- 抑うつと躁状態: 相手の一喜一憂に依存する気分変調。
- 心身相関: 失恋が食欲不振、不眠、免疫力の低下を招くことへの鋭い観察。
彼は、この「病」の唯一の処方箋は「時間」と「新しい結晶作用(別の対象)」であると示唆しています。
結びに代えて:臨床家としてのスタンダール的視点
生活の質を左右するのは、しばしばこうした「非合理な情熱」や「主観的な真実」です。病者が抱える苦痛の背後に、虚栄愛による自己喪失や、情熱愛による自己破壊が隠れているかもしれません。
『恋愛論』は、人間の心がいかに容易に「見たいものだけを見る」仕組みになっているかを教えてくれます。この洞察は、他者洞察におけるバイアスを排する際にも、また病者のナラティブを理解する際にも、強力な武器となるはずです。