『光遺伝学』の成果:記憶を変える神経科学 〜トラウマ治療の可能性
『光遺伝学』の成果:記憶を変える神経科学 〜トラウマ治療の可能性
2026年10月1日、The GuardianのScience Weeklyに、記憶研究者Steve Ramirezへのインタビューが掲載されました。本稿ではこれを入口に、Ramirezらの主要原著から、記憶を操作する研究の到達点と限界を考えます。中心となるのは、新しい薬の臨床試験ではなく、マウスの神経回路を調べた一連の基礎研究です。 そして、その基礎研究を支える技術が、2026年ノーベル生理学医学賞受賞研究である、『光遺伝学』です。
忘れることよりも記憶との関係を変える
ふと耳にした音や、懐かしい匂いから、昔の出来事が鮮やかによみがえることがあります。記憶は、私たちが意識して取り出すものばかりではありません。ときには、思い出したくない経験の方から、現在の生活へ入り込んできます。
もし、その記憶を変えられるとしたらどうでしょうか。つらい出来事を消し去る技術を想像する人もいるかもしれません。 しかし、神経科学が明らかにしつつあるのは、それよりも複雑で、臨床的には重要な問題です。出来事を覚えていることと、それに伴う恐怖や苦痛に支配されることは、必ずしも同じではないのです。
記憶の痕跡であるエングラム
この研究の中心にある言葉が「エングラム」です。 経験によって脳に残される、記憶の物理的な痕跡を意味します。その痕跡を担う神経細胞の集団は、エングラム細胞と呼ばれます。 ただし、一つの神経細胞の中に、旅行や卒業式の映像が保存されているわけではありません。記憶は、複数の脳領域にまたがる細胞の活動や結び付きに支えられています。ある場所の記憶について調べることと、その出来事に含まれる感覚や感情のすべてを解明することは、区別しなければなりません。
理解のために、図書館を思い浮かべてみましょう。一冊の本に関係する情報が、複数の棚に分かれて置かれているとします。海馬の細胞集団は、それらを呼び出す索引の一部にたとえられます。索引を働かせることで関連情報へアクセスできても、その索引の中に全内容が収納されているわけではありません。 この比喩は完全ではありませんが、「記憶の細胞を見つけた」という表現を、脳の中から思い出のファイルを取り出したことと混同しないために役立ちます。研究者が扱っているのは、経験に関わる回路の一部なのです。
経験した細胞に目印を付ける
では、膨大な数の神経細胞から、ある経験に関わる集団をどう見つけるのでしょうか。
Ramirezらは、神経細胞の活動に応じて働くc-Fosという遺伝子の仕組みを利用しました。 特定の時間帯に活動した細胞へ目印を付け、さらに、光に反応するタンパク質を発現させます。後日、脳内に留置した光ファイバーから光を当てると、その集団を再び活動させられます。遺伝子の仕組みと光による操作を組み合わせた『光遺伝学』です。
これは、外から脳を照らすだけで記憶が変わる技術ではありません。あらかじめ標的細胞に光への反応性を持たせる操作が必要です。また、標識されるのは、設定した時間帯に活動した細胞です。「記憶そのもの」だけを完全に選り分ける装置でもありません。 そこで、研究者は対照群を置き、光への反応や行動を比較します。ある経験中に活動したというだけでなく、その細胞を操作したときに何が変わるかまで確かめることが重要なのです。[1,2]
光で呼び出された恐怖反応
2012年、Ramirezらが参加した研究チームは、Natureに重要な実験結果を発表しました。
マウスに、特定の場所で電気刺激を受ける経験をさせ、その際に活動した海馬の歯状回という領域の細胞を標識しました。 後日、別の場所でその細胞を光によって活動させると、マウスは動きを止める「すくみ反応」を示しました。危険に対する防御反応の一つです。 恐怖学習をしていないマウスや、光に反応するタンパク質を持たない対照群では、同じ結果は得られませんでした。[1]
この研究の大きな意義は、観察から操作へ進んだことにあります。 「記憶に伴って活動する細胞がある」という相関だけでなく、その集団を活動させることが、記憶に対応する行動を引き起こすという因果的な証拠を示しました。
もっとも、マウスがどのような主観的体験をしたかは分かりません。研究者が確認したのは、過去の経験に対応する防御反応です。人が昔の出来事を映像や物語として思い出すことと、完全に同一視するわけにはいきません。
偽の記憶とは何を意味するのか
2013年のScience論文では、さらに興味深い実験が報告されました。
まず、マウスに安全な場所Aを探索させ、その際に活動した細胞を標識します。次に、別の場所Bで電気刺激を与えながら、Aに対応する細胞を光で再活性化しました。すると後日、電気刺激を一度も受けていないAでも、すくみ反応が増加したのです。[2] これは、Aの内部表現と、Bで起きた嫌な出来事が人工的に結び付いた、と解釈できます。
「偽の記憶を作った」という表現は、この意味では適切です。しかし、存在しなかった旅行や架空の人物との会話を、マウスの頭の中へ書き込んだのではありません。示されたのは、本来は安全だった場所と恐怖との新たな関連付けです。 科学報道では、短い見出しが研究の範囲を大きく見せることがあります。「記憶を書き換えた」という言葉を目にしたときは、何を操作し、どんな変化を測ったのかまで読む必要があります。
恐怖記憶に別の経験を介入させる
記憶を呼び出すだけでなく、その影響を弱める研究も進められてきました。2022年のNature Communications論文は、その一例です。
研究チームは、雄マウスが雌マウスと接するなどの肯定的経験に関わる歯状回細胞を標識しました。その後、別に学習させた恐怖記憶を思い出す場面で、その集団を再活性化すると、条件によって、その場や後の検査で恐怖反応が弱まりました。[3]
著者らは、恐怖記憶が呼び出されて更新される過程へ、競合する記憶を介入させたと解釈しています。ただし、多数の歯状回細胞をランダムに活動させても効果が認められました。肯定的な内容だけでなく、回路活動への干渉も関係している可能性があります。[3]
したがって、この研究を「楽しいことを考えれば、トラウマは上書きできる」と読み替えることはできません。そのような説明は、実験の条件を飛び越えるだけでなく、苦痛が続く人に「考え方が足りない」という不当な責任を負わせかねません。
反応が弱まることと記憶が消えること
ここで、「記憶を消す」という表現を整理しておきましょう。
記憶が残っていても、それを呼び出す働きや、行動に表す過程が抑えられれば、反応は弱まります。また、以前の危険の学習に加えて、「今は危険ではない」という新たな学習が成立することもあります。後者は、恐怖の「消去学習」を理解する基本的な考え方です。
別の可能性として、思い出した記憶が一時的に不安定になり、再び安定するまでに変化する「再固定化」があります。ただし、思い出すたびに必ず記憶が書き換わるわけではありません。人の恐怖学習実験では、予想と実際の出来事とのずれである「予測誤差」が、記憶を変化しやすくする重要な条件として報告されています。[4]
このように、行動の変化には複数の説明があり得ます。「すくまなくなった」という結果だけから、元の記憶が完全になくなったと結論することはできません。
これは研究を過小評価するための注意ではありません。どの過程を変えたのかによって、効果の持続や再発の理解、次に開発すべき介入が変わるからです。治療へつなげるためにも、この区別は欠かせません。
人のトラウマ治療へつながる可能性
臨床への応用を考えるなら、目標は必ずしも「過去の出来事を忘れさせること」ではないでしょう。 出来事は覚えていても、関連する音や場所に触れるたびに、圧倒的な恐怖や身体反応に支配されない。そのような変化を目指すことには、大きな意味があります。
ただし、マウス実験と人の治療との間には距離があります。実験では経験する時点から細胞を標識できますが、人の何年も前の記憶を同じ方法で扱えるわけではありません。遺伝子導入や脳内への光ファイバー留置を伴う点も、臨床応用上の大きな課題です。複雑な経験や意味付けを含む人のトラウマを、場所への恐怖だけで説明することもできません。
人では、記憶の再活性化とプロプラノロールを組み合わせ、再固定化への介入を狙う研究もあります。 2018年の60人の無作為化比較試験では利益が報告されましたが、2021年の66人の試験では、全体として薬剤の効果はプラセボを上回りませんでした。[5,6]
光遺伝学とは別の方法ですが、もっともらしい機序が、そのまま確かな治療効果になるとは限らないことを示しています。
記憶を変える技術を考えることは、私たちが何を残し、何から自由になりたいのかを考えることでもあります。研究の価値は、過去を消す万能の装置を約束する点にはありません。記憶が現在の感情や行動に及ぼす影響を、検証可能な問題として扱えるようにした点にあります。
過去に起きた事実を変えることはできません。しかし、その記憶とともに生きる現在のあり方は、変わり得るかもしれません。エングラム研究は、その可能性を神経回路の側から探る試みなのです。
参考文献
1. Liu X, Ramirez S, et al. Optogenetic stimulation of a hippocampal engram activates fear memory recall. Nature. 2012;484:381–385. 2. Ramirez S, et al. Creating a false memory in the hippocampus. Science. 2013;341:387–391. 3. Grella SL, et al. Reactivating hippocampal-mediated memories during reconsolidation to disrupt fear. Nature Communications. 2022;13:4733. 4. Sevenster D, Beckers T, Kindt M. Prediction error governs pharmacologically induced amnesia for learned fear. Science. 2013;339:830–833. 5. Brunet A, et al. Reduction of PTSD Symptoms With Pre-Reactivation Propranolol Therapy: A Randomized Controlled Trial. American Journal of Psychiatry. 2018;175:427–433. 6. Roullet P, et al. Traumatic memory reactivation with or without propranolol for PTSD and comorbid MD symptoms: a randomised clinical trial. Neuropsychopharmacology. 2021;46:1643–1649.
