ずいぶんと変わってきた、脳内モノアミンの理解:①セロトニン
ずいぶんと変わってきた、脳内モノアミンの理解:①セロトニン
「幸福物質」から「脳を再学習可能にする調整信号」へ
セロトニンという言葉を聞くと、「心を安定させる物質」「幸福物質」といった説明を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、現在の脳科学から見ると、こうした説明は分かりやすい反面、かなり単純化されている。
セロトニンは、それ自体が幸福感を直接作り出す物質ではない。また、脳内のセロトニンが少なくなれば必ずうつ病になり、増やせばすぐに治るわけでもない。むしろセロトニンは、脳が外界や身体の変化に応じて、警戒、感情、行動、学習、睡眠、食欲、痛みなどを適切な範囲に調整する神経修飾物質である。
セロトニンによる抗不安・抗うつ効果を一言で表すならば、次のようになる。 セロトニンは不安や抑うつを直接消すのではなく、脳の情報処理と可塑性を変え、安全、報酬、対処可能性を再学習しやすくする。 この考え方は、抗うつ薬の効果が現れるまでに時間がかかる理由や、治療初期にかえって不安が強まることがある理由を理解する手掛かりになる。
セロトニン神経は一つの均一な系ではない
脳内のセロトニン神経の細胞体は、主として脳幹の縫線核群に集まっている。そこから前頭前野、扁桃体、海馬、線条体、視床下部など、広範な脳領域へ軸索を伸ばしている。
以前は、縫線核から放出されるセロトニンが脳全体を一様に安定させるように考えられていた。しかし現在では、セロトニン神経は投射先によって異なるサブシステムに分かれていることが分かってきた。 たとえば、背側縫線核から扁桃体へ投射するセロトニン神経は、不安や警戒を強める方向に働く。(注1)一方、前頭皮質へ投射する神経は、困難な状況における能動的な対処を促進する。同じセロトニン神経でも、どこへ情報を送るかによって、行動に対する作用が反対になるのである。
受容体も多様である。セロトニン受容体には5-HT₁から5-HT₇までの受容体群があり、少なくとも14のサブタイプが知られている。ある受容体は神経活動を抑制し、別の受容体は興奮や細胞内カルシウム信号を促進する。さらに、それが神経終末にあるのか、神経細胞体にあるのか、興奮性ニューロンにあるのか、抑制性ニューロンにあるのかによっても結果は異なる。
したがって、セロトニンを単純に「脳を抑える物質」と考えることはできない。より正確には、各神経回路の反応しやすさ、すなわち「利得」を調節する物質なのである。
薬を飲んでも、なぜすぐには効かないのか
選択的セロトニン再取り込み阻害薬、いわゆるSSRIは、神経終末から放出されたセロトニンの再取り込みを阻害する。薬を服用すると、シナプス周囲のセロトニン濃度は比較的速やかに上昇する。それにもかかわらず、抗不安・抗うつ効果が明確になるまでには、一般に2〜4週間を要する。 この時間差は、かつてモノアミン仮説の弱点と考えられてきた。しかし現在では、セロトニン濃度の上昇は治療効果そのものではなく、脳を変化させる一連の過程を始動させる最初の信号だと考えられている。
SSRI投与直後には、神経終末だけでなく、縫線核のセロトニン神経細胞周囲でもセロトニンが増加する。すると、セロトニン神経自身の表面にある5-HT₁A自己受容体が刺激される。この受容体は、セロトニン神経の活動にブレーキをかける働きを持つ。(注2) その結果、投与初期には「シナプス周囲のセロトニンは増えたが、セロトニン神経の発火は抑えられている」という一見矛盾した状態が起こる。前頭前野や海馬などへのセロトニン出力は、まだ十分に安定していない。
さらに、扁桃体や分界条床核などでは、セロトニンによって不安促進性の回路が刺激されることもある。このため治療初期には、不安、焦燥、落ち着かなさ、睡眠障害、消化器症状などが一時的に強まる場合がある。
2〜4週間の投与によって5-HT₁A自己受容体が次第に脱感作すると、縫線核セロトニン神経の発火が回復する。同時に、投射先にある各種セロトニン受容体の感受性や細胞内信号も再調整される。ここで初めて、セロトニン系全体が治療的な定常状態へ移行し始める。 つまり、効果発現が遅いのは、セロトニンがゆっくり増えるからではない。脳が新しいセロトニン環境へ適応し、神経回路を組み替えるのに時間が必要だからである。
抗不安効果は、恐怖を麻痺させることではない
不安は、本来、生存に必要な機能である。危険を予測し、身体を緊張させ、回避や防御を準備することで、私たちは生命を守っている。したがって、理想的な抗不安作用は、不安を完全に消失させることではない。
不安症では、脳が曖昧な刺激を危険と判断しやすくなっている。安全な表情、音、身体感覚、社会的状況にも過剰な重要性が与えられ、恐怖反応が起こる。また、一度形成された恐怖が別の状況へ広がる「恐怖の般化」や、危険が去った後も警戒が続く状態が生じやすい。 このとき重要な役割を持つのが扁桃体である。扁桃体は、単なる恐怖中枢ではなく、刺激に情動的な意味を与える装置である。扁桃体が過敏になると、本来は中立的な刺激にも「危険」という意味が付与される。
慢性的なセロトニン調節によって、扁桃体が発する脅威信号の強さは次第に適正化される。同時に、前頭前野から扁桃体へのトップダウン制御が回復し、「これは以前の危険とは異なる」「今は安全である」と再評価しやすくなる。
海馬も重要である。海馬は、ある出来事が「いつ、どこで、どのような状況で起きたか」という文脈を記憶する。不安症では、危険だった過去と安全な現在の区別が曖昧になりやすい。海馬機能が改善すると、脳は危険な状況と安全な状況をより正確に識別できるようになる。
したがってセロトニンの抗不安効果は、 危険には適切に反応するが、安全な刺激には反応しない脳へ戻すこと だと表現できる。
これは、ベンゾジアゼピン系薬剤による急性の鎮静作用とは性質が異なる。ベンゾジアゼピンはGABA系を介して神経興奮を比較的速やかに抑える。一方、SSRIは神経回路の反応様式そのものを時間をかけて変化させる。(注3)そのため即効性には乏しいが、安全学習や恐怖消去が定着すれば、より持続的な改善につながる可能性がある。
抗うつ効果は、世界の見え方の修正から始まる
うつ病では、単に気分が沈むだけでなく、情動情報処理に偏りが生じている。失敗、拒絶、非難、悲しい表情などには敏感である一方、好意、成功、報酬、肯定的な表情には反応しにくい。 曖昧な出来事が否定的に解釈され、過去の失敗が優先的に想起される。将来についても、成功より失敗を予測しやすい。この「否定的情動バイアス」が、自己否定、絶望、反芻思考を維持すると考えられている。
興味深いことに、SSRIによる情動情報処理の変化は、本人が「気分が良くなった」と自覚するより早く現れる場合がある。エスシタロプラムを投与されたうつ病患者では、後に治療へ反応した患者ほど、治療開始から約1週間の時点で、扁桃体、島回、前帯状皮質などの恐怖表情に対する反応が低下していた。この時点では、抑うつ症状そのものはまだ大きく改善していなかった。
ここから、次のような順序が想定される。 セロトニン伝達の変化 →否定的バイアスの修正 →日常経験の受け取り方の変化 →気分の改善 薬を飲んだ翌日から、突然世界が明るく見えるわけではない。まず、他人の表情を拒絶的に読みすぎない、失敗だけに注意を奪われない、小さな好意や成功に気づく、といった微細な変化が起こる。
その状態で日常生活を送ると、肯定的な経験が以前より認識されやすくなる。周囲との関係が少し改善し、活動する機会が増え、実際の報酬経験が蓄積される。こうした経験を通して、自己、他者、未来についての予測が徐々に修正され、主観的な気分も改善していく。 セロトニンは幸福感そのものを注入するのではなく、幸福につながり得る出来事を再び受け取れるようにするのである。
アンヘドニアと行動の回復
うつ病では「楽しいと感じない」というアンヘドニアだけでなく、報酬を得るために行動する力も低下する。セロトニンは、前頭前野、線条体、側坐核、手綱核などでドーパミン系と相互作用し、即時報酬と長期的利益の調整、罰を受けた後の行動修正、遅延報酬を待つ能力、努力を継続する能力に影響する。
セロトニンが直接快感を作り出すわけではない。否定的予測や失敗への過剰な重み付けを弱め、「行動してみる」という選択を可能にする。その結果、活動によって現実の報酬が得られ、その経験がさらに行動を促すという好循環が形成される。 この点でも、抗うつ薬の作用と行動活性化療法は相補的である。薬物が行動可能性を回復させ、実際の行動が報酬経験を生み、その経験が神経回路に固定されるのである。
セロトニンは脳を「再学習可能」にする
慢性的なSSRI投与は、BDNFとその受容体TrkB、CREBなどの転写因子、樹状突起スパイン、シナプスタンパク質などに作用し、神経可塑性を高める。健康成人を対象とした脳画像研究でも、エスシタロプラムによるシナプス密度指標の変化は即時ではなく、3~5週間ほどかけて現れる可能性が示されている。 ここでいう可塑性とは、脳が経験によって神経結合を変える能力である。ただし、可塑性が高まるだけで、自動的に治療的変化が起きるわけではない。可塑性そのものには、良い方向も悪い方向もない。
周囲が安全で、支持的な人間関係や適切な心理療法が存在すれば、安全学習、肯定的経験、行動活性化が新しい回路として固定される。逆に、強いストレスや孤立が続けば、脳が再び否定的な学習を強化する可能性もある。
この意味でSSRIは、完成した安心感や幸福感を与える薬というより、 固定化した情動回路を、再学習可能な状態へ戻す薬 と考える方が適切である。認知行動療法や曝露療法との併用が合理的なのも、心理療法が可塑性の高まった脳に「何を学習させるか」を方向づけるからである。
ニューロンだけでなく、グリアも変化する
セロトニンの標的は神経細胞だけではない。アストロサイト、ミクログリア、オリゴデンドロサイト前駆細胞などのグリア細胞も、セロトニン受容体を発現している。 特にアストロサイトは、神経細胞へ栄養を供給するだけでなく、グルタミン酸の回収、シナプス周囲のイオン調節、血流制御、代謝、神経可塑性に関与する。前頭前野では、セロトニンがアストロサイトの5-HT₂受容体とカルシウム信号を介して、グルタミン酸性シナプスの働きを調節する。
抑うつ様状態の動物では、このセロトニン―アストロサイト連絡が障害され、前頭前野のシナプス可塑性に異常が生じることが報告されている。これは、モノアミン系とグルタミン酸系が別々に働くのではなく、アストロサイトを介して結び付いている可能性を示している。
ミクログリアでは、セロトニンが炎症反応や貪食を調節する。一般的には、炎症を抑制する方向に働くのである。しかし、受容体、脳領域、発達段階、ミクログリアの病的状態によっては、サイトカイン産生や貪食への作用が変わる事がある。 オリゴデンドロサイト系では、細胞の成熟、髄鞘形成、軸索への代謝支援に影響する可能性がある。したがって慢性的な治療効果は、神経伝達だけでなく、神経細胞が活動するための脳内環境全体の再調整として理解すべきだろう。
ミトコンドリアが可塑性をエネルギー面から支える
神経回路を作り替えるにはエネルギーが必要である。新しいシナプスを形成し、受容体を移動させ、神経伝達物質を放出・回収し、細胞内カルシウムを調節するには、大量のATPが消費される。その中心を担うのがミトコンドリアである。
げっ歯類の皮質ニューロンでは、セロトニンが5-HT₂A受容体を介してSIRT1–PGC-1α経路を活性化し、ミトコンドリア生合成を促進することが示されている。その結果、ミトコンドリアDNA、酸化的リン酸化、最大呼吸能、予備呼吸能、ATP産生、抗酸化酵素が増加した。
また海馬ニューロンでは、5-HT₁A–Akt–GSK3β経路を介して、ミトコンドリアが軸索内を移動しやすくなる。これは、エネルギー需要の高いシナプスへミトコンドリアを配置する作用と考えられる。
一方、セロトニンはミトコンドリア外膜のMAO-Aによって分解され、その過程で過酸化水素が生じる。適度な活性酸素は細胞適応の信号となるが、過剰になれば酸化ストレスを引き起こす。したがって、セロトニンのミトコンドリア作用にも、生合成・抗酸化を促す面と、代謝によって酸化負荷を生む面がある。
なお、SSRIという薬剤自体にも、セロトニンを介さずにミトコンドリアやTrkB受容体へ作用する可能性がある。このため、セロトニン自身の作用と、抗うつ薬分子の直接作用は区別して考える必要がある。
モノアミン仮説は捨てるのではなく、位置づけ直す
現在、うつ病や不安症を「セロトニンが不足した病気」とだけ説明することはできない。しかし、だからといってセロトニンが重要ではないという結論にもならない。
セロトニンは、神経伝達物質の量だけで症状を直接決める単純な原因ではない。むしろ、扁桃体、前頭前野、海馬、報酬系などの反応しやすさを調節し、グルタミン酸性シナプス、グリア、BDNF、ミトコンドリアを含む広い適応系を動かす「治療の入口」である。
セロトニン・ノルアドレナリンなどのモノアミン系を表層、グルタミン酸性シナプス可塑性を中層、ミトコンドリアを中心とする生体エネルギー系を深層と考えるなら、セロトニンはこれらの層をつなぐ信号である。ただし三層は原因の上下関係ではなく、相互に影響し合う循環構造を形成している。
セロトニンの抗不安・抗うつ作用とは、脳を化学的に鎮静させたり、人工的な幸福感を与えたりすることではない。それは、危険と安全、失敗と成功、絶望と対処可能性を再び区別できるように、脳の学習環境を整えることである。セロトニンは「幸福物質」というより、変化できなくなった脳に、もう一度変化する余地を与える調整信号なのである。
著者追記
(注)1.2.3はセロトニン投与後の、初期反応である。この初期反応のため、不安症状の悪化が懸念され、SSRIの投与開始時にベンゾジアゼピン系薬剤を併用するという考えが見られる。 ただ、指摘される初期反応は、臨床的に問題となる事は少ないとも考えられている。この点について、現在の治療指針から考えてみる。
不安症治療におけるベンゾジアゼピン併用の位置づけ
不安症の薬物療法を開始する際、SSRIとベンゾジアゼピン系抗不安薬を一律に併用することは、基本的には推奨されていない。 ベンゾジアゼピンは即効性に優れ、不安や不眠、身体的緊張を速やかに軽減する一方、連用によって耐性、身体依存、離脱症状、反跳性不安を生じ得る。また、眠気や認知機能低下、転倒、運転能力への影響に加え、「薬がなければ不安に耐えられない」という安全行動を強化し、曝露療法を妨げる可能性もある。
この慎重な姿勢は主要な治療指針にも示されている。NICEガイドラインは、全般不安症に対するベンゾジアゼピンの使用を危機的状況における短期措置に限定し、パニック症については長期転帰への懸念から原則として推奨していない。日本の2025年版パニック症診療ガイドラインも、短期的な有効性は認めながら、研究の質が十分ではなく、依存や離脱などの中長期的問題が適切に評価されていないため、積極的な推奨を行っていない。
ただし、例外はある。頻回で重度のパニック発作、著しい不眠や食事困難、就労不能などの機能障害があり、SSRIによる初期のactivationによって治療継続が困難になる可能性が高い場合には、ベンゾジアゼピンを短期間の「橋渡し療法」として用いることには合理性がある。 実際、パニック症ではSSRIとの併用によって初期の症状安定化が早まることを示した比較試験もある。ただし、最終的な寛解率や長期転帰を改善するという確かな根拠はない。
また、仮にベンゾジアゼピンを使用する場合には、断薬までの計画をあらかじめ立てておく必要がある。(同様のことが、ベンゾジアゼピン系睡眠薬にも言える。) SSRIを少量から緩徐に増量しつつ、ベンゾジアゼピンは最低有効量に限定する。処方開始時に終了時期を共有し、原則として3〜5週間、長くとも2か月程度を目安に減量へ移行することが望ましい。 物質使用症の既往、ベンゾジアゼピン依存歴、アルコールやオピオイドの併用、睡眠時無呼吸、転倒・認知機能低下の危険がある場合は、原則として避けるべきである。
すなわち、ベンゾジアゼピン併用は不安症治療の標準的な開始法ではなく、重症急性期に対象を慎重に選び、出口戦略を定めて行う限定的な介入と位置づけるのが妥当である。
