『サリエンス』という視点から見た、精神疾病 〜私たちは、世界を平等には見ていない
はじめに
診察室の時計の音、胸の鼓動、通行人の視線、隣席から聞こえる咀嚼音。これらは多くの場合、意識の背景へ退いている。
しかし、ある人には時計の音が耐え難く、別の人には一度の動悸が死の予兆となり、通行人の何気ない視線が強い脅威となる。さらに統合失調症の発症前後には、街の看板やテレビの言葉、他人の仕草など、それまで無関係だった出来事が、突然「自分にとって重大な意味をもつ」と感じられることがある。
このように、刺激や観念が周囲から浮かび上がり、「いま注意し、意味を読み取り、行動すべきもの」として重みづけられる性質を、サリエンス(salience)という。
サリエンスは病的な機能ではない。限られた処理能力しかもたない脳が、膨大な情報から生存や目標に関係するものを選ぶための基本機能である。問題は、何を重要とみなすか、その重みがどれほどか、状況が変われば重みを下げられるか、そして付与された意味を現実に照らして修正できるかにある。
サリエンスは「刺激の強さ」ではなく、脳による重みづけである
赤い点が白い点の中で目立つような物理的特徴は、知覚的サリエンスを生む。しかし臨床で重要なのは、それだけではない。空腹時の食物、危険を知らせる表情、過去の失敗を思い出させる場所などは、物理的には目立たなくても、欲求、情動、記憶、文脈によって高いサリエンスをもつ。
したがって、サリエンスには少なくとも、 ①明るさ、音量、突然の変化などによる知覚的サリエンス、 ②報酬や行動を引き起こす動機づけサリエンス、 ③脅威や嫌悪に関する情動的サリエンス、 ④自分に関係があるという自己関連的サリエンスが含まれる。 これらは重なり合うが、同一ではない。
脳画像研究でサリエンス・ネットワークの主要結節とされるのは、前部島皮質と背側前部帯状皮質である。前部島皮質は、外界の刺激だけでなく、心拍、呼吸、胃腸感覚などの内受容感覚を情動や文脈と統合し、「自分にとって重要な変化」として表象する。背側前部帯状皮質は葛藤、誤り、努力、行動準備に関わり、重要と判定された情報に対して注意と制御資源を動員する。
Seeleyらの研究以降、同ネットワークは、内的思考に関わるデフォルトモード・ネットワークと、課題遂行に関わる中央実行ネットワークの切り替えを助けると考えられている。Menonらのネットワークモデルも、この機能を前部島皮質の中心的役割として説明している。
ただし、「サリエンス」と「サリエンス・ネットワーク」を同義にしてはならない。 「サリエンス」は、刺激や観念に与えられる重要性・優先度という機能的概念であり、 「サリエンス・ネットワーク」は、その重要性を検出し、注意や行動を切り替える脳内ネットワークである。 報酬予測や動機づけには線条体ドパミン系が、脅威評価には扁桃体が、覚醒にはノルアドレナリン系などが関与する。「サリエンス」は一つの脳部位が作る信号ではなく、感覚入力、身体反応、記憶、予測、学習が相互作用して成立する機能である。
予測処理の観点では、脳は入力を受動的に受け取るのではなく、「次に何が起こるか」を絶えず予測している。予測と実際の入力のずれ、すなわち予測誤差が生じると、注意が向けられ、学習が更新される。
ただし、すべての誤差が同じ重みをもつわけではない。「この信号は信頼でき、見逃すと危険だ」という重みが過大になれば、小さな身体感覚や曖昧な視線が意識を占拠する。逆に、何が重要かを示す信号が実際の出来事と対応しなくなれば、中立的な事象に不可解な重要感が生じ得る。
サリエンス形成には扁桃体も重要な役割を担う。 扁桃体は単なる恐怖中枢ではなく、刺激の脅威性、曖昧性、生物学的重要性を迅速に評価し、注意と自律神経反応を準備する。パニック症、社交不安症、視線恐怖、強迫症では、疾患に関連する刺激に対する扁桃体の過剰反応が、前部島皮質による身体感覚の増幅や、前部帯状皮質による警戒・行動準備と結びつく。一方、統合失調症では、明白な脅威への一様な過反応というより、中立的で本来重要でない刺激に扁桃体や海馬系が反応し、情動的意味を誤って付与することが重要である。したがって、扁桃体の異常は「反応量の増大」だけでなく、「何に反応するかという選択性の異常」として捉える必要がある。
過剰なサリエンス 〜対象は理解できるが、重みが下がらない
本稿では便宜上、通常も一定の意味をもつ対象に、脅威、嫌悪、誤り、自己関連性が過度に付与される状態を「過剰サリエンス」と呼ぶ。これは正式な診断用語ではない。対象が比較的一貫し、状況依存性があり、本人が反応の過剰さをある程度認識し、現実検討が概ね保たれる点が、後述する異常サリエンスとの臨床的な違いになる。
強迫症 〜「気にしなくてよい」が実感できない
強迫症では、汚染、加害、確認不足、左右非対称、道徳的過失などの可能性が、異常に高い誤り・脅威価をもつ。戸締まりを確認したという記憶があっても、「本当に大丈夫か」という誤差信号が消えない。
侵入思考そのものは健常者にも生じるが、それを「考えたこと自体が危険である」「完全に否定できなければならない」と評価することで、サリエンスが増幅される。強迫行為は不安を一時的に下げるため、負の強化によって反復される。しかし、確認や洗浄を行うほど、「これは対処を要する重大な信号である」と脳が再学習し、次回の侵入思考はさらに目立つ。
神経科学的には皮質―線条体―視床―皮質回路が中心だが、前部島皮質や背側前部帯状皮質を含むサリエンス・ネットワークと背側尾状核の結合異常も報告されている。Tomiyamaらの研究では、この結合異常と認知的柔軟性の低下との関連が示された。一方、研究によって結合の増加と低下が混在しており、単純な「ネットワークの過活動」だけでは説明できない。強迫観念が多くの場合、自我異和的で抵抗の対象となる点は、妄想との重要な相違である。
パニック症 〜身体内部からの警報が最大化される
パニック症では、心拍の増加、息苦しさ、めまい、発汗といった身体感覚が、「窒息する」「心臓発作を起こす」「制御を失う」という破局的意味を帯びる。身体感覚への選択的注意が感覚を増幅し、それがさらに恐怖と自律神経反応を高める。
結果として、身体感覚→脅威解釈→覚醒→より強い身体感覚、という自己増幅ループが成立する。前部島皮質は内受容感覚と予期不安を結びつける候補領域であり、パニック症では辺縁系およびサリエンス・ネットワークの機能結合変化が報告されている。Pannekoekらの研究が、その代表例である。
この場合、サリエンスが過大なのは主として身体の警報信号であり、世界全体が新しい意味で組み替えられるわけではない。内受容感覚曝露は、動悸や息苦しさを安全な文脈で経験し、「強い感覚は直ちに破局を意味しない」と予測を更新する治療と理解できる。
視線恐怖 〜曖昧な社会的信号が「自分への評価」になる
人の視線は、相手の意図、関心、支配、評価を知らせるため、本来きわめてサリエントな刺激である。社交不安症や視線恐怖では、曖昧な視線が否定的評価や拒絶の信号として解釈されやすい。視線に対する情動反応や、眼差しを処理する自己関連・注意回路の変化も報告されている。社交不安症における眼差しのfMRI研究では、眼差しに対する自己関連的処理を含む広範な回路の関与が示された。
さらに「自分がどう見えているか」という自己注目が強まると、他者を観察するより、赤面、表情、視線の置き方などを監視するようになり、わずかな反応も失敗の証拠になる。
視線恐怖が会社では比較的弱く、通勤や街中などで強いこともあり得る。役割、目的、発言順序が明確な職場では視線の意味を予測しやすいが、見知らぬ人の視線は曖昧で制御しにくいからである。この文脈依存性は、学習された社会的脅威サリエンスを示唆する。
一方、「周囲の全員が自分を監視している」という確信が訂正不能となり、個々の視線を越えて会話、物音、メディアへ自己関連的意味が拡大する場合は、注察妄想や関係妄想との鑑別が必要である。恐怖の強さだけでなく、確信度、反証可能性、意味の拡散、思考障害や幻覚の有無を診るべきである。
ミソフォニア 〜音量ではなく、音の型と意味が耐え難い
ミソフォニアは、咀嚼、嚥下、鼻すすり、呼吸音など、特定の反復音やそれに伴う視覚刺激への耐性が低下し、怒り、嫌悪、不安、逃避衝動、自律神経反応が誘発される状態である。
大きな音一般が苦痛となる聴覚過敏とは異なり、音量よりも音のパターン、発生者、文脈、本人にとっての意味が重要である。自分が出す同じ音には反応が弱い例もあり、単純な聴覚感度の異常では説明できない。
Kumarらの機能画像研究では、トリガー音に対する前部島皮質の過剰反応、情動・記憶・自己関連領域との結合変化、自律神経反応の増大が示された。口や顔の運動表象との過剰な結合を重視する仮説もある。ただし、研究はなお小規模で、特異的な神経マーカーが確立したわけではない。
2022年に国際的な合意定義が示されたが、現在も正式な独立診断としては確立していないことを米国精神医学会も説明している。APAの解説 聴覚過敏、耳鳴、強迫症、PTSD、発達特性、気分・不安症との併存評価が必要である。
[詳しくは、コラム嫌音症(ミソフォニア) 〜サリエンスの異常として考えるを、参照下さい。]
統合失調症の異常サリエンス 〜意味のないものが意味に満ち始める
Kapurは、統合失調症の精神病状態を「異常サリエンス」の形成として説明した。異常サリエンス仮説によれば、線条体ドパミンは、出来事の新奇性、報酬予測誤差、行動価値を学習する信号に関わる。ドパミンの放出が実際の刺激や文脈と適切に同期しなくなると、本来は背景に退く偶然の出来事が、不意に強い重要感を帯びる。
それは「何かが起きている」「これは偶然ではない」という、まだ言葉にならない感覚である。本人はその不可解な体験を説明するために、「テレビが自分に合図している」「人々が監視している」という物語を形成する。妄想は、異常な体験に対する二次的な意味づけとして理解できる。内的な表象や内言が過度の現実性・外部性をもつことは、幻聴の形成にも関係し得る。
分子画像研究では、統合失調症群で線条体のドパミン合成能と放出能が平均的に高いことが支持されている。Howesらのメタ解析では、主要な異常はD2受容体数ではなく、シナプス前ドパミン機能にあるとされた。 しかし、これは全患者に共通する所見ではない。治療抵抗性統合失調症ではドパミン合成能の上昇が目立たない群があり、Bruggerらの解析も大きな異質性を示している。また、実験課題で測定される異常サリエンスや報酬予測誤差信号と、妄想の重症度との関連も一貫しない。異常サリエンス仮説は、精神病体験とドパミンをつなぐ有力な説明モデルだが、統合失調症の全症状・全症例を説明する完成した理論ではない。
統合失調症の異常サリエンスには、線条体ドパミン系だけでなく、海馬も重要な役割を担う。 海馬は記憶の保存装置にとどまらず、現在の出来事を文脈や過去の経験と照合し、新奇性や予測からの逸脱を検出する。とくにCA1から海馬台にかけての過活動は、側坐核―腹側淡蒼球を介して中脳ドパミンニューロンの反応性を高め、本来重要でない刺激にも過大なドパミン信号を生じさせる可能性がある。 さらに海馬の連合記憶機能は、互いに無関係な出来事を結びつけ、不可解な重要感を妄想的な物語へ組織化する過程にも関与し得る。 ただし、海馬過活動から線条体ドパミン異常への因果経路は動物研究で強く支持される一方、ヒトでは関連の方向や患者間の異質性が残されている。
[詳しくは、コラム統合失調症の正体に迫る②:「上流」と「下流」をつなぐ回路の物語(コラム補完)を、参照下さい。]
「過剰」と「異常」はどう違うのか
過剰サリエンスでは、身体感覚、侵入思考、視線、特定音など、対象と反応の対応が比較的安定している。その対象は本来も一定の注意価値をもち、それに付与される脅威や嫌悪の重みが過大なのである。本人は「反応し過ぎだと分かるが、止められない」と語りやすく、回避や強迫行為による一時的な安心が病態を維持する。
異常サリエンスでは、通常は無関係な刺激に予測不能な重要感や自己関連性が付与され、対象が次々に拡大する。問題は単なる強度ではなく、意味づけと現実検討の質的変化にある。
ただし両者の境界は連続的である。 強迫観念がほぼ妄想的な確信をもつ場合もあれば、精神病の初期に本人が体験の奇妙さを自覚している場合もある。「過剰/異常」は疾患名に代わる分類ではなく、症状がどのように成立しているかを問う臨床的な見取り図である。
治療 〜サリエンスを消すのではなく、再調整する
治療目標は、重要な信号を感じなくすることではない。注意の固定、破局的・自己関連的解釈、身体覚醒、回避や儀式という循環をほどき、状況に応じてサリエンスを上げ下げできるようにすることである。
強迫症の曝露反応妨害法、パニック症の内受容感覚曝露、社交不安症・視線恐怖に対する曝露と自己注目の修正は、いずれも「危険である」という予測を、安全な経験によって更新する治療と捉えられる。
ミソフォニアでは、心理教育、環境調整、家族を含む悪循環の整理、怒り・覚醒への対処を組み合わせた認知行動療法に、限定的ながら比較試験の根拠がある。Jagerらのランダム化比較試験 一方、単純な脱感作としての曝露だけを一律に行うことを標準治療とみなせる根拠は乏しく、個別化が必要である。
統合失調症では、抗精神病薬がドパミンD2受容体を介して、異常に付与された重要感を徐々に弱めると考えられる。その間に、安心できる環境と対話を確保し、体験をただ否定するのではなく、別の説明可能性を回復させる心理社会的治療が重要になる。
ただし、不安症状や感覚過敏に抗精神病薬が奏効したという事実だけで、異常サリエンスや潜在的精神病を証明することはできない。薬効には覚醒、情動、注意など複数の作用が含まれ、治療反応は診断検査ではない。
おわりに
精神症状の多くは、存在しない刺激が生じることだけでなく、存在する刺激の「重み」が変わることから始まる。 強迫症では誤りの可能性が、パニック症では身体感覚が、視線恐怖では他者の眼差しが、ミソフォニアでは特定の音とその意味が、意識の前景を占拠する。統合失調症ではさらに、背景だった出来事そのものが、不可解な個人的意味を帯び始める。
サリエンスという概念は、これらを一つの疾患へ還元するためのものではない。患者が「何に」「どのような意味を」「どの程度の確信で」与え、回避や行動によってそれをどう強化しているのかを丁寧に見るための言葉である。
症状の内容だけでなく、世界の中で何が前景化し、何が背景へ退かなくなったのかを問うこと。その視点は、脳科学と精神病理学を結び、診断を越えて患者の体験に近づく手掛かりとなる。
参考文献
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- Menon V, Uddin LQ. Saliency, switching, attention and control: a network model of insula function. Brain Struct Funct. 2010;214:655–667.
- Tomiyama H, et al. Dysfunction between dorsal caudate and salience network associated with impaired cognitive flexibility in obsessive-compulsive disorder. NeuroImage Clin. 2019;24:102004.
- Pannekoek JN, et al. Aberrant limbic and salience network resting-state functional connectivity in panic disorder without comorbidity. J Affect Disord. 2013;145:29–35.
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