『文化心理学』の現在地 〜民族間で異なる、”行動と思考の起源”を科学する〜

『文化心理学』の現在地

〜民族間で異なる、”行動と思考の起源”を科学する〜

心はどこまで文化に形づくられるのか

心理学は「普遍的な心」を前提にしてきた

民族間で、ある状況に対する行動パターンが違っている事は、よく指摘されて来た。古くは、日本人の心性を罰の文化と呼び鋭く描いたルース・ベネディクトの「菊と刀」や、土居健郎の「甘えの構造」などが有名である。最近では、日本に住む外国人や日本への旅行者が、YouTubeなどで、日本人と自分たちの違いを指摘している動画が少なく無い数投稿されている。

心理学は長いあいだ、人間の心に普遍的な法則を見いだそうとしてきた。知覚、記憶、感情、動機づけ、自己評価、意思決定、道徳判断。これらは、人間であれば誰にでも共通する基本的な心理過程であり、文化差はその上に乗る表層的な違いにすぎないと考えられがちであった。

もちろん、比較文化研究や文化人類学は以前から存在していた。しかし、主流の実験心理学においては、欧米の大学生を対象に得られた知見が、しばしば「人間一般」の知見として扱われてきた。

Markus & Kitayama 論文の衝撃

この前提を大きく揺さぶったのが、Hazel R. Markus と Shinobu Kitayama による1991年の古典論文 “Culture and the Self: Implications for Cognition, Emotion, and Motivation” である。この論文は、現代文化心理学の重要な出発点の一つとみなされている。彼らの革新性は、単に「文化によって行動が違う」と述べたことにあるのではない。より根本的には、文化は心の外側にある背景ではなく、自己、認知、感情、動機づけそのものを構成する条件である、と論じた点にある。

独立的自己観と相互協調的自己観

Markus & Kitayama が提示した中心概念が、「独立的自己観」と「相互協調的自己観」である。

独立的自己観とは、自己を他者から分離された、自律的で、一貫した内的属性をもつ主体として捉える自己観である。この自己観では、性格、能力、欲求、信念、価値観、選択、達成が「自分らしさ」の中心となる。人は、自分の内面を発見し、それを表現し、自分独自の目標を実現することによって成熟すると考えられる。

相互協調的自己観では、自己は他者や社会的文脈から切り離されたものではない。自己は、家族、友人、職場、役割、義務、期待、地位、場の空気といった関係の中で構成される。ここでは「私は何を望むか」だけでなく、「私はこの関係の中で何をすべきか」「相手は何を期待しているか」「この場で適切な振る舞いは何か」が、自己理解の中心となる。

国民性論ではなく、自己の位置の違い

この区別は、日本人は集団主義的で、西洋人は個人主義的である、という単純な国民性論ではない。むしろ重要なのは、自己がどこに置かれるかという問題である。独立的自己観では、自己は個人の内側に位置づけられる。相互協調的自己観では、自己は関係のあいだに位置づけられる。したがって、同じ「自分」という言葉であっても、その心理学的構造は文化によって異なりうる。

分析的認知と包括的認知

この発想から、文化心理学は大きく展開した。

第一の代表的知見は、認知様式の文化差である。

Richard Nisbettら (参考文献①)は、西洋では対象を背景から切り離し、その属性、カテゴリー、規則、論理によって理解する傾向が強いと論じた。これは分析的認知と呼ばれる。

これに対して、東アジアでは対象を場全体、背景、相互関係、文脈、変化の中で理解する傾向が強いとされる。これは包括的認知、あるいは全体論的認知と呼ばれる。

たとえば、水槽の中を魚が泳ぐ映像を見た場合、分析的認知では、大きな魚、目立つ魚、中心対象の動きに注目しやすい。一方、包括的認知では、水草、背景、小魚、全体の雰囲気、魚と環境の関係にも注意が向きやすい。これは単なる記憶内容の違いではない。世界を、対象中心に見るのか、関係と場の中で見るのかという、知覚と意味づけの基本的姿勢の違いである。

文化は「どこを見るか」にも影響する

第二の知見は、注意の配分における文化差である。 眼球運動研究(参考文献②)では、欧米人は画像の前景にある中心対象を長く見る傾向があり、東アジア人は背景や文脈情報にもより広く視線を向ける傾向が示されてきた。このことは、文化が「考え方」だけでなく、「どこを見るか」という知覚的探索にも影響しうることを示している。文化は意識的な信念の集合ではなく、世界への注意の向け方そのものに入り込んでいるのである。

行動の原因をどこに求めるか

第三の知見は、行動の原因帰属に関する cultural variation (文化差)である。

西洋的文脈では、人の行動をその人の性格、能力、意図、信念など、内的属性から説明しやすい。誰かが失敗すれば、「能力が足りなかった」「努力不足だった」「その仕事に向いていなかった」と説明されやすい。これに対して、東アジア的文脈では、状況、役割、関係、場の制約がより重視される。「その立場なら仕方がなかった」「周囲の状況が悪かった」「関係上、そう振る舞わざるを得なかった」という説明である。

ここには、自己観の違いが深く関わっている。独立的自己観では、行動は個人内部の属性から生じるものと見なされやすい。相互協調的自己観では、行動は関係や文脈の中で生じるものと見なされやすい。 したがって、文化心理学における帰属研究は、単なる判断バイアスの違いではなく、「人間とは何によって動く存在か」という人間観の違いを映し出している。

自尊心と自己批判の文化差

第四の知見は、自尊心と自己批判の文化差である。 西洋心理学では、高い自尊心、自己効力感、自己肯定感は、精神物理的健康や適応の重要な指標とされてきた。自分の価値を認め、自分の能力を肯定し、自分の選択に自信を持つことが望ましいとされたのである。しかし文化心理学は、この前提が普遍的とは限らないことを明らかにした。

日本を含む東アジア文化では、自己を高く評価することよりも、自己の不足に気づき、改善し、他者の期待に応えることが適応的に働く場合がある。日本人が「まだまだです」「勉強不足です」「皆様のおかげです」と述べる時、それは単純に自己評価が低いことを意味しない。むしろ、それは関係の中で自己を調整し、他者との均衡を保つための文化的実践である。自己批判は病的な自己否定ではなく、自己改善と関係維持のための技法にもなりうる。

選択と認知的不協和の文化差

第五の知見は、選択と認知的不協和に関する文化差である。 古典的な認知的不協和理論では、人は自分で選択したものを後からより好ましく評価し、選ばなかったものを低く評価することで、自分の選択を正当化するとされる。これは、自由に選択した主体としての自己を守る働きである。

しかし文化心理学の研究(参考文献③)では、この選択後の正当化にも文化差があることが示された。北米では、自分の選択を自分自身の内的判断として正当化する傾向が比較的強い。一方、日本では、他者の視線や評価が関与する状況で、選択後の正当化が強く現れることがある。これは、日本的文脈では、選択が単なる個人の好みの表明ではなく、他者との関係の中で意味を持つためである。

幸福感と理想感情の文化差

第六の知見は、感情の文化差である。 文化は、どの感情が生じやすいかだけでなく、どの感情を望ましいと考えるかにも影響する。Jeanne Tsai の ideal affect 理論(参考文献④)では、北米文化では興奮、熱狂、活力、達成感のような高覚醒ポジティブ感情が理想化されやすい。一方、東アジア文化では、平穏、落ち着き、安らぎ、調和のような低覚醒ポジティブ感情が望まれやすい。

つまり、同じ「幸福」であっても、その内容は文化によって異なる。北米的な幸福は、エネルギーに満ち、積極的で、自己を拡張していく感覚に近い。日本的な幸福は、波立たず、落ち着き、他者との関係が保たれ、日常が乱れない感覚に近い場合がある。

文化心理学から見た回復像

この違いは、精神医学や臨床心理学においても重要である。 回復とは、必ずしも活力に満ちて自己実現へ向かうことだけではない。ある文化的文脈では、「普通に過ごせる」「人に迷惑をかけない」「家族や職場との関係を保てる」「気持ちが荒れない」ことが、より実感に近い回復像となる。

道徳判断も文化によって異なる

第七の知見は、道徳判断の文化差である。 西洋近代、とくにリベラルな個人主義社会では、道徳は個人の自由、権利、公正、危害の有無を中心に考えられやすい。ある行為が道徳的に問題かどうかは、「誰かに害を与えたか」「個人の権利を侵害したか」「公平であったか」によって判断されやすい。

しかし多くの文化では、道徳はそれだけでは構成されない。共同体への義務、家族内の役割、年長者への敬意、神聖さ、清浄さ、伝統の維持も、道徳判断に深く関わる。Shweder ら(参考文献⑤)の研究が示したように、道徳は「自律性」だけでなく、「共同体」や「神聖性」の軸によっても支えられる。 したがって、ある社会で非道徳的とされる行為が、別の社会では単なる個人の選択と見なされることもある。逆に、西洋リベラル社会では許容される行為が、共同体規範の強い社会では関係秩序を損なうものとして強く非難されることもある。

WEIRD 問題という方法論的批判

第八の知見は、WEIRD 問題である。 Henrich, Heine, Norenzayan (参考文献⑥)は、心理学研究の多くが Western, Educated, Industrialized, Rich, Democratic、すなわち WEIRD な集団に偏っていると批判した。欧米の大学生を対象に得られた知見を、人間一般の心理法則として扱うことはできない。むしろ、WEIRD 集団は世界の人類を代表しているどころか、かなり特殊な集団である可能性がある。

この批判は、文化心理学の方法論的意義を端的に示している。文化心理学は、「日本人とアメリカ人は違う」と述べるための学問ではない。心理学が「普遍」と呼んできたものの中に、実は西洋近代の高学歴層に特有の自己観や認知様式が混入していたのではないか、と問う学問である。これは、心理学の標準モデルそのものへの批判である。

文化神経科学への展開

第九の知見は、文化神経科学への展開である。 近年、文化心理学は脳科学とも接続しつつある。文化は、信念や言語や行動規範の違いにとどまらず、自己参照、注意、情動調整、社会的評価、他者理解に関わる神経過程にも影響しうる。たとえば、自己に関する情報を処理する際、自己を個人の内面として捉える文化と、関係の中の自己として捉える文化では、自己関連処理の神経活動パターンが異なる可能性がある。

もちろん、文化神経科学には慎重さも必要である。脳活動の差を直ちに文化差として解釈することは危険であり、個人差、社会階層、言語、教育、課題設定の影響を丁寧に統制する必要がある。しかし、文化が経験を通じて神経認知過程にまで関与しうるという発想は、文化心理学の射程を大きく拡張している。

単純な東西比較を超えて

ここで改めて強調すべきことは、文化心理学は固定的な国民性論ではない、という点である。「西洋人は独立的で、日本人は相互協調的である」と単純に断定することはできない。現代日本人にも独立的自己観はある。現代西洋人にも関係的自己はある。さらに、同じ日本人であっても、世代、地域、階層、職業、ジェンダー、教育歴、国際経験によって自己観は異なる。同一人物の中でも、家庭、職場、研究活動、友人関係、SNS 上では異なる自己観が作動する。

したがって、文化心理学の現在地は、単純な東西比較を超えたところにある。現在の文化心理学が問うているのは、「どの国民がどの性格を持つか」ではない。むしろ、「どのような文化的実践、制度、言語、教育、家族構造、経済環境の中で、どの自己観が活性化され、どの心理過程が組織化されるのか」である。文化は、個人の外側にある背景ではなく、個人が自分を経験し、世界を見て、感情を抱き、他者に反応するための構成条件なのである。

心理学教育における意義

この視点は、心理学を学ぶ者にとって特に重要である。 なぜなら、心理学の多くの概念、たとえば自尊心、自己効力感、動機づけ、抑うつ、不安、幸福、道徳性、発達課題などは、一見すると普遍的に見えるが、実際には文化的前提を含んでいる可能性があるからである。高い自尊心は常に望ましいのか。自己主張は常に成熟の指標なのか。感情を表現することは常に健康的なのか。幸福とは活力に満ちた状態なのか、それとも穏やかで波立たない状態なのか。これらの問いに対して、文化心理学は一つの普遍的答えを与えるのではなく、問いそのものを文化の中に置き直す

Markus & Kitayama が開いた道

Markus & Kitayama の論文が開いた道は、まさにここにある。彼らは、西洋心理学が前提としてしてきた「自律等個人」を、人間一般の標準形ではなく、特定の文化的自己観として相対化した。そしてその相対化によって、自己、認知、感情、動機づけ、道徳、精神健康を、文化との相互構成の中で理解する道を開いた。

心は文化の中で成立する

文化心理学の現在地とは、心を文化の中に閉じ込めることではない。むしろ、文化を通して心の多様な成立様式を見い出すことである。 人間の心は、脳内に孤立して存在しているのではない。人は、言語を学び、家族の中で育ち、学校で評価され、社会の規範を身につけ、他者のまなざしの中で自己を形成する。その過程で、何を自分らしいと感じるか、何を恥じるか、何を誇るか、何を幸福と呼ぶか、何を病と感じるかが形づくられていく

文化心理学の現在地

文化心理学は、心の普遍性を否定する学問ではない。むしろ、人間の心を本当に普遍的に理解するためには、まず心理学が暗黙に前提としてきた文化的特殊性を見抜かなければならない、と教える学問である。 その意味で、文化心理学は、現代心理学に対する批判であると同時に、心理学をより深く、より人間的な学問へと拡張する試みでもある。

参考文献

Nisbett, R. E., Peng, K., Choi, I., & Norenzayan, A. (2001). Culture and systems of thought: Holistic versus analytic cognition. Psychological Review, 108(2), 291–310. DOI: 10.1037/0033-295X.108.2.291.

Chua, H. F., Boland, J. E., & Nisbett, R. E. (2005). Cultural variation in eye movements during scene perception. Proceedings of the National Academy of Sciences, 102(35), 12629–12633. DOI: 10.1073/pnas.0506162102.

Kitayama, S., Snibbe, A. C., Markus, H. R., & Suzuki, T. (2004). Is there any “free” choice?: Self and dissonance in two cultures. Psychological Science, 15(8), 527–533. DOI: 10.1111/j.0956-7976.2004.00714.x.

Tsai, J. L. (2007). Ideal affect: Cultural causes and behavioral consequences. Perspectives on Psychological Science, 2(3), 242–259. DOI: 10.1111/j.1745-6916.2007.00043.x.

Shweder, R. A., Much, N. C., Mahapatra, M., & Park, L. (1997). The “big three” of morality: Autonomy, community, divinity, and the “big three” explanations of suffering. In A. M. Brandt & P. Rozin (Eds.), Morality and Health (pp. 119–169). New York: Routledge.

Henrich, J., Heine, S. J., & Norenzayan, A. (2010). The weirdest people in the world? Behavioral and Brain Sciences, 33(2–3), 61–83. DOI: 10.1017/S0140525X0999152X.

著者あとがき

日本人の心性については、以前からさまざまな角度から論じられてきました。ルース・ベネディクトの『菊と刀』や、土居健郎の『「甘え」の構造』は、その代表的な試みです。これらの著作は、日本人の行動様式、対人関係、恥の感覚、依存と自立のあり方を考える上で、今なお重要な参照点であり続けています。

実際、日本人の独特な行動パターンには、一定の文化的説明が可能なものが少なくありません。たとえば、サッカーの試合後に観客が自主的にゴミ拾いをする行動、あるいはコロナ禍におけるいわゆる「マスク警察」に見られた過剰な同調圧力は、日本社会における他者配慮、場の維持、迷惑回避、規範遵守、相互監視の感覚と無関係ではないでしょう。そこには、個人の内的信念だけでは説明しきれない、関係性の中で自己を位置づける心性が働いているように思われます。

しかし、こうした議論は、長らく文化論、文明論、日本人論として語られることが多かったように思います。そのため、鋭い洞察を含みながらも、厳密な科学的検証に耐えられるかという点では、やや曖昧さを残していたことも否定できません。日本人はこうである、西洋人はこうである、という記述は、時に説得的である一方で、国民性論や本質主義に傾く危険も孕んでいます。

その意味で、Hazel R. Markus と Shinobu Kitayama の指摘以降、文化が心理や行動に与える影響が、検証可能な心理学の問題として論じられるようになった意義は非常に大きいと思います。彼らの独立的自己観と相互協調的自己観という枠組みは、従来の日本人論を単に言い換えたものではありません。むしろ、自己、認知、感情、対人行動が、文化的文脈の中でどのように組織化されるのかを、実証研究へ開いていくための理論的装置であったと言えます。

もちろん、文化心理学の知見もまた、単純な東西二分法として扱うべきではありません。現代日本人の中にも独立的自己観は存在しますし、西洋社会の中にも関係的自己は豊かに存在します。文化は個人を一方的に決定するものではなく、状況、世代、階層、職業、教育、ジェンダー、グローバル化の影響を受けながら、複雑に作用します。したがって文化心理学は、「日本人とは何か」を固定的に定義する学問ではなく、「どのような文化的条件のもとで、どのような心の働きが生じやすくなるのか」を問う学問だと理解すべきでしょう。

近年では、文化による心理への影響は、かつて考えられなかったほど多様な視点から論じられるようになっています。この視点の多さは、精神病理学における方法論的多元性とも通じます。人間の心を扱う学問において、一つの理論や一つの尺度だけで全体を説明しようすることには、常に限界があるからです。

精神病理学が、症状を単なる生物学的異常としてではなく、患者の生きる世界、対人関係、意味づけ、時間性の中で理解しようとしてきたように、文化心理学もまた、心を孤立した個体の内部だけでなく、文化的実践と社会的文脈の中で捉えようとします。その意味で、文化心理学は心理学を相対化する学問であると同時に、心理学をより豊かにする学問でもあります。

ここ30年あまりの文化心理学の発展は、まさに目覚ましいものだったと思います。かつて文学的、思想的、あるいは文明論的に語られていた「日本人の心性」や「西洋人の自己」は、いまや実証的心理学の問いとして検討されています。もちろん、まだ多くの課題は残されています。しかし少なくとも、文化と心の関係をめぐる議論は、印象論から検証可能な学問へと大きく踏み出しました。その歩み自体が、文化心理学の最大の成果の一つであると考えています。